第十五話 スラバヤ沖海戦 前篇
いよいよ雪風が初めて挑む本格的な海戦です。
開戦と同時に日本海軍は米国の太平洋艦隊を壊滅させたが、同じ頃にマレー沖海戦で英国の戦艦二隻を沈め、東南アジア方面において最大の脅威であった東洋艦隊を排除した。
日本軍はフィリピンの米軍を駆逐し、フィリピン方面を攻略。次いで石油基地が存在する蘭印の占領を目標に動き出し、シンガポールの陥落を成し遂げ、最終的にジャワ島を占領しようと画策した。
昭和十七年二月八日、ルソン島リンガエン湾泊地を、陸軍の輸送船団三十八隻が出撃した。輸送船団は東西に分かれて進撃し、東部ジャワ攻略部隊として、輸送船には第48師団が分乗していた。これを護衛する第一護衛隊も含めると、約六十隻に及ぶ大規模な船団であった。
支援任務に従事していたチモールから駆け付けた『雪風』は、所属する第二水雷戦隊の各艦と共に、マカッサル海峡にて輸送船団の陣営に加わり、二十六日夕刻に船団の左後方に当たる北東五十マイルの地点に占位した。
『雪風』含む二水戦が船団に合流した同じ日の朝には、既に5戦隊部隊(『『那智』『羽黒』『山風』『江風』)が第一護衛隊に追い付き、その右前方を西進していた。
こうして二水戦を最後に完成した上陸船団は、左側面に第一護衛隊、右側面に5戦隊、その後方に二水戦が陣取り、出撃時から大規模だった船団は更に膨れ上がった。
敵に更なる大打撃を与えるべく、強大な力を蓄えた旭日の大艦隊が、波静かなジャワ海を進んだ。
意気揚々と南国の海を進む大艦隊の中で、都倉は雪風の隣に立っていた。彼女の横顔は出撃からずっと変わっていない。
「張り切っているな、雪風」
「当然です」
無邪気な子供のように、雪風は目を輝かせていた。
「いよいよ敵艦隊と交える事になるかもしれないんです。この魚雷を放つ時を、私はどれだけ待ち望んできた事か」
今までは護衛部隊として上陸部隊の支援ばかりだったからか、雪風は随分と張り切っていた。敵機とは撃ち合っても、自らの魚雷を撃ち放つ機会は訪れた事が無かった。
都倉は中部甲板に添えられた発射管に視線を向ける。
九二式61cm四連装魚雷発射管。『雪風』はそれを二基、八門から九三式酸素魚雷を発射する。『雪風』が誇る自慢の武装の一つだ。
そして雪風がもう一つ、張り切っている理由を都倉は知っていた。
同艦隊にはダバオで共に過ごした那智や羽黒たちが参加していた。つまり、共に戦うという悲願が叶ったという事だ。
もしかしたら、彼女にとってはそれが一番嬉しいのかもしれない。雪風の表情を見て、都倉はそう考えていた。
「(だが、油断は禁物だ……)」
都倉は先日、ある報せを聞いていた。
実はこの時点で、日本海軍は既に敵艦隊と交戦していた。それはバリ島攻略に向かった部隊であった。
大本営はジャワ島攻略のための飛行場確保を目的として、当初は予定になかったバリ島の攻略を決定した。しかしジャワ島攻略作戦が天候不良により発動が遅延した事で、バリ島攻略作戦も延期となった。
攻略に当たる海軍部隊の司令官である久保九次中将は、その後の度重なる作戦延期に業を煮やし、遂に作戦発動を決断した。そして都倉や雪風たちより先立って、彼らは、彼女らは出撃し、敵艦隊と会敵する事となった。
二月二十日夜明け前、米蘭連合軍艦隊が日本船団に対して攻撃を開始。これを日本海軍の護衛部隊が迎撃した事で海戦が勃発した。
戦いは四次に渡って行われ、結果は上陸部隊の揚陸成功と共に日本側の勝利に終わった。
都倉はその報告の中で蘭駆逐艦三隻、米駆逐艦二隻を撃沈したという情報を聞いた(実際は米駆逐艦に関しては一隻撃沈だった)。
しかし日本側も第8駆逐隊の駆逐艦『満潮』『大潮』が被弾し、死傷者が多く出たという報告もあった。
彼女たち第8駆逐隊は、同じ華の二水戦に所属する一輪であった。
8駆の被害を聞いた時、都倉は明日は我が身と、自身を引き締めた。
昭和十七年二月二十七日
スラバヤ沖
その時、前方に飛ばしていた哨戒機から「敵艦隊発見」の報告が旗艦『那智』にもたらされた。
「敵艦隊発見。敵、巡洋艦五、駆逐艦六、スラバヤノ三百十度、六十三浬、針路八十度、速力十八ノット」
この報告を受け、艦隊指揮官である第五戦隊司令官高木武雄少将は、直ちに敵艦隊に向かって増速を命じた。
その前に艦隊は敵飛行艇やB17爆撃機の爆撃を受けたものの、爆弾は『初風』『天津風』の近くに落ちただけで、被害は皆無だった。
「さっきのお返しをするチャンスね。うふふ……」
「……お、応。やってやりましょう、初姉」
敵艦隊発見の報告を聞いて、不敵な笑みを浮かべる初風と、何故か震え上がる天津風だった。
同じ頃、『雪風』にも報告と共に高木少将からの命令が届いていた。
「『那智』より報告!」
通信士が命令を読み上げる。
「敵巡洋艦五隻、駆逐艦六隻、スラバヤノ三百十度、六十三浬、針路八十度、速力十八ノット。第五戦隊ハ直チニコレニ向カウ。一三〇〇、スラバヤノ三百二十八度、百六十五浬、速力二十四ノット。二水戦ハ、現場ニ来会セヨ。一三一五、触接機一機発艦セリ」
これを聞き、二水戦は南東進を続けて会敵予想地点に先行。そこで第5戦隊を待つ事にした。
やがて『那智』の水上偵察機から敵艦隊の動きが逐次報告されるようになった。この情報を元に、二水戦は合流した第5戦隊と共に、船団攻撃に向かおうとする敵艦隊を撃滅するために前進した。
午後一時過ぎ、『雪風』など二水戦は前方から近付いてくる輸送船団を見つけた。
「おお、いっぱい来た」
都倉はその光景に感嘆した。
戦闘が始まるので西方に避退せよと、四水戦から命令を受けた輸送船団が、急いで敵艦隊から逃げていく様子が見られた。敵艦隊に向かう二水戦とすれ違う形となり、多くの輸送船が、『雪風』などの横を通り過ぎていく。
「私達が敵を撃退しないと、あの娘たちが犠牲になっちゃう」
三十八もの輸送船を守るのが自分たちの任務だ。西へと逃げていく彼女たちを背に、雪風は気合いを入れる。
「もうすぐ……」
雪風は、敵がいるであろう水平線の彼方を見据えた。
ジャワ島攻略を目指す日本軍に対して、連合国軍はそんな日本軍の侵攻を阻止すべく、ABDA艦隊を編成した。しかしこれはアメリカ(American)・イギリス(British)・オランダ(Dutch)・オーストラリア(Australian)の各国で構成された臨時の部隊であった。しかも合同訓練は一度も行った事が無い上、司令官になったオランダ軍のドールマン少将は英語を解さなかった。
そのため、寄せ集めの四ヶ国連合軍艦隊は意思疎通が困難になると危惧された。英語を話す艦に、オランダ軍艦は言葉の壁にぶち当たる。かと言って、旗流信号も異なる有様。苦肉の策として、ドールマン少将はオランダ語と英語、両方を解する者を連絡将校として派遣し、艦隊間のコミュニケーション欠落を補おうとした。
意思疎通すら苦労を掛けたABDA艦隊側の兵力は、重巡二、軽巡二、駆逐艦九の合計十四隻となり規模としてはかなりの大艦隊だった。
対して日本艦隊の兵力は、第5戦隊の重巡『那智』『羽黒』を始め、駆逐艦『山風』『江風』『潮』『漣』に続き、二水戦の軽巡『神通』と第16駆逐隊『雪風』『時津風』『初風』『天津風』、四水戦は軽巡『那珂』、第2駆逐隊『村雨』『五月雨』『春雨』『夕立』、第9駆逐隊『朝雲』『峯雲』など。
この他、船団護衛に残った『海風』『涼風』『夏雲』『山雲』を除き、重巡二、軽巡二、駆逐艦十四、合計十八隻の、こちらも決して負けていない大艦隊だった。
昭和十七年二月二十七日
午後四時五十分
スラバヤ沖
波が静かに漂うスラバヤ沖の空は晴天で雲一つなかった。更に日没は午後八時前と予測されていたので、まだまだ空は明るかった。まだ光を失っていない空に、つい先程顔を出したばかりの月が薄く浮き出ていた。
その下を進んでいた『雪風』は、敵艦隊との会敵地点を目指していた。この時、『雪風』は『那智』所属機から届いた敵艦隊の動向が聞かされていた。
西へ避退しつつあった輸送船団が再び上陸地点へと向かうように変針した後、これを感知したかのように敵艦隊もこちら側へと来る気配を示していた。
この報告により、予想通り敵艦隊はこちらに来ると確信した日本艦隊は、戦場へと急ぐように増速した。
そして遂に、『雪風』は初めて、敵艦の姿を捉えた――
「マストが見えるぞ!」
艦橋が一瞬、ざわついた。誰もが前方に視線を向ける。
都倉も急いで双眼鏡を構えた。確かに、遥か向こうの海上に船のマストが点々と見えていた。
都倉はその数を数えた。八本。普通、船には二本のマストがある。という事は、敵は四隻である。
「いる! 遂に見つけたぞ!」
飛田艦長の隣にいた渋谷司令が、声を上げる。
「航海士、敵の数は!」
「左三十度、敵艦は四隻の模様! 距離二九〇!」
飛田の問いかけに、都倉がすぐに応える。
この頃、『雪風』などの二水戦が敵艦隊を発見した時。敵艦隊も日本艦隊を発見していた。敵艦隊――ABDA艦隊の先頭を行く英駆逐艦『エレクトラ』が「戦艦二隻を含む艦隊を発見」と報告し、すぐにその内容が「巡洋艦二、駆逐艦十二の日本艦隊」と知った。
「敵艦見ユ」
ほぼ同時にお互いを発見した両軍は、共に直ちに戦闘速度まで増速し、敵艦隊方向に互いに針路を取った。
大きな白波が飛沫となって後方へと散っていく中、雪風は引き締めた表情で前を見据えた。
「……すぅー。はぁー」
深呼吸する雪風の舌に、潮のしょっぱい味が広がる。艦魂の体はすっかり、甲板に掛かる海水を浴びて、程よく濡れている。だが、それが熱くなる自分の体温を冷やしてくれているようだった。
いよいよ、敵艦隊との直接対決が始まる。
日本海海戦から三十七年。この場にいる艦に、艦隊決戦を経験した艦は居ない。
それは将兵に限っても同じ。
つまり、艦隊決戦に関しては、誰もが初陣であった。
「うんにょー!」
気合いを入れるため、叫ぶ雪風。その顔は、今の空と同じように晴れやかだった。
雪風は後方からやって来た新たな気配を感知した。
この時、高木司令官の判断により、第五戦隊直衛の駆逐艦四隻(『潮』『漣』『山風』『江風』)が臨時に二水戦へと編入され、水雷戦隊として共に行動を開始した。
雪風は共に戦う仲間が増えた事に、喜びを感じる。
これにより軽巡一隻、駆逐艦八隻となった第二水雷戦隊は単縦陣を形成し、第五戦隊の『那智』『羽黒』より先立って、敵艦隊に近い航路を進んだ。
昭和十七年二月二十七日
午後五時四十五分
スラバヤ沖 北西約30マイル
日本艦隊はABDA艦隊に対して、右から左へ斜めに前を横切る謂わばT字戦法を以て、敵を攻撃しようとしたが、させるかと言わんばかりのABDA艦隊が針路をやや左に変針し、日本艦隊と同航砲戦を取る形を作ろうともがいた。
敵のマストを視界に捉えながら、徐々に近付いていく。そして遂にその時は来た。
「……行くわよ。砲戦、開始」
旗艦『神通』の艦魂が、目前の波を激しく切り裂く艦首の上で、右手を敵艦に掲げた。
それと同時に、『神通』の50口径14cm単装砲が七門、砲口を上げる。
「砲撃始めッ!」
『神通』は七発の花火を打ち上げた。これが海戦の開始を告げる合図となった。
午後五時四十五分、二水戦旗艦『神通』が一万七千の距離で、敵艦隊に対して砲撃を行った。
七発の14cm砲弾が南へと飛び去り、敵艦隊の向かって落ちていった。
しかし、『神通』の14cm砲では、まだ遠すぎる距離だった。
艦から噴き上がる炎は見られず、代わりに砲撃と思われる光が何度も瞬いた。
『神通』が撃ち始めて二分後、敵艦隊も砲撃を開始したのだ。
砲弾を撃ったのは、先頭を走る英駆逐艦『エレクトラ』だった。
イギリス海軍の駆逐艦『エレクトラ』は最初に日本艦隊を発見した艦でもあった。そして彼女は日本側の攻撃を受け、即座に応戦を開始した。
「あなた達なんて、敵じゃないわ! 必ずここで仕留めてみせる!」
蒼い瞳に金髪を一つに結び、そばかすを鼻の上に散らした少女が、英国海軍士官服を身に纏い、猛然と艦の上に立っていた。彼女は駆逐艦『エレクトラ』の艦魂。三大海軍強国の一つ、イギリスが生み出したE級駆逐艦の栄えある一隻だ。
「仇を討ってやる! 喰らいなさいッ!」
『エレクトラ』は『神通』に向かって砲撃。彼女の周囲に複数の水柱を立ち昇らせた。
彼女がこれ程までに闘志を燃やしているのには理由があった。彼女、『エレクトラ』は十二月十日にマレー沖海戦で沈められた『プリンス・オブ・ウェールズ』と『レパルス』の直衛に当たっていた新鋭艦で、あの時の恨みを晴らそうとしていたのだった。
『神通』を狙い、砲撃を繰り返す『エレクトラ』。だが、別の方角から新たに砲弾が降り注いだ。それは彼女らにとっては新手の攻撃だった。
同じ頃、第5戦隊の『那智』と『羽黒』も敵艦隊に向けて砲撃を開始していた。
実は彼女たち二隻は、艦隊を発見された時、敵艦隊に認識されていなかった。
『那智』は敵艦隊を発見した時、その姿を捉えたまま、砲戦の準備を整えていた。
「……遂に見つけた。あれが、米、英、蘭、豪の連合国軍艦隊……」
敵艦隊が四ヶ国の海軍の艦で構成された合同艦隊である事は承知していた。しかし望む所。纏めてかかってこいと、那智は意気込んでいた。
「砲戦用意!」
ラッパが鳴り響き、マストに戦闘旗が上がる。
那智は額に輝く鉢巻の日の丸を晒しながら、不敵に笑った。
「どんな相手だろうと、私は負けないわ」
那智はずんぐりと大きい敵艦のシルエットを見据え、一筋の汗を垂らした。以前、『那智』は敵艦隊の内に戦艦を含むと言う報告を聞いていた。もし敵がアメリカのウエストバージニア級、イギリスのネルソン級の戦艦なら、『那智』『羽黒』には勝ち目はない。
だが、今。『那智』は相手の国旗が見える距離まで近付いた所で、艦の識別もわかるようになった。
先頭にいる艦には、オランダの国旗が靡いていた。
「(という事は、あれがオランダの東洋艦隊旗艦『デ・ロイテル』ね……)」
そしてその後に続く二番目はユニオンジャック、三番目が星条旗。
「(『エクゼター』に、『ヒューストン』って所かしら……?)」
那智の予測は当たっていた。この時の艦隊序列は、旗艦『デ・ロイテル』に続き、『エクゼター』、『ヒューストン』、『パース』、『ジャバ』。その針路は西に向かい、その北方に英駆逐艦三隻、南方に蘭駆逐艦二隻、米駆逐艦四隻が護衛し、同航していた。
「主砲射撃用意ヨシ」
「撃ち方始めッ!」
『那智』は十門の20cm主砲を撃ち、敵艦隊に強烈な攻撃をお見舞いした。
初弾の弾着から敵艦との距離を観測し、修正を加え、再び砲撃する。これを繰り返し、『那智』『羽黒』は主砲を撃ち続けた。
だが、敵もやられてばかりではない。旗艦『デ・ロイテル』が針路を変更し、こちらに向かってきた。自らの15cm砲では射程距離が足りないのか、接近戦を挑もうとしているように見える。
させじと、『那智』と『羽黒』がこれを迎え撃つ。近づけさせまいと砲弾を放つが、中々当たらない。接近する敵艦に対処するため、一々修正を行うが、精度は改善されなかった。
「下げ六!」
『那智』は六百メートル射距離を縮め、射程距離を修正したが、敵艦『デ・ロイテル』は左に舵を取り、回避運動を取る。今度は弾着が近弾となる。
「上げ六!」
懸命に弾着を修正するが、敵の回避運動は二隻に狭叉する余地を与えてくれない。
しかも悔しながら、敵の方が精度が上のようであった。『デ・ロイテル』の砲弾が、『那智』のすぐ近くに着弾した。『那智』は甲板に大量の赤い海水を浴びた。
赤、青、白と、様々な色をした着色弾が『那智』と『羽黒』の周囲に水柱を形成した。赤が一番精度が良いようで、『那智』は危うく命中弾を与える所だった。
「――ッ!」
機転。『羽黒』は危うく、取舵を切った。
通り過ぎた砲弾が、『那智』の近くに水柱を作った。
「きゃあ!」
那智は思わず悲鳴を上げる。海水が頭上から降り注いだ。
「くっ。なかなか、やるわね……」
そう呻く那智の口元は、未だ笑みが含んでいた。
「……そう、これくらいじゃないと張り合いがないってものよ!」
『那智』は直進、射撃を繰り返した。
だが、また弾着が近くなり、『那智』もまた射距離を修正するため転舵する。そして砲撃を行うため、また舵を戻す。これの繰り返しだった。
お互いに明確な命中弾を与える事が出来ないまま、両軍の狭間で殷々と砲声が轟き、その撃ち合いは三十分以上続いた。互いに肉薄する様子も見られず、決着が着かないまま、日本海海戦以来の砲撃戦は延々と続いたのだった。
しかしその撃ち合いは、日本海海戦の頃と比べると、両軍とも精度が劣る様相であったのも事実だった。
一方、『雪風』など二水戦も苦戦を強いられていた。
初弾から敵の狭叉を浴びた第二水雷戦隊は、形勢不利と見て、一旦戦域を離脱する針路を取った。
『雪風』も煙幕を張り、敵艦隊から距離を取ろうと避退運動を実施していた。
「機は、まだ……熟さない?」
雪風は悔しげに唇を噛んだ。もくもくと立ち昇る煙幕の下で、雪風はこちらに砲撃を続ける敵艦隊を睨んだ。
しかしこの時、二水戦は敵巡洋艦に近付きすぎていた。敵重巡の砲撃など浴びれば、『雪風』もひとたまりもない。やむを得なかった。
都倉もこの『雪風』が活躍するチャンスを逃がしてしまう事を危惧していた。このままでは、彼女と願いを果たす所か、先に敵に沈められてしまう。
戦機の熟さない状況に耐え忍び、その時をじっと待ち続ける艦橋内の空気。
その中で、都倉もまた悶えそうになりながらも、ぐっと耐えていた。
「(いや、こうして耐え続け、待ち続けていれば……必ず機は来る。信じるんだ)」
都倉は操艦の最中にある飛田の方を見た。彼の様子は、何かを確信しているようであった。
その確信が何であるかを悟る前に、その報告は遂に都倉の耳へと飛び込んできた。
「報告! 距離五千に『那珂』が!」
艦橋の空気が、沸いた。
その報告を聞いた飛田が、司令の渋谷と見合って頷いたのを、都倉は目撃した。
「(艦長と司令は、この時を待っていたのか)」
都倉は胸の内が高鳴る衝動を感じた。血が熱くなって、体中にふつふつと湧き上がってくるようだ。
やがて、二水戦の旗艦『神通』の近くに、四水戦の旗艦である『那珂』が姿を現した。
二隻は顔が見える程まで近付き、再会を分かち合った。
姉のそばに駆け寄るように、接近してきた『那珂』の艦上に、飛び跳ねながら手を振る存在がいた。
「第四水雷戦隊旗艦、『那珂』参上! 二水戦と合流します!」
笑顔で迎える姉と交わし、『那珂』率いる四水戦は迫りくる敵艦隊へと直進していった。




