第十八話 初戦果
雪風、遂に初戦果を挙げる。
昭和十七年三月三日
スラバヤ沖 北方海域(北西30マイル)
この日、『雪風』は『神通』などの第二水雷戦隊の一員としてパウエマン島沖を哨戒していた。艦隊には海戦の際に臨時編入してきた第7駆逐隊の駆逐艦たちが同航しており、誰もが周囲に神経を尖らせていた。
何故ならこの前日、艦隊は敵潜を発見し、攻撃を行っていた。自分たちの攻撃から逃れた敵潜は今も、近くに潜んでいる。
敵潜は輸送船団にとっては脅威となり得た。ここで排除しなければならない。
午前六時五十二分、『雪風』は近くにいた駆逐艦『潮』と共に敵潜水艦を捜していた。
「随分と張り切ってるじゃないか、雪風」
「勿論です。今度こそ、私が戦果を得るチャンスなんですから」
「頼もしいな」
先の戦闘でも戦果を挙げられなかった悔しさもあったが、雪風が張り切っている理由は、他にもあった。
それは前々日、戦闘後の夜に遡る。
夜戦を終えた艦隊は、泊地へと一旦戻る方向に舵を取りつつあった。
この夜戦に雪風はまたしても敵を撃沈せしめる事が叶わなかった事に悔しい思いをしていた。そんな折、雪風のもとに来客がやって来た。
「ちょっとお時間は宜しいかしら? 陽炎型八番艦、雪風殿?」
雪風は来客が来ていた事に気付くのが遅れ、慌てて謝罪した。
「も、申し訳ありません! こんなご無礼を……!」
「そんな謝らなくても良いわよ」
来客は可笑しそうに笑った。雪風は恥ずかしさの余り、顔が沸騰しそうだと感じた。
雪風の前に現れたのは、水兵服を着た少女。雪風より背が小さいが、軍艦としては彼女の方が先輩であった。
彼女は吹雪型(特型)駆逐艦二十番艦『潮』の艦魂だった。昭和六年に進水、昭和七年に竣工して、それ以降第7駆逐隊の所属艦として数々の戦場を巡った。
今回の海戦を機に、彼女は姉妹艦の『漣』と共に二水戦に臨時に編入していた。
「何だか落ち込んでいるようだけど、何かあった?」
「い、いえ。何でも……」
「無いって事はないでしょう? どう、話してみたら。結構スッキリするわよ」
「………………」
先輩の催促に、雪風は断る事も出来ない。それに、彼女の言う通りだとも思っていた。
なので、雪風は洗いざらい自分の感情を吐露した。
戦果が立てられない。そして焦りを感じている自分が居ると吐き出す雪風の話を、潮は真剣に黙って最後まで聞いていた。
語り終えた雪風を見詰め、潮は口を開く。
「雪風の気持ちは私も痛い程わかるわ。でもね、焦っていたら良い事なんてない」
「……はい」
「そして、それも雪風は理解している。それでも、やはり焦ってしまう。わかるわぁ」
潮は自分も経験してきたと言わんばかりに、全身に何かが染み渡る感覚を味わうようにうんうんと頷いている。
不安げに視線を上げる雪風に、潮は優しく微笑んだ。
「……君国の為に戦い、戦果を挙げる事が私達の使命。でも、その使命を持った私達だからこそ、その想いは皆で叶えるものでもあるのよ」
「皆で叶えるもの……?」
「そうよ。私や、貴女の姉妹たち、『仲間』がいるじゃない」
仲間。雪風は反芻した。
「雪風、私は貴女の仲間。戦友よ。だから、一緒に敵を倒しましょう。そういう事」
「一緒に、敵を……」
「ええ。私も大陸で漣たちと一緒に何度も戦ってきた。そこで得たのは、仲間の存在の大切さ」
同じ運命を背負い、使命を帯びた仲間が共に居るからこそ、自分たちは存分に戦える。そして戦果を挙げる事が出来る。潮はこれまでの経験から、その答えを得たのだった。
雪風は思い出した。ダバオで過ごした日々の事を。明石や那智たちと共有した時間から、雪風も仲間の大切さを知ったはずだった。
自分はどうしてそんな大切な事を忘れていたのだろう。雪風は、自分を叱ってやりたかった。
そんな自分を赦すかのように、潮の優しい微笑みが向けられる。
「一緒に敵をやっつけましょう。雪風」
「はい! 潮殿!」
雪風は晴れやかな気持ちで敬礼した。潮も嬉しそうに答礼する。
ところで、と。雪風は手を下ろしながら尋ねた。
「潮殿は、どうしてここに……?」
「ちょっと、司令の顔を見たくなってね」
「司令?」
雪風はその言葉を聞いて、すぐにその人物の顔を頭の中に浮かべた。
自分にとって司令と言えば、あの人しかいない。
「もしかして、渋谷大佐の事ですか?」
「ええ、そうよ」
「潮殿は、大佐をご存じなのですか」
「勿論よ。だって、司令はかつて、7駆の司令でもあったもの」
「そうだったのですか!」
潮の告白に、雪風は素直に驚いた。
現在、雪風たち第16駆逐隊の司令である渋谷は、前任は第7駆逐隊の司令を務めていた。
潮は漣と共に、渋谷を司令官として優秀な人物だと当時から評価していた。故に二水戦に加わった時、その中に16駆の司令として居た渋谷の存在を見つけ、久しぶりにその顔を拝みに行きたくなったと言う。
「大佐は、その頃から大人物だったのですね」
「ええ。漣が、『彼は後に司令長官になるかもしれない逸材』と呼んだ程よ」
「それは、すごいですね……」
渋谷の評価は現在の16駆でも将兵の間では高いものだった。雪風も渋谷の事は十分に信頼していた。
だが、雪風が悔しい思いをしていたように、今回の戦闘で指揮を執った渋谷の戦術では、敵艦を討ち取る事は出来なかった。
雪風は渋谷の事を責める気持ちは微塵もない。先程まで只々悔やんでいた事が証拠だ。しかし客観的に観れば、この戦闘における渋谷の戦術は、批判は避けられない結果だったと言わざるを得なかった。
それは後世の者が語る物だが、今そこにいる彼女たちにあるのは、目の前の戦場と自分が如何に戦うかという事だけだ。
「雪風、最後までよろしくね。一緒に頑張りましょう」
「はい、潮殿。よろしくお願いします」
月が燦と輝く夜空の下、先輩と交わした約束が後日の雪風を動かしていた。
あの日の夜を思い出していた雪風は、ふと、水平線の途中にぽっかりと浮いた黒いものを見つけた。
目を凝らして、それをジッと見詰めてみる。
雪風が彼女と共に気付いたのは、ほぼ同時だった。
「敵艦発見!」
見張り兵が報告する。ほぼ同時に、近くを航行していた『潮』も敵艦に針路を取っていた。
発見した敵艦は、捜し求めていた敵潜水艦だった。
都倉が双眼鏡で確認すると、艦に破損が見られた。前日の爆雷攻撃で傷付いた箇所だろう。これで同じ艦である事は間違いない。
損傷を受けた状態の敵潜水艦は、浮上航行をしていた。白波を立てながら、島の反対側を進んでいた。
ドン、と鳴った砲撃音が聞こえた。見ると、『潮』が先に砲撃を開始していた。
都倉は砲弾が飛んでいった先を、双眼鏡で眺めた。やがて、航行していた敵潜のそばに水柱が立ち昇った。
砲弾が着水した直後、敵潜の艦上から人が落ちた。外の空気を吸いに、艦外に出ていた乗組員だろう。運の悪い事に、いきなり砲撃を浴び、驚いて海へと落水する様子を都倉は目撃した。
砲撃に驚いた敵潜が、潜航を始めた。
都倉は驚いた。あの状態で潜れるのかと思った。
しかし敵潜は見事に潜ってしまった。砲弾が降り注ぐが、既に敵潜は海中深くへと潜ってしまっているだろう。
「慌てるな、焦るな……」
雪風がブツブツと呟きながら、敵潜が潜った海を見詰めていた。
艦上で、雪風は耳を澄ませるように目を閉じた。雪風の黒に染まった視界に、ゆっくりと自分の腹の下に広がる世界が映し出される。真っ暗な海中が、雪風の視界にうっすらと広がっていく。
コォン、コォン――
水中探知器が、敵潜を捜す。『雪風』は慎重に、敵潜が潜む海の上を進む。
そして――
コォーン。
敵潜、探知。雪風の閉ざされていた視界に、はっきりと浮かび上がった。
雪風は目を開いた。同時に、『雪風』の艦尾に備えられた爆雷投下台の上に乗った爆雷が解除された。
「爆雷投下!」
都倉は水雷長の号令を真横で聞いた。
敵潜が潜航後、『雪風』は水中探知器を使用しながら馬乗り式で敵潜を攻撃していた。馬乗り式とは、探知した敵潜とぴったりと同航し、その真上に着いたら爆雷を次々と投下するという方法である。
『雪風』の投下台から、次々と爆雷が海中に投げ出され、敵潜の真上に沈んでいった。
やがて、『雪風』の後方からボン、ボンと太い水柱が上がった。
暫くすると、『雪風』が爆雷を投下した位置から大量の重油が海面に浮き出てきた。更に艦内にあったと思われる多くの備品などが顔を出した。
これは『雪風』の爆雷攻撃を浴びた敵潜が、攻撃に耐え切れずに自沈した結果だった。
その光景を見て、都倉たちは敵潜爆沈と確信した。その瞬間、艦橋が歓声に沸いた。
「やったな、雪風!」
都倉は、外で尻餅を付いているであろう少女に賞賛の言葉を贈った。
都倉の予想通り、雪風はぽかんとした表情で、尻餅を付いていた。
重油が浮き出た海面に、大量の備品や残骸が浮いている光景を、雪風は呆然と眺めていた。
「……私、遂に」
実感が沸き始める。ぷるぷると、手に力が戻っていく。
「遂に、敵を……」
雪風は、今までに無い至上の喜びを、感じ取っていた。
そして、目の縁に涙を浮かべ、その場に仰向けで倒れこむ。
「やった。あは、あはは……」
雪風は、この日初めて、戦果を挙げたのだった。
その後、敵潜を撃沈した『雪風』の傍に、接近した『潮』が祝福の意味を込めた信号を送ってきた。艦上で、雪風は親指を立てる潮の姿を見つけた。
この戦闘で、『雪風』は『潮』との共同攻撃を行い、敵潜水艦一隻を自沈せしめた。
こうしてスラバヤ沖の一連の作戦が終わった後、『雪風』は三月十二日、セレベス島マカッサル基地に入った。




