第十六話 スラバヤ沖海戦 後篇
昭和十七年二月二十七日
午後六時三分
スラバヤ沖
転機を確実なものとするべく、敵艦隊の方向へ突撃した第四水雷戦隊は遂にその砲門を開いた。旗艦『那珂』が先陣を切り、勇ましく波の上を駆けながら敵艦隊の先頭にいた『デ・ロイテル』『エクゼター』『ヒューストン』の米英蘭艦に対し、砲撃を開始した。
四水戦が参入した事で、戦闘は一層、激しくなった。
新たな敵の攻撃に、ABDA艦隊は対処に追われ、忙しく動き回っていた。重巡は『那智』『羽黒』などの日本の重巡が中心の5戦隊と応酬し、軽巡と駆逐艦が四水戦の相手をした。
『那珂』と、彼女が率いる六隻の駆逐艦が、敵軽巡と駆逐艦に対し肉薄する。
「皆、何を恐がっているの!? 敵はすぐ目の前にいるわ。突撃あるのみよ!」
先陣を切る那珂が、自分の後ろや周囲にいる他の艦たちに示すように叫ぶ。彼女の後を、六隻の駆逐艦が猪突猛進の如く続いた。
この四水戦の突入によって、日本艦隊はその機会を得たと言わんばかりに、敵艦隊へと肉薄していった。
「砲戦用意!」
「撃ち方始め!」
『雪風』などの駆逐隊も、煙幕の切れ間から砲撃を行った。
晴れ間から『雪風』が放った砲弾が飛び出し、敵艦の近くへと落ちていく。
敵艦もまた、『雪風』へと砲撃を返す。
遠くで敵の砲弾が着弾し、水柱が上がった。雪風はその光景を視界に捉えながら、狙い定めるように敵艦隊をジッと見据える。
そんな彼女の様子は、何かを待っている姿にも見えた。
『雪風』の艦橋では、焦りを滲ませた水雷長の声が上がった。
「魚雷を撃たせてください!」
水雷長は渋谷司令、そして飛田艦長に魚雷による攻撃を嘆願していた。しかし依然として、『雪風』の主砲が火を噴き続けている。
「我が方の魚雷を当てさえすれば、敵は必ず沈みます! 砲戦よりも雷撃による攻撃が確実であると具申致します!」
『雪風』の魚雷発射管は、既に敵艦隊の方を向いており、いつでも発射が可能だった。
だが、飛田も渋谷も、首を縦に振らなかった。
日本海軍が誇る九三式酸素魚雷は、射程距離は三万二千と米英の魚雷を遥かに凌いでいた(米は八千、英は九千五百)。しかも航跡はほとんど無く、静かに敵艦の懐に入り込める。距離は一万五千で、十分に射程距離内。加えて同航戦(両軍が互いに同じ方向に進む)という状況なので、水雷長が言うように絶好の機会と言える。
敵も砲撃に夢中で、大きな変針は無い。魚雷は一発命中すれば、重巡でさえその行動力を半減させる程の威力を持っている。
だが、砲撃戦の最中にある状況下では魚雷の発射は難しいとも言えた。駆逐艦は砲撃しながら魚雷も撃つという芸当は出来ない。もし砲撃を続けながら魚雷を撃てば、その震動で魚雷の調定が狂い、狙いを逸らせてしまう恐れがあるからだ。
水雷科ではない都倉だったが、その事情は知っていた。だが、水雷長の気持ちも痛い程理解していた。
「艦長、撃たせてください!」
「まだ、まだだ」
都倉が水雷長たちのやり取りを眺めていた時、報告が舞い降りた。
「『神通』、魚雷発射!」
誰もがその報告に外を見た。都倉は視界の端に時計を見た。
六時五分。旗艦『神通』が、敵艦隊に向けて魚雷を発射していた。
見張り兵の報告に水雷長が緊張した面持ちを表すが、渋谷、飛田の二人は全く動じた様子を見せない。
水雷長を始め、『雪風』の乗員たちは不満を募らせた『雪風』だったが、今度はドン、と爆発音が聞こえてきた。
見ると、『神通』が発射した魚雷が向かっていった方角から白い水柱が生まれていた。敵艦に辿り着く前に、爆発したのだ。
「機雷か?」
都倉も同じ推測を浮かべたが、実際は機雷ではなく、魚雷の自爆だった。
敵艦に当たっても不発にならないように、小さな震動でも信管が作動するよう調整し過ぎてしまい、波の衝撃などで自爆してしまったというのが真実だった。
僚艦が放った魚雷の自爆を見て、都倉は変な安堵感を覚えていた。
敵艦を魚雷で初めて沈めるという名誉を先に奪われなかったから?
そんな事を考えてしまった自分に、都倉は思わず苦笑した。
結局、『神通』の四本を含め四水戦は計二十七本の魚雷を発射したが、一度も命中せずに終わった。しかも三分の一が自爆していた。
都倉は魚雷戦による初戦果を先に取られなかったと一瞬安堵してしまったが、この『神通』の魚雷爆発で日本側は機雷原があると思い込み、それ以上の近接戦は避ける事になってしまった。
その後、四水戦からは『那珂』の「敵巡洋艦三隻撃沈ス、船団ハ予定ノ如ク行動セヨ」
そして魚雷を先に発射した『神通』からは「本艦魚雷、二・三番艦ニ命中」と報告が届いた。
一方で5戦隊の『那智』『羽黒』はABDA艦隊との距離を維持し、砲撃を続けつつ午後六時二十二分に『羽黒』が魚雷を八本発射した。『那智』も魚雷を発射しようとしたが、原因が不明なまま不発に終わった。ヒューマンエラーが原因という説が濃厚だったが、とにかく撃てなかった時点で、『那智』にとっては限りなく悔しいものであった。
やがて六時三十五分、日本艦隊が放った砲撃の内、一発が『エクゼター』に命中。機関部に炸裂し、速力が低下した。被害を受けた『エクゼター』は単陣形を維持できなくなり針路を左に曲がる。
すると続航していた『ヒューストン』は『エクゼター』の行動をドルーマン少将の命令によるものと勘違いしてしまい、その後ろにいた豪重巡『パース』もそれに従った。先頭を航行していた『デ・ロイテル』は孤立しかけ、南に変針するなど、ABDA艦隊の隊列が乱れた。
更に計三十九本放った魚雷の内、一本が遂に命中。豪駆逐艦『コルテノール』が轟沈した。
一連の日本艦隊の攻撃から生じた混乱により、ABDA艦隊は体勢を立て直すために戦域を一旦離脱する方針を固めた。
だが、日本艦隊は逃がさない。敵艦隊の混乱を認めた日本艦隊は、突撃を敢行した。
「全軍突撃セヨ」
高木司令官の命令が伝えられ、艦隊の全軍が突撃する。
午後六時五十分。『那珂』率いる四水戦(第2駆逐隊『村雨』『五月雨』『春雨』『夕立』、第9駆逐隊一小隊『朝雲』『峯雲』)はABDA艦隊旗艦『デ・ロイテル』の西方二万二千を、そのやや左後方八千に二水戦、そして5戦隊は更にその左後方五千メートルをそれぞれ南下していた。
一方、同じ頃にABDA艦隊も傷つきながらも変針。日本艦隊に背を向く事を止める。
スラバヤ沖の激闘は、日本艦隊の突撃と共に、第二次昼戦に移りつつあった。
第一次昼戦で、日本艦隊の戦果は重巡一を傷つけ、駆逐艦一を沈めた。弾の浪費と時間にしては少ない戦果ではあったが敵よりはマシだった。日本艦隊側に傷ついた艦は一隻も無かったからだ。
傷つき、仲間も一隻失ったABDA艦隊は果敢にも突撃を敢行してきた。陣形を整えつつあったABDA艦隊は、旗艦『デ・ロイテル』を始め、前進した。
一番近くにいたのは、四水戦であった。
これを見て四水戦が真っ先に突撃を始めた。四水戦旗艦『那珂』は敵艦隊に距離一万二千まで近づくと魚雷四本を発射して離脱。第2駆逐隊、第9駆逐隊も更に増速して続き、肉薄攻撃を以て突撃した。
この間、二水戦が現場に到着。四水戦の戦いぶりを目のあたりにし、自分達も突撃を始めた。
「我に続け!」
まず、『神通』が午後七時二十四分に魚雷発射。直後、反転離脱。
更に16駆、24駆一小隊(『山風』『江風』)が九千まで肉薄して魚雷を発射した。
この時、『雪風』も初めて雷撃戦を行った。
『神通』が煙を吐きつつ遁走する『エクゼター』に魚雷を発射していたが、駆逐隊は更に肉薄し、旗艦『デ・ロイテル』を中心とする主隊を狙った。
増速し、敵艦隊に接近する『雪風』の艦橋内は緊張感に包まれていた。
最初は一万以上あった敵との距離が、前に進む毎に、その距離がぐんぐんと縮まっていく。
見張り兵たちの肉眼にも確認できる程、敵艦との距離は近くなっていた。
都倉は双眼鏡を掲げ、敵巡洋艦の姿を捉えた。マストにオランダの国旗。『デ・ロイテル』だ。第5戦隊の砲撃に晒されている『デ・ロイテル』の艦上に視線を移す。傾いた艦載機の水上機を、水兵たちが必死に引っ張っている光景が見えた。
ドン、と。『雪風』の周囲に水柱が上がった。都倉は双眼鏡を向け、『デ・ロイテル』の後ろにいた米艦『ヒューストン』がこちらに砲門を向けているのが見えた。
「こっちも撃ちましょう!」
水雷長の次は、砲術長だ。しかしそれに答えたのは司令の渋谷だ。
「駄目だ。まだ」
またか。都倉は歯痒い思いに駆られた。
しかし司令にもお考えがあるのは理解していた。故に都倉は他の乗員たちと同じようにその時を待つ。
敵との距離が更に縮まる。六千、五千……まだまだ近付く。
「艦長、撃たせてください」
「まだだ」
飛田も首を横に振った。
「砲戦は魚雷戦の後だと相場が決まっている。暫し待て」
これを聞いて、期待の眼差しを向けたのは先程断られた水雷長だ。
『雪風』の周囲に、敵の砲弾が落ちる。
それでも、『雪風』は接近を続ける。
都倉は双眼鏡を覗き続ける。艦上で右往左往している敵兵の内、何人かが接近する『雪風』に気付いた。
こちらに指差して、何かを叫んでいる。都倉はその光景を見据えながら、気分が高揚するのを感じた。
まだ、近付く。一体どこまで接近するのか。
水雷長が我慢の限界だと言わんばかりに叫ぶ。
「艦長、撃たせてください!」
「まだ! まだだ!」
容赦のない飛田の返事。艦は更に増速している。
三十二ノット。窓に水の飛沫が着き、雨に当たったかのように濡れている。
距離四千。双眼鏡を使わずとも、肉眼で敵艦上の様子は見えた。
『雪風』は『デ・ロイテル』の前方五百メートルに艦首を向けた。絶好の射点だ。
しかし尚も命令は下されない。
「うんにょー! 司令、もう良かでごわしょう!」
遂に飛田ですら、耐え切れずに地元の鹿児島弁で声を上げていた。都倉は雪風にも伝染っている飛田の口癖を久しぶりに聞いた。
誰もが、渋谷の横顔を見る。
「まだ、まだ……」
渋谷はぶつぶつと、呟いていた。
『雪風』は更に近付く。
「距離三千!」
――その時だった。都倉は渋谷の目がカッと大きく見開いたのを見逃さなかった。
「良し! やれ!」
渋谷の許可を頂戴した水雷長は、意気揚々と叫んだ。
「発射始めッ!」
水雷長の号令により、『雪風』の魚雷発射管から九三式酸素魚雷が射出された。
艦首甲板にて、飛沫を浴びながら立っていた雪風は、眠るように目を閉じていた。
そして遂に命令が下った時、雪風は目を見開き、右手を掲げた。
「――魚雷、発射!」
雪風がそう叫んだ直後、中部甲板の発射管からプシュウ!プシュウ!と音を立てて、次々と魚雷が発射された。合計八本の魚雷が海面下にダイブし、無気泡状態で静かに航走していった。
雪風が見据えた先に居たのは――旗艦『デ・ロイテル』だった。
こうして『雪風』など第二水雷戦隊が発射した魚雷は六十四本にまでのぼったが、敵艦隊が煙幕を張り大回頭を行ったためにその全てが命中に至らなかった。一方で5戦隊の『那智』『羽黒』はアウトレンジからの砲撃を続けた。しかし、これらの砲撃も距離が遠すぎてまともに当たらなかった。
こうした膠着状態を打破したのは、四水戦の駆逐隊であった。第9駆逐隊の『朝雲』『峯雲』が敵との距離五千まで肉薄し攻撃。今までの戦法とは異なり、反転せずそのまま突撃した。
五千の時点で魚雷を再び発射したが、これも命中せず、二隻は更に接近。
これに対してABDA艦隊側は被弾し速力の低下した『エクセター』の避退を援護するため、英駆逐艦の『エレクトラ』『エンカウンター』『ジュピター』が接近を試みる第9駆逐隊を阻止しようと攻撃。第9駆逐隊からは、煙幕から駆逐艦二隻(『エレクトラ』『エンカウンター』)が飛び出してくるのを確認し、距離三千で砲撃戦となった。
この砲撃戦の結果、自らも大破したものの『朝雲』が『エレクトラ』を撃沈した。
この勇猛果敢な駆逐艦たちの功績により、ABDA艦隊は再び艦を失い、情勢不利と見て戦域を離脱し南下。
その後、ABDA艦隊は傷ついた艦をスラバヤの基地に戻したり、追ってこなくなった日本艦隊の動きを見て船団攻撃に向かおうとし機雷にやられ、そこでまた一隻を失うなどし、不運にもその兵力を減らしていった。
そしてそれからは二回に渡る夜戦が行われ、ABDA艦隊は日本艦隊によって徹底的に叩かれる事となった。
旗艦『デ・ロイテル』など、他の艦もほとんどが沈没し、生き残った艦はオーストラリアへの逃亡を図った。
激闘の連続だったスラバヤ沖海戦は、日本側の勝利に終わった――
開戦後初めての艦隊戦となったスラバヤ沖海戦は日本側の勝利に終わったが、『雪風』は海戦に参加し最前線にて奮闘を見せたものの、自分の手で直接敵を討つ事は叶えられなかった。
その代わり、『雪風』の艦上には不思議な来客たちが溢れていた。
「ヘイ、トクラ! 煙草を一本だけでも良いから、俺にくれないか?」
すっかりこの艦に馴染んでしまったイギリス人の青年が、都倉の肩を叩いてくる。
「またか。本当にお前は捕虜という自覚はあるのか?」
「勿論さ。何て言ったって、捕虜は客のようなもんだ。前にも条約の事を説明しただろう?」
英国海軍のワイシャツを着たイギリス人は、生徒に教えるような感じで口を開く。
「ジュネーブ条約によって、我々は敵に軍事情報を教える義務が無い上に、身分階級に相当する人道的な扱いを受ける権利がある」
「そうだな。いくら尋問しても、お前はイングランドの故郷しか話してくれなかったもんな」
「ああ。女王陛下に忠誠を誓った軍人としての誇りもある」
「敵ながらあっぱれな奴だ。よって、俺はお前に煙草の一本もくれてやらない」
「オーマイガー!」
都倉が何故、『雪風』の艦上で国際交流に明け暮れているのか。それは海戦の最中に取った『雪風』の行動が所以であった。




