第二十五話 素敵な土産を君に
横須賀の片田舎に移り住んだのは、村上加代が5歳の時だった。
教師であった加代の父親が、廃校寸前の小学校に赴任したのがきっかけだった。廃校の話は父親が赴任してから半年後に立ち消えとなったが、これによって加代の家族もまたその町に住み続ける事となった。
そこで出会ったのが、父親の親友の息子であった都倉賢二であった。三つ年上の彼は、加代にとっては兄のような存在であった。意地悪な性格で加代を度々怒らせていたが、同じくらいに面倒見の良い所もあった。
許嫁だと教えられたのは、加代が11歳の時だった。
それから加代にとって兄だった都倉は、異性の男性へと変わった。当初は実感が沸かなかったが、許嫁という単語に意識を向け、考えている内に、いつしか都倉を一人の男として見るようになっていた。
そして自分が昔から抱いていた感情が、兄に対するものではなく、好きな男性に対するものであったと気付いたのは尋常小学校を卒業する前の時。
兄であった、幼馴染であり許嫁の彼は、やがて軍人となり、自分のもとから離れていった――
ふと、加代は記憶の底から朝の陽に当てられた世界へと戻った。
「……!」
自分だけでは余りに広い布団の隙間から、加代は誰かを捜し求めるように起き上がった。
慌てた様子で窓の方に振り返った加代の目の前には、窓の縁側に座っていた都倉が、加代の方に微笑みを向けていた。
「おはよう。よく眠れたか?」
「……あなた」
安堵したかのような泣いてしまいそうな表情を浮かべる加代。それは昔、妹だった頃の加代の頃と変わっていない懐かしいものだった。
「……私、あなたに」
「何も言わなくて良い」
顔を上げる加代に、都倉は歩み寄る。
布団の上で手を着き、泣きそうな顔でこちらを見ている加代の頬に、都倉がそっと手を触れる。
その瞬間、遂に崩壊寸前に陥った加代の顔が下に隠れ、代わりにその頭がコツンと都倉の胸元を突いた。
海軍の桟橋に繋がる検問所の前で、都倉は振り返った。呉の街を背景に立っているのは、自分の背中を見送ってくれる加代であった。
「本当に良かったのか?」
都倉は訊ねるが、加代は小さく頷いた。
「私は十分にあなたから貰ったもの。私の方から、というのもたまにはあっても良いでしょう?」
「……そうか」
都倉の手元には、ケースの他に一つの袋がぶら下がっていた。艦に戻るまでの時間を、加代はこれに費やしてくれる事を協力してくれたのだ。
「本当に有難う。加代、俺は……」
「何も言わなくて良い」
加代の言葉に、都倉はひどく驚いた。
その時に見た加代の笑みは、普段の小動物のようなはにかんだ笑顔ではなかった。
それは、都倉自身がよくするような笑みであった。
「お返し」
初めて見せる小悪魔な笑顔に、都倉は新たな加代の表情を前にして嬉しくなる。
そして、別れの時が来る。
都倉は踵を揃え、自分を見送ってくれる許嫁に敬礼を掲げた。
加代はそんな都倉を、ジッと見詰める。
「行ってきます」
「……はい。行ってらっしゃいませ」
優しげな微笑みを残し、都倉は白い背中を加代に向けた。
それから検問所に向かう都倉は一度も振り向く事なく、加代の視線を受け続けながら、桟橋の方へと歩いていく。
加代も、遠ざかっていく都倉の背中をいつまでも見送っていた。
都倉は、気付いた。
あの日、海軍兵学校への入寮に旅立つ日。駅で町民たちが総出で都倉を見送る中、加代は一人だけその場に来る事はなかった。
こうして初めて彼女に見送られて、都倉はようやく気付いたのだった。
別れを伝えれば、見送ってくれる人が居る。そんな存在が居る事は、とても有難い事であった。
都倉は背中に加代の視線を感じながら、検問所の門を潜った。
艦上に帰ってきた都倉は、自室に荷物を置くと、都倉は雪風を捜しに出た。
その手には一つの袋が下がっている。
艦首甲板に足を向けると、雪風はすぐに見つかった。
「雪……」
声を掛けようとしたが、途中で憚られた。何故なら、海に向かって祈りを捧げている雪風の姿は、どうにも声を掛けにくい様子だったからだ。
しかし雪風の方から都倉の存在に気付いたのか、ゆっくりとその顔が振り返る。
「お帰りなさい、中尉」
「あ、ああ。ただいま」
微笑を以て迎えてくれる雪風の表情に、都倉は圧倒されそうになった。
しかしいつまでも立ち止まっているわけにはいかない。都倉は意を決して、雪風の傍へと歩み寄った。
雪風が、真正面から都倉を迎える。
「陸は楽しまれましたか?」
「ああ。おかげ様で」
都倉は先程までの雪風の様子を思い出して、訊ねた。
「雪風は何をしていたんだ?」
「……私は、祈りを捧げていました」
そう言って、雪風が目を向けたのは瀬戸内の海が広がる水平線の彼方。丁度、日が沈み始めていた。
「これまでに多くの仲間が先に逝ってしまいました。私は、あの戦いで何もできなかった」
「………………」
開戦からこれまでに、沈んだ艦は徐々に増えていた。
特に先のミッドウェーでの海戦においては、多くの艦が喪われた。空母四隻に続き、艦隊の混乱によって『最上』と衝突した『三隈』が沈没している(彼女は日本で最初に沈んだ重巡洋艦となった)。
『雪風』と同じ駆逐艦では睦月型が開戦劈頭に二隻沈み、ミッドウェーで沈んだ空母四隻より先に軽空母『祥鳳』が珊瑚海海戦で撃沈された。
そして雪風の数多い姉妹の陽炎型も、小さくない被害を受けた艦が何隻も出ている。いつ、どの艦が、また喪われるのかわからない。
雪風は、あの敗北から後悔しているのだ。そしてその無念に打ちひしがれているのだ。
彼女の気持ちは痛い程わかる……と言いたい所だが、果たして今の自分にそんな事を言える権利があるのだろうか。
加代にした事を、自身の行為を忘れる程、都倉は哀れな人間ではない。
自分はただ、彼女の無念を晴らす協力をする事しかできない。
そして雪風が、自身が犯したと思い込んでる過ちを赦してやる事ぐらいだ。
都倉が出来る事と言えば、強いて言うのならそれだけであり。
そして、唯一言える事としては、共に戦う事だけ。
「……雪風、俺は」
「――中尉」
都倉が言葉を紡ごうとした時、雪風が先手を切るように口を開いた。
だがそれは雪風の悪気のない所だったようで、すぐに言葉を改めた。
「あ、すみません。どうぞ……」
「いや、雪風から話してくれ」
すみません、とまた謝り、しかし都倉の言葉に甘えて雪風は再び口を開く。
「……私、これからもっともっと頑張ろうと思います」
「雪風?」
「後悔ばかりしては、先に死んだ仲間たちに申し訳が立ちません。ですから、私は彼女たちに恥じない生き方をしたいと思っています」
雪風の言葉に、都倉は驚いた。
そして同時に、彼女のその決意に満ちた顔に。
自分が言わずとも、彼女はわかっていたのだ。
雪風は、忘れていない。
あの約束を。そして、都倉の知らない、かつて秘めた決意を。
その二つを忘れない限り、雪風は決して、自身の心に屈する事はない。
「そうか、そうか。雪風、お前は……偉いな」
「中尉……?」
「俺からは何も言う事はない。俺なんかよりずっと立派なお前に、俺が何かを言う権利も糞もない」
「そんな事はありません。だって、中尉は……!」
「良いんだ。雪風、俺はずっとお前の隣に居ると決めたのだから」
その瞬間、雪風の雪大福のような頬が、みるみるうちにいちご大福のように赤くなった。
そんな彼女の微笑ましい変化を見詰めながら、都倉は言葉を紡ぐ。
「俺は、お前の戦友だ。最後まで一緒に戦おう」
「……はい、中尉」
目の縁にうっすらと涙を浮かべながら、雪風は嬉しそうに微笑む。
その表情に、加代の面影が重なった。
都倉は手元に下げていた袋を思い出し、それを雪風の前に見せ付けた。
「雪風、お前に土産を持ってきた。受け取ってくれないか」
「お、お土産? 本当に持ってきてくれたんですか……」
雪風は驚いたように、その袋を見詰めた。
目の前で都倉が紐解いてやると、中からキラリと光った何かが現れた。
それが何であるのか、雪風は気付いたようにわっと声を上げる。
それは、真珠の指輪だった。
「真珠の加工で有名なある島から直送された名品らしい。これを雪風にどうかと思って」
「これを私に、ですか……」
「もし良ければ、受け取ってもらいたいのだが」
「も、勿論です。嬉しいです、中尉……」
また目の縁に涙を浮かべながら、雪風は都倉から差し出された真珠の指輪を受け取る。
控えめで品の良い素敵な指輪だった。
雪風はその指輪に吸い寄せられるかのように、目をキラキラさせながらジッと眺めていた。
「ありがとうございます、中尉。一生大事にします……!」
本当に嬉しそうな雪風の様子を見て、都倉は安堵した。
加代に感謝しなくちゃな……。
都倉は雪風への土産を一緒に選んでくれた許嫁に、心の内でそっと感謝した。
雪風は、都倉から貰った真珠の指輪を、まるで赤子を抱くかのように大事に胸元へと寄せて、両手の内に握り締めていた。彼女の小さな口から、また一言、都倉への感謝の言葉が紡がれた――




