第二十話 MI作戦
昭和十七年五月二十一日
広島県 呉港
東南アジアから帰還した『雪風』は、開戦前の十一月二十八日の出航から五ヶ月間の作戦行動で、その身は想像以上に傷付いていた。
艦の塗料が剥がれ落ち、艦底にはビッシリと牡蠣が付着していた。艦底に牡蠣や藤壺といったものがこびり付くと、艦の行脚が遅くなるなどの影響が出るので、『雪風』はドック入りする事となった。
ドックで身を清めた『雪風』は、次なる作戦に備えられた。
――作戦名、MI作戦。
MI作戦――所謂ミッドウェー作戦は、米海軍の空母機動部隊を撃滅する事を主眼に置いた作戦である。米軍の要所であるミッドウェー島を攻撃、占領すれば、これを米軍が総力を挙げて奪回に来る事は想像に容易く、その総力として必ず機動部隊が出てくる事は明白だった。
そして誘い出した米海軍の機動部隊を、我が機動部隊が叩くという流れである。
作戦開始を目前とした四月十八日、B25爆撃機が帝都を始めとした日本各地の主要都市を爆撃した。この直前、特設監視艇が爆撃機出撃前の空母部隊を発見しており、爆撃機は空母から発艦したものだと発覚した。
空襲による被害は微少だったが、敵爆撃機の本土侵入を許してしまった事態に陸海軍が大きな衝撃に打たれた。国民の間にも不安が広がり、その後何度も空襲警報の誤報が流された。
作戦立案者でもあり連合艦隊司令長官で在る山本五十六大将は、より一層、ミッドウェー作戦に対する重要性を認識した。
こうしてミッドウェー作戦に対する準備が更に熱を帯びて整えられる事となった。
だが、整えると言っても、肝心の南雲機動部隊は万全と断言するには些か言い難かった。
出撃前夜、呉に集結した艦艇たちの艦魂が一同に会していた。
彼女たちが居る場所は、連合艦隊旗艦――戦艦『大和』の艦内である。日本海軍の艦艇総ての旗艦『大和』を始めとした主力部隊を含め、今作戦主役の南雲機動部隊の空母四隻、護衛部隊、その他輸送船団の艦魂たちまで集い、その数は世界一巨大な『大和』の艦内だからこそ実現できた光景であった。
「以上が、MI作戦に関する事である。何か質問は」
生まれてまだ一年ほど、寧ろこの場にいる艦艇の中では最上位の若輩者であるが、その威風堂々とした物腰は据わっており、毅然とした指導者の風格を十分に表していた。彼女こそが日本海軍が生み出した世界最強の戦艦『大和』の艦魂である。
腰まで伸びた長いポニーテールと、二つの大きな果実を封じ込めた道着は体のラインをはっきりと強調させている。その瞳はまるで刀のように鋭利であった。
手を上げたのは、第一種軍装を身に纏ったショートヘアの少女。その顔は少し厳しい。
「第二航空戦隊所属、飛龍です。想定される敵空母の数は多くても三隻という事ですが、その根拠をお教え願いたい」
彼女は機動部隊の中でも、最も敵空母に対する執念を燃やしていた。真珠湾攻撃において敵空母を仕留められなかった事を誰よりも悔しがっていた。
これに大和が答えた。
「現時点で豪州方面に活動している空母が来たとしても、太平洋に配している敵側の戦力は『エンタープライズ』と『ホーネット』は確実とされ、『ワスプ』の存否に関しては判断できない状態にある。セイロン島での戦いで、捕虜の供述から五航戦が『レキシントン』を撃沈したという見方もある。正規空母の他、特設空母が六隻程度完成しているとされるが、この半数が低速のため出てくる事はないと思われる」
「わかりました。ですが、島にはアメリカの海兵隊が駐在しており、砲台などを備えかなりの防備を固めていると予想します。ところが司令部の想定では、私が思ったよりもずっと少ない規模なのが気になります」
「司令部の判断では、ミッドウェー島には我が軍に対抗できる程の戦力は配備されていないとされる。何故なら我が軍は総力を以て、この島を攻撃するからだ。状況によってはハワイからの増援もあり得るが、島にある敵基地航空隊から空襲を受けるような事があっても、直掩機と対空砲で十分に対処が可能であると想定している」
「……だから、どれもこれも甘いんじゃないかって言ってるのよ」
飛龍が愚痴るように、ポツリと呟いた。
隣で聞いていた姉の蒼龍が、妹の失礼を糾弾する。
「こら、飛龍。総旗艦殿になんて無礼を」
「良いのだ。連合艦隊旗艦とは言え、軍艦としては若輩者だ。遠慮なく言って頂ければ、こちらとしても幸いである」
大和の言葉に、蒼龍は困ったような表情を浮かべるだけだった。
「それに、第一航空艦隊の皆様に関しては、海軍主力の機動部隊として開戦以来休み無く奮戦されているため、疲労が溜まっているとお察しします。如何か何卒、我々も全力で努力します故、共に戦ってくださればと」
「舐めないで! ……失礼、舐めないでください。私共はそこまでヤワではありません」
「……これは、大変失礼を」
無粋な顔を背ける飛龍と、無表情の大和の間でオドオドとする蒼龍。気まずい空気を制する音が鳴った。
ぱんぱん、と誰かが手を叩いた。
「さて。作戦の概要は概ねわかりましたし、私達はこの辺りで退室しましょう」
艦魂たちの視線が、一斉にその少女へと向けられる。彼女は母性溢れる笑顔で、同じ艦隊に所属する姉妹たちを見やった。
「二人とも、今夜はすぐにお休みなさい。貴女達はかけがえのない、期待の星なのですから」
「は、はッ! 赤城殿!」
拗ねている飛龍の分も背負うように、蒼龍が声を上げて応える。
それを見届けると、赤城はクルリと大和の方に振り返った。
「大和さん、ウチの娘たちが失礼を致しました。確かに大和さんの仰る通り、私達は開戦以来、一度もドックに入る事も休暇も無く、太平洋を走りっぱなしでした。なので今日の所は早くお休みを頂戴したいと思います」
「ああ、赤城殿。了解した。ゆっくりと英気を養ってください」
「ありがとう。それじゃあ、私達はこれで」
赤城はぺこりとお辞儀をすると、三隻の空母たちの方に向かった。
「さぁ、加賀さんも行きましょう」
「……全く」
呆れるように溜息を吐いた『加賀』の艦魂を連れ、赤城は二航戦の姉妹たちと共にその場から立ち去った。
「大和」
空母たちが去った直後、大和に声を掛けたのは総旗艦を大和に譲り渡した『長門』の艦魂であった。優し気な微笑、腰下まで伸びた長髪を揺らし、長門はゆっくりと言葉を紡いだ。
「旗艦としての初任務、頑張ってね」
これを聞いた大和は、驚いたように目を見開く。
「了解だ。前旗艦殿」
新旧旗艦同士の二人は、互いに微笑んだ。
「――では、これにて作戦会議を終了する。総員、ワカレッ!」
振り向いた大和は、意気揚々とした表情で号令をかけたのだった。
「はー。そりゃ居心地が良いとは言えなさそうだな」
会議の顛末を聞いた都倉が、率直にそんな感想を漏らした。
雪風は溜息を吐きながら、言った。
「もう、ピリピリした瞬間なんかドキドキでしたよ」
「確かに飛龍の言いたい事はわかるがな。今回の作戦、用心に越した事は無いしな」
にしてもだ――と、都倉は続ける。雪風はその言葉の続きが既に予想できていた。
「何だか、戦艦と空母の間にはそれなりの確執があるっぽく聞こえるのは気のせいか?」
「いいえ、少尉。その感覚は間違いではありません」
雪風はあっさりと肯定した。
「戦術の根本から異なる戦艦と空母は、謂わば対とされる存在同士なのです。特に今、この戦争で空母の有効性が戦艦を覆そうとする勢いです。戦艦の中には、極端に空母の人たちを嫌う方もいらっしゃいます」
人とは対立する生き物だ。個性がある事から、それぞれの主義主張があり、異なる者同士は対立する。
陸軍と海軍が仲が悪いように、更に海軍内では所謂大艦巨砲主義と航空兵主義が衝突する様もたまに見られる。現在の海軍は未だ大艦巨砲主義が多勢を占めているが、空母の活躍によって、兵力の時代は正直に言って空母と航空機に移りつつあると言って良いだろう。
戦艦も空母も護衛の対象であり、艦隊として随伴する設計の駆逐艦としては、両者の関係の狭間にいる立場として、雪風も苦しい思いをしているのだろう。
「艦魂も、人間臭い所があるんだな……」
彼女たちは単に人の姿をしているだけではない。人格がある彼女たちは、自分たちもまた人間と同じように社会を作り、その中で生きている。だが、それは不思議な事ではないと都倉は思っていた。
昭和十七年五月二十二日
この日、『雪風』など第16駆逐隊は主力部隊に先立って呉を出航した。
午前八時二十分に呉港を出て、瀬戸から諸島水道を抜けて最大戦速、各種の戦闘訓練を実施。
午後から輸送船と合流し、護衛配備に就く。そして合流・補給地であるサイパンへと向かった。
昭和十七年五月二十五日
『時津風』、油槽船『日栄丸』が駆逐隊より分離し、7戦隊の補給を行うためにグアムへと向かう。『雪風』などはサイパンへと向かう。
昭和十七年五月二十六日
サイパン港外にて、輸送船十二隻と二水戦、十一航戦(『千歳』)など集結中の光景が広がる。その横を通り抜け、『雪風』は昼頃に投錨した。
夕刻、出航して新桟橋に着岸。重油と生糧品を積む。都倉も人手に駆り出され、汗を流した。雪風は生臭くなった都倉に「臭いますね」と発言し、都倉の怒りを買う。
昭和十七年五月二十七日
海軍記念日の記念式を艦上にて挙行。飛田艦長の訓示に都倉、雪風共に感動し、雪風に至っては泣く。都倉は雪風の号泣っぷりに引く。
そして昭和十七年五月二十八日夕刻――
事前の配備訓練などを終え、『雪風』は第二水雷戦隊(旗艦『神通』を始め、第18駆逐隊『霞』『霰』『陽炎』『不知火』など)の一員として出撃。ミッドウェー方面へと向かう。
機動部隊や『大和』を含めた主力部隊、他の護衛部隊、輸送船団なども呉を出撃した。
此度、日本海軍が総力を結集した大艦隊が出撃し、歴史に残る一大海戦がもうすぐ始まろうとしていた――




