第二十三話 呉での再会
六月二十一日、『雪風』は横須賀に入港した。
久方ぶりの横須賀に入る『雪風』であったが、同時に一つの別れの時を迎える意味もあった。
ここで開戦前から艦長を務めていた飛田が『雪風』を去った。後任に17駆逐隊の駆逐艦『磯風』の艦長であった菅間良吉中佐が着任した。
荒々しくもユーモラスな人柄を持っていた飛田艦長は、『雪風』の若い将兵たちから大変良く慕われていた。宴の席では、水兵と肩を組んで歌を唄う姿も見られた。スラバヤ沖では敵兵の救助に全力を注ぎ、強気な中にも優しい心を持った男でもあった。
新艦長の菅間中佐は、飛田とは正反対な見かけであった。物静かで落ち着きがあり、将兵の中には菅間の事をどこか女々しい部分があると言う程であった。
しかし彼が数々の激戦に身を投じる『雪風』を指揮する事になるのは、また別の、そして後の話になる。
更に同時期に、都倉はめでたく中尉へと昇進を果たした。
敗戦の後に昇進というのは複雑な気持ちであったが、都倉は素直に中尉に上がった事を喜ぶ事にした。
横須賀で補給を済ませた後、『雪風』は呉に戻った。懐かしの柱島に着いた16駆内では、都倉の昇進を少女たちが祝っていた。
「おめでとうございます、都倉少尉。 ……じゃなくて、都倉中尉でしたね」
チロリと舌を出し、頬をほのかに赤く染める雪風。しかしその声色は心なしか元気がないように聞こえる。
「有難う、雪風」
都倉は祝福してくれる雪風にお礼を言うが、これから自分が告げようとしている事を思うと、申し訳ない気持ちになってくる。
「本当におめでとうございます、都倉中尉」
「この調子なら、いずれは『雪風』の航海長……いえ、艦長?なんてね」
「ゆ、雪姉の艦長!? 貴様なんかが、許さん……! 許さんぞ!」
そして同じ場に居た雪風の姉妹たち――時津風、初風、天津風も都倉の昇進を祝ってくれていた(内の一人はそうでもない気もするが)。
都倉が気付いているのに、彼女たちが気付いていないはずがない。しかし彼女たちは雪風の様子に関して何も言わなかった。彼女たちにも思う所があるのだろうと、都倉もまたあえて触れなかった。
「そうだわ。中尉の進級祝いに、何かパーッとやりましょうか」
「何かって、何を?」
初風の提案に、時津風が尋ねる。
「それは、例えばお酒でも持ち寄って……」
「そのお酒はどこから?」
「各艦の主計科から拝借するのはどうかしら」
「はい、アウトです。どうかしらではないですよ、お姉ちゃん」
珍しく時津風が初風を叱る光景に、都倉は思わず笑みを漏らす。
そんな都倉の顔を、雪風が陰から見詰めていたのは誰の知る由もない。
「私達がそんな真似したら、幽霊騒ぎだの何だのまた色々と面倒くさい事になっちゃうよ」
「前科があるのか……?」
時津風の発言から生み出した推測を問いかけた都倉に、初風や天津風が知らん顔をする。
そしてそんな姉妹の隣で、時津風が呆れ、雪風が苦笑を浮かべるのであった。
「……気持ちは有難いが、実はこれから陸に泊まりに行くんだ」
「ッ!?」
驚いたのは全員だった。しかし、最も驚いた反応を示したのは雪風だった。
声が漏れかけた口を手で抑え、大きく見開いた目で都倉を見ている。
頬を掻きながら、都倉は言いにくそうに告げた。
「実は横須賀を出た辺りから決めていてな。停泊する予定に合わせて、上陸する事にしたんだ」
上陸は珍しい事ではない。休養のために陸に上がるのは、艦隊勤務に明け暮れる兵たちにとっては仕事の内だとも言って良い。
しかし、一夜限り飲みに上がる事はあっても、一泊するというのは初めてであった。余りに珍しい都倉の行動に、艦魂たちは不審に思った。
「……差し障りが無ければ、何をしに陸に上がるのかお教え頂きたいのですが」
「ん、ああ……」
初風がにこやかに訊ねるが、その笑みは若干引き攣っている。そして歯切れの悪い都倉の返事に、その表情はますます苦くなる。
「人と会うんだ」
都倉の告白に、四人は絶句する。
四人の反応を目の前にした都倉は、困ったような顔になった。
初風や時津風、天津風が顔を見合わせる。
ちょっと待って。さっき、上陸って言ってたよね?
まさか。
ヒソヒソと、何故かその輪に雪風は外されていて、三人が密談を短めに終える。
「……も、もしかしてその人と一夜をムグッ」
「お、お姉ちゃん!」
思わずその言葉を最後まで紡ぎそうになった初風の口を、時津風が慌てて両手で塞ぐ。
聞こえなかったのか、それともフリなのか、都倉はとぼけたとまでは言わないが、平然とした表情で、答えを言う事は無かった。
「……中尉」
発せられたその声に、周囲にいた三人の姉妹たちがギクリと震える。艦隊が一斉に回頭するように、その視線が雪風に向けられる。都倉は雪風の上げられた顔を直視した。
何故か緊張を覚える都倉の前で、雪風は儚い雪のような微笑を浮かべて言った。
「お土産、楽しみにしてますね」
都倉はその顔に対して、ああ、としか言えなかった。
荷物を持って内火艇に乗り込んだ都倉を見送り、初風は雪風に聞こえないように妹たちと会話した。その内容は勿論、都倉が会う人物についてである。
「都倉中尉が会う人って、やっぱりあの人よね……」
「多分……」
「そう考えるのが妥当だろうな」
三人が言っているのは、雪風が前に都倉の部屋で見つけたと言うあの写真の女性の事である。
都倉の方を見送るように見詰める雪風の背後を、三人はチラリと一瞥した。
その背中が、どこか哀愁が漂うものに感じる。
そよ風が、雪風の雲のようなふわっとした長髪を、悲しげに揺らした。
「おいたわしや、雪風お姉ちゃん……」
「しかしこれで雪姉に悪い虫が付く可能性も無くなった。私としては安心する限りだ」
「何言ってるのよ、天津風」
初風がビシッと天津風に向かって人差し指を立てる。
「良い? 私達は軍艦だけど、女でもあるのよ。艦は女しかいない代わりに、乗組員は男しかいない」
「それが何だと言うのだ」
「まだわからない?」
ちなみに時津風も姉が言おうとしている事はわかっていない。そもそも初風本人以外の人間に、この段階で理解せよというのが無理な話だ。
いや、答えを開示されてからも理解し難い話かもしれないが。
「つまり、私達は人間のように恋も出来るのよ。私達が認識できる中尉と雪風。これは神様がもたらしてくれた運命の赤い糸なのよ!」
「………………」
初風の発言に、二人の妹たちはまるで砂漠のような瞳で肩を並べる。
そして互いに顔を見合わせ、何故か噴き出した。
妹たちが何故笑ったのかわからない初風は、少し恥ずかしさを覚えながら訊ねた。
「な、何が可笑しいの?」
「……お姉ちゃんって、意外と乙女ですよね」
「!?」
顔を真っ赤にした初風は、それ以上何も言う事が出来なかった。
呉港の桟橋に艇を着け、士官から水兵まで、軍服姿の軍人たちが各々陸に上がっていく。中には荷物を抱える者もおり、着替えなどを収めたケースを手に持った都倉もその一人であった。
この日の呉は晴天に恵まれ、上陸した者たちの笑顔もよく映えた。都倉も上陸日和だと思いながら、他の艦に戻る兵たちとすれ違いながら敬礼を掲げ、検問所の門をくぐる。海軍の敷地から出ると、呉の街並みが広がっていた。
久方ぶりの呉。都倉は同期たちとよく通っていた酒屋などが並ぶ飲食街とは反対方向に足を向けた。
東洋一の軍港として名高い呉の港町だが、海を離れ、山に向かって坂道を登ると、家屋が立ち並ぶのどかな風景が続いていた。
坂道を歩いていると、ドラ猫が都倉の目の前を横切る。都倉はこの坂道から見渡せる呉の街並みが気に入っていた。
「軍人さん、軍人さん」
声がした方に視線を向けると、幼い男の子が目をキラキラさせながらこちらを見ていた。傍にいた母親が申し訳なさそうに会釈する。都倉は微笑みながら、白い手袋をはめた手を振ってみせた。
都倉のような軍人は、子供たちにとっては憧れの対象であった。学校に通う子供たちは、戦地で戦っている兵隊に手紙を書いたり、手作りの物を送ったりしている。子供たちの存在は、軍人にとっても戦う力の源になり得た。
大きく手を振る男の子と別れ、都倉は坂道を更に登る。振り返ると、港越しに瀬戸内の海が見渡せた。その手前に浮かんでいるのは、小さき駆逐艦『雪風』であった。
申訳ない事をしたかな。都倉の胸の内には、微かな罪悪感がゆらりと揺れていた。
「あれが、あなたが乗っている軍艦なの?」
ふいに声がした方に振り返ってみると、そこにはモンペ姿の女性が立っていた。
彼女は懐かしいはにかんだ表情を携えながら、都倉の方に近付いていった。
都倉はそんな彼女を、快く迎える。
「久しぶりだな、加代」
「ええ、お久しぶりです。本当に……」
そう言う彼女の目の縁には、うっすらと涙が浮かんでいた。
都倉はそっと、彼女を抱き寄せるようにしてその小さな頭を撫でる。
「ただいま、加代」
「……お帰りなさい」
加代と呼ばれた彼女は、噛み締めるように言った。
近くの喫茶店に入った都倉は、ようやく泣き止んだ加代を真正面から対面を果たした。
「ごめんなさい、はしたない所を見せてしまって」
「何を謝る。お前の泣く顔をまた、俺は好きだぞ。泣かせたのは俺だが」
「……相変わらず、意地悪な人」
そう言うと、加代はクスクスと笑った。
その後すぐ注文したコーヒーが二人のもとに届き、都倉は苦味の中にほのかな甘さがあるコーヒーに舌を湿らせながら、加代の様子を観察した。
顔を合わせた瞬間、涙を流した加代の瞳は赤くなっていた。だが、その赤みもうっすらと引いている。涙の跡がくっきりと残った頬は、加代がハンカチで拭き取って綺麗な肌色に戻った。
涙脆いのも昔から変わらない。都倉は思わず笑みを零した。
「まぁ、何を笑っているの?」
「……いや、別に」
「どうせまた意地悪な事でも考えていたんでしょう」
もう、と頬をぷくっと膨らませる加代を見て、都倉は一瞬別の少女の事を思い出す。
「……どうしたの?」
そんな微かな変化さえ、加代は感じ取ったらしい。都倉は何も無い、と答えながら誤魔化すようにコーヒーを再び口に運んだ。
納得はしていないだろう加代の顔。だが、それ以上の追及は無かった。
「それにしても、本当に呉まで来るとはな」
「本当は横須賀で会いたかったのだけれど、あなたの予定が合わなかったもの。今までは我慢できたのに、一度、あなたに会えると思ったら居ても立ってもいられなくなっちゃって、遥々呉まで足を運んじゃったわ」
平然とそんな事を言ってのけてしまう加代に対して、都倉は気恥ずかしそうに無言を貫くだけだった。
加代はそんな都倉の様子を見て、クスクスと笑っている。
先程のお返しか。
昔と比べると、彼女も対抗する方向でやるようになってきた。これが彼女の成長、とも言うべきだろうか。
「仕方ないだろう。横須賀には補給で寄っただけだ」
実は休養も兼ねていたのだが、先の敗北もあって、都倉は陸に上がる気があまり起こらなかった。
横須賀にいるという事を手紙に書いたら、彼女はすぐに再会を乞う手紙を返してきたのはつい数日前。
彼女の頼みとあれば断るわけにもいかず。遥々遠い呉まで会いに行くという彼女の熱い決意により、都倉はそれに応える以外の道はなかった。
「ねえ、前までどこに行ってたの?」
「軍事機密だ。言えない」
「もう、意地悪っ」
「いや、本当に秘密なのだから仕方ないだろう……」
どの艦が何処に行っていたなど、正しく軍の秘密だ。民間人にぺらぺらと喋るものではない。
しかし次に出た加代の言葉に、都倉は愕然とした。
「なーんてね。ミッドウェーに行ってたんでしょう?」
加代がそう言った直後、コーヒーがガチャンと音を立てて机の上に着陸した。
「きゃっ!」
「何故、知ってる?」
驚いた様子を見せた加代の瞳に、都倉の迫真に満ちた顔が映る。
困惑したような表情で、加代は答えた。
「だって、ラジオや新聞がそう言っていましたわよ? 日本海軍が、アメリカの空母を二隻沈めたって……」
「……何だと」
まだ帰ってきたばかりの都倉は知らなかったが、海戦直後の日本国内では、ミッドウェーでの海戦の結果を大々的に報じていた。
但し、その大本営発表は、大半が欺瞞に満ちていた。
「ミッドウェー沖ニ大海戦、米空母二隻撃沈って書いてあったわ。アリューシャンっていう所も攻めて、大勝利したのでしょう? やっぱり日本軍は強いわね」
「………………」
その内容は、都倉の記憶とは大分違っていた。
もちろん都倉が知っている通り、実際の所は全くの正反対であった。
日本側は主力の空母を四隻も失い、敵空母に至っては一隻しか討ち取れなかった。あの海戦は完全に日本の敗北だった。
しかし大本営は国民に敗北を知られる事を恐れ、嘘の発表を報じた。今まで連戦連勝だった大本営発表の誇りを汚したくないという思いが逆に作用してしまった悲しい出来事だった。
「あ、これからは水無月島って名前に変わるのかしら? ミッドウェーはアメリカの島だったものね」
「………………」
「どうしたの? あなた」
「……いや」
都倉は訂正も何もできなかった。実は負けた、寧ろこちらが空母を四隻沈められた、なんて事を言ったら……。
国が国民に嘘を告げている傍らで、軍人がいけしゃあしゃあと真実を教えるべきではない。敗戦とは、これ程までに虚しいものなのか。
「……本当にどうしたの? もしかして、私が言ってる事おかしかった?」
その言葉に対して、都倉はかぶりを振る事しかできない。
「……そんな事はない。何も、おかしな所なんてないさ」
雪風やあの姉妹たちを思い出す。彼女たちがこの事を知ったらどう思うだろう。
特に彼女は――
国や仲間のために戦う彼女に、そんな酷な現実を教えられるわけがない。
都倉は意を決した。
その嘘に、加担しようと――
「大本営の発表通りだ。俺からはそれ以上言えない」
「やっぱり。流石、皇軍だわ」
「ああ」
素直に軍の偉大さを尊敬する加代と、それに同調する意志を演じる都倉。
これが敗北した側の姿なのだ。
都倉は自分がなんて醜い姿を晒しているのだろうと、自身を酷く罵った。




