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駆逐艦『雪風』 ~小さき不沈艦~  作者: 伊東椋
昭和十七年~十八年
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第二十四話 月下の涙

 呉の街は綺麗な碁盤目に区切られているので、不慣れな者でも迷わずに済んだ。

 呉に初めて訪れた加代も呉の地理的恩恵に救われたと言った。

 人通りが賑わう街道を二人で歩いていると、掲示板や柱には「欲しがりません、勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」などの標語がよく目立っていた。

 軍港として名高い呉は、海軍一色なので制服を着た海軍軍人を見る目は温かい。たまに挨拶をする人や、子供たちが憧れるような視線を向けるので、一緒にいる加代の方が恥ずかしがっていた(そして都倉はそんな隣の様子を眺めて楽しんでいた)。

 都倉は加代が泊まっているという旅館に自分も泊まる事にした。

 その旅館は呉の中でも有名な料亭を抱え、味は別嬪だった。配給制になっているはずの米は、闇市から流れてきたのか、真っ白な銀シャリが登場した。刺身は瀬戸内の取れたてで、都倉の舌を目一杯楽しませた。

 『雪風』の主計科が作る料理も美味いが、たまには陸で食べる飯も悪くない。

 女将が用意した飯を食べ、酒を呑み、加代との再会を噛み締める。頬を火照らせた加代は、実に楽しそうであった。

 やがて夜も更け、外から虫の音色が奏でる中、部屋に二枚敷かれた布団に都倉は一方の布団に加代を寝かせた。

 昔の思い出話をしている途中で眠ってしまった加代を布団に寝かせた都倉は、その柔らかい頬をそっと撫でる。

 いくら成長しても、昔と本当に全く変わらない寝顔。

 都倉は開いた窓際から吹き込むそよ風に誘われるように、盃を手に持ちながら縁側に近付いた。

 満月が、夜空にくっきりと浮かんでいた。


 「……日本で見る月も、どこの海で見る月も、そう変わらないものだな」


 夜空を見ている内に、都倉は夜闇の中で燃え上がる『赤城』の炎を記憶に思い起こした。

 口内にまるで苦味が広がっていくような感覚を覚えながら、都倉はその記憶を振り払うように、ぐっと盃を口に添えた。

 熱い液体が喉を通り、苦味が押し流される。

 ハァ、と。都倉は息を吐いた。


 「……俺は、何をしているんだ」


 あの炎を思い出す度に、都倉は自己嫌悪に陥っていた。

 都倉は沈んだ空母たちの艦魂と会った事はない。だが、雪風たちの事を知る身としては、彼女たちの死もまた悲しむべきものだった。

 そして彼女たちと共に海の底に沈んだ大勢の将兵たち。多くの命があの日、ミッドウェーの海に散った。

 しかし帰った先の日本で自分達を待っていたのは、偽りの戦果に喜ぶ国民たち。

 大本営発表の内容を素直に驚きながら話す加代の顔を思い出す。今度はそんな加代に嘘を吐いた自分が嫌になる。

 この戦争は色々な意味で苦しいな。都倉は自嘲するように、もしくは正しくその通り、わらった。


 「……あなたぁ」

 「ッ!?」


 耳に絡みつくようなしな垂れた声と、同時に腕に感じた柔らかい感触に都倉は一瞬驚いた。

 振り返ると、布団に寝ていたはずの加代が、いつの間にか抱き着いていた。


 「ど、どうした。加代」

 「ねぇ、あなた。久しぶりに昔みたいに、一緒に寝ましょうよ」

 「何を言っているんだ、お前は」


 さてはまだ酔っているな。都倉は出来るだけ優しく加代を自分から引き離さそうとするが、意外にも強い力で加代は離そうとしない。


 「よせ。大人しく寝ていろ」

 「ひどい。なんでそんな意地悪するの?」


 火照らせた頬の上にあった瞳が、水面のように揺れる。まずい。都倉は昔から見てきたその瞳に危険を察知した。


 「いつもそう。あなたは昔から、私に意地悪する」

 「すまん。俺が悪かったから、どうか許してくれ」

 「いや、絶対に許さない」


 ぎゅっと、都倉の腕に更に抱き着く加代。


 「一緒に寝てくれるまで、許さないし、放さない」

 「……参ったな」


 こうなっては本当に加代の気が済むまで収まらない。

 都倉は観念したかのように、加代を連れたままゆっくりと布団の方へと向かった。

 都倉が布団に潜り込むと、嬉しそうに加代もその隣に体を滑らせる。


 「おい、そっちにも布団があるだろう」

 「嫌、一緒に寝るの」

 「お前、子供に戻ってないか?」

 「いいの。賢二が傍にいるから、いいの」


 呼び名も昔に戻っている。本当に子供に戻ったかのように、加代は都倉に絡みつくように寄り添う。

 鼻腔に脳を刺激する程の香りが漂う。糞、これは子供の頃になかったものだ。

 脳のある部分を刺激され、変な欲望が働きそうになるのを都倉は理性という名の錠で必死に抑える。

 そんな都倉の頑張りも露知らず、加代はより一層、都倉の体に密着する。


 「……ねえ、賢二。賢二はどうして私からいなくなっちゃうの?」

 「……加代」

 「私、寂しいよ。賢二……」


 裾を震える手で掴む加代に、都倉はじっとその言葉を聞き続ける。

 開戦の前、呉を出航する前夜。都倉は同期との会話を思い出した。

 二度と会えなくなるかもしれないのに、自分は別れを告げに行く事も憚れた。

 別れを伝えるべき相手に、別れを告げなかった。

 だが、別れを告げたくなかったというのも都倉の本音だった。

 死ぬ気はない。国のために死ぬ覚悟はあったが、簡単に死ぬつもりもなかった。

 死にたくないわけではない。只、彼女に別れを言う時まで、死ぬつもりを得なかっただけだ。

 しかし別れを言いたくない。我ながらおかしな話である。

 そのせいで、彼女を、加代を悲しませてしまった。

 つくづく自分の馬鹿さ加減に、愛想が尽きる。


 「すまなかったな、加代。俺は、お前に別れを告げる勇気もなかった、ただの臆病者だ」

 「………………」


 海軍兵学校に向かう時も、都倉は加代に別れを言わなかった。

 また会える。そう信じていた昔の自分は、実に愚かだった。

 今も愚かだ。しかし自分は、その愚かさから抜け出そうとしない。

 別れを告げないという事は、相手を更に傷付かせる行為である事に、都倉は今まで気付けなかったのだ。


 「賢二、何も言わずにいなくならないで。私の傍にいてよ……」

 「……すまない、加代。それは出来ない」


 都倉は、その頬に手を触れる。指に湿り気を感じた。

 自分が別れを告げなかったから。彼女の方から来てしまった。

 都倉はここで決断しなければならない。


 「俺は海軍兵学校に入学した時から、この国のために戦う覚悟を抱いた男だ。だが、そんな男はお前に寂しい思いをさせてしまった。本当に悪かったと思っている。だから、俺が帰る時まで待っていてほしい」

 「………………」

 「加代、お別れだ。元気に生きてくれよ」

 「……私、私」


 ぎゅっと抱き締め、胸元に加代の顔が埋まる。都倉はそっとその頭を優しく撫でた。


 「たとえ、蛍になっても俺は帰ってくるよ。だって俺は……お前の、許嫁なんだからな」

 「……賢二ッ!」


 声を上げて泣き出す愛する許嫁を、都倉は布団の中で優しく抱き寄せた。

 夜空に浮き出ていた満月が、彼女の泣き声をいつまでも聞いていた。


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