第十一話 初めての負傷
昭和十六年十二月二十四日
ラモン湾
ルソン島の東岸にあるラモン湾は、日本軍の船団で埋め尽くされていた。
マニラ陥落を目指す日本軍は、『雪風』などの護衛艦隊と航空部隊の掩護を受けながらラモン湾に上陸した。
陸軍部隊が上陸を開始したその日の午後、ラモン湾上空に米軍機が飛来した。
これを直掩の零戦隊が迎え撃ち、空戦の末見事に敵機を撃墜していく。
輸送船上からも空にいる敵機に向かって、陸軍の大砲が火を噴いていた。輸送船に乗っていた陸軍の一部部隊が飛来した敵機目掛けて撃ったものだった。しかし敵機に届かなかった砲弾が次々と海上に落ちてきて、『雪風』たちの周囲に何本もの水柱を立ち昇らせた。
「危ない。陸軍の奴ら、威勢は良いが俺達に当たったらどうするつもりだ」
傍にいた航海長が、愚痴を漏らすように呟いた。
実際、都倉も肌に生じる震動から、今の状況に身の危険を感じていた。
陸軍は牽制のつもりか本気で撃ち落とすつもりか、どちらにせよ敵に届かなければ、落ちてきた砲弾が艦に当たる危険がある。だが、無線の周波数も異なり、相手は手旗信号もわからないので、陸軍への連絡手段が皆無だった。
「……この娘に当てたら、友軍でも承知しないぞ」
都倉はポツリと、青い炎を燃やした声色で呟いた。
ドン、と。また近くで水柱が立ち昇る。
都倉たちは、ただ立ち昇るその水柱を見詰めるしかなかった。
やがて敵機がいなくなって友軍誤射という事態は回避できたが、また暫く経たない内に新たな敵機が飛来した。
今度の敵機は数十機まで数を増やしていた。望む所と言わんばかりに、再び零戦隊が舞い上がる。
都倉たち将兵は、対空戦闘の準備を整えたまま、零戦の戦いぶりを応援した。
日本が誇る世界最強の零戦隊は、米軍機をバッタバッタと薙ぎ払っていく。
米軍の有名なP40ウォーホーク戦闘機が、一機、また一機と落ちていく。
その度に、艦上からは将兵たちの歓声が沸いた。
だが、都倉は嫌な予感を覚えていた。零戦の活躍ぶりを目の当たりにして、周りの将兵たちは歓喜に呑まれている。上空で繰り広げられる空戦に誰もが夢中になっている中、都倉は隙をついて零戦との空戦から離れた敵機の姿を目撃した。
その場にいる者の中で逸早くその存在に気付いたのは都倉だけだった。都倉は艦隊に接近する敵機を認めた。
ここでようやく艦上にいる誰もが、敵機が自分たちの方に向かっている事に気付いた。機銃座に着いていた兵が射撃を始める。敵機は上陸部隊が乗った輸送船ではなく、自分たち護衛艦隊の方に攻撃を仕掛けてきた。
P40のブローニング機銃が火を噴いた。
その火線の先に居たのは――『雪風』だった。
「右舷! 敵機!」
襲い掛かる敵機に対し、『雪風』は機銃や高角砲で応戦する。
だが、敵機はすばしこく『雪風』の周囲を飛び回り、中々当たらない。
「く……ッ! ちょこまかと!」
雪風は必死に敵機の姿を追った。だが、航行状態の艦から見た敵機は素早く、命中弾を与えるのは難しかった。
「面舵! 敵機を我が方の正横になるようにしろ」
しつこく敵機に襲われているこの状況下でも、飛田艦長は冷静に操艦を命じていた。この時の『雪風』は飛田艦長の操艦により、敵機から逃げるのではなく、『雪風』の攻撃が当たりやすくなるように考えた動きをしていた。
だが、敵機の方も優秀だった。敵は正確に『雪風』の身体に機銃を撃ちこみ、遂にその重油タンクに穴を開けた。
燃料の重油が漏れ出し、『雪風』の後には白い航跡に混じって黒い尾が伸びていく。
被弾した『雪風』を、敵機は更に追撃を掛ける。敵機が放った13mm弾が、魚雷発射管に装填された魚雷に何度か当たり、水雷科員たちの肝を冷やした。
「魚雷が爆発でもしたら、この艦はあっという間に沈むぞ……」
水雷長が冷や汗を掻きながら、弾痕が着いた魚雷を遠目で見詰めた。
水上にいる艦の天敵は一般に爆撃機や雷撃機と思われがちだが、相手が戦闘機と言っても侮り難しというのが実情だった。実際に十二月十一日、ウェーク島海域で日本海軍の駆逐艦が敵戦闘機の攻撃で二隻が失われたばかりだった。
故に『雪風』は迫りくる敵機に対し、果敢に応戦を繰り広げた。敵機は遂に攻撃を諦め、空戦を制した零戦隊に追われ、ラモン湾の上空から離脱していった。
戦闘後、揚陸が行われる傍らで、都倉は雪風のもとに向かった。
「雪風、大丈夫か?」
敵機が襲い掛かってきた時から、都倉は雪風の状態を気にかけていた。艦に被害が生じた場合、その艦の化身である艦魂の雪風はどうなるのか。まだその状況を見た事が無かった都倉は、雪風の様子を見て緊張を覚えた。
「あ、少尉……」
腰を下ろしている雪風の傍には、泣きそうな顔をした時津風が居た。
「少尉、雪風お姉ちゃんが……」
「心配しないで、時津風。私は大丈夫だから」
涙目になる妹を、雪風が優しげな表情を浮かべながら、自分に寄り添うその頭を撫でる。
時津風をあやす雪風の体を、都倉は観察し、それを見つけてしまった。
雪風の横腹には、小さな赤黒いシミが浮き出ていた。重油タンクが破損したという情報は、都倉も既に耳にしていた。
「これくらい平気です。何て事はありませんよ」
都倉の気を察したかのように、雪風が何ともないと言う風に答える。いつもの、彼女の笑顔だった。
今回の戦闘で、『雪風』は生まれて初めての傷を負った。敵機の弾が重油タンクに穴を開け、魚雷にも何度か命中したが幸いにも爆発せず、乗員に関しても軽傷者六名で済んでいた。
敵の猛撃に晒されながら戦死者は一人も出ず、航行にも支障はない。正に幸運と言えるだろう。
だが、護衛艦隊の他の艦には一名の戦死者が出ていた。負傷者も合わせて二十一名と、今回の敵機がもたらした被害は決して小さいものとも言えなかった。
これが戦争だ。傷を負った彼女を目の前にして、都倉は実感した。
「……タンクは機関長たちが修理してくれると聞いた。すぐに治るから、安心してくれ」
都倉の言葉に、雪風は微笑んだ。
「はい。少尉」
信用されているその笑顔に、都倉は今抱く感情としてはふさわしくないと自覚しながらも、確実な安堵感に包まれていた。
その後、ラモン湾の上陸成功を見届けた『雪風』と『時津風』は二十五日、第24駆逐隊と共にパラオへの帰投を命じられた。
この頃から『雪風』の幸運っぷりは見られたようで。




