第十話 フィリピンの戦い
十二月八日の開戦から日本軍はすこぶる順調であった。真珠湾への奇襲攻撃により米国の太平洋艦隊を壊滅状態に陥れ、ほぼ同時に動き出した各方面の部隊が一斉に敵の勢力圏に進撃。ハワイの他、フィリピン、香港、マレーなどを攻撃し、この全ての戦いにおいて大勝利を収めた。
その中において、十二月十日にはマレー沖で英国の新鋭戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』と巡洋戦艦『レパルス』を航空部隊が撃沈するという戦果を挙げた。これは行動中の戦艦を航空機の攻撃だけで撃沈した史上初の快挙でもあった。
真珠湾の米戦艦に続き、マレーでの英戦艦の撃沈は太平洋戦域での戦艦と空母の時代が交代した事を象徴していた。
その立役者となった日本側にも、世界最強の戦艦『大和』が同じ年に竣工したが、米英の戦艦が戦場で次々と沈められる中、彼女は未だ出撃の機会を与えられない所か、その存在の秘匿により同じ日本人でさえまだ知らない者も多かった。
今正に歴史上、劇的な変貌を遂げている奔流の中で、『雪風』もまたその戦火の只中にいた。
レガスピへの上陸作戦は成功し、港内に留まった『雪風』などの部隊は、次の目的地に移動する事が既に決まっていた。
それまで体を休めている『雪風』の艦上で、雪風は北にある富士山に似た火山を眺めていた。その火山はマヨン山という火山で、その麓に今回の作戦の目標となった飛行場がある。
「おい、聞いたか雪風」
雪風は背後から嬉々とした様子で近付いてくる都倉の姿を認めた。雪風は何故彼がそれ程まで喜んでいるのか、その理由は既に知っていた。
「海軍の航空隊がイギリスの戦艦二隻を沈めたぞ」
『雪風』にもマレー沖での戦果は伝わっていた。この戦いで米国の太平洋艦隊に続き、英国の東洋艦隊も壊滅状態となった。マレー半島に上陸した陸軍はシンガポールとマレー半島全域の制圧を目指し進撃中であり、戦況も日本側の優位に進んでいた。
「どうした。浮かない顔をして」
都倉は雪風の様子がおかしい事に気付いていた。戦況は好調と聞いても、雪風の表情は晴れない。
「……少尉、私は悔しいです」
雪風はきゅっと拳を握り締めながら、日本の富士山を想起させるマヨン山を見詰めた。
「他の艦艇たちが立派に戦って戦果を挙げているのに、私はまだ何も出来ていません。私も敵と戦って、御国のために勝利を手に入れたいです」
開戦からまだ一週間も経たない内に、日本は攻勢を強め、各地から続々と戦果が耳に入ってくる。だが、雪風はその度にもどかしい思いに駆られていた。
上陸部隊への援護も立派な任務であるのは重々承知しているが、やはり自らの魚雷を以て敵艦を沈める事こそが駆逐艦としての本望だった。
特に今、『雪風』は『時津風』と共に事実上の待機状態が続き、退屈な日々を過ごしていた。
皆戦っているのに――
その状況に雪風は耐えられなかった。
「きっと時津風も私と同じ気持ちだと思います。私達は駆逐艦ですから、自分の武装を最大限に駆使した戦いをしたいのです」
「……そうか」
都倉は彼女の心境が痛い程理解していた。
「それは俺も同じだよ」
「都倉少尉も?」
それは当然だった。彼女と同じように、都倉たち将兵もまたこの時のために訓練を重ねてきたのだから。
「敵の艦と直接戦って、この手で勝利を収めたい。ここにいる皆が同じ思いさ」
都倉の言う通り、『雪風』に乗り組んでいる将兵もまた己の腕を振るいたくてたまらなかった。駆逐艦乗りである以上、早く艦隊作戦に参加して魚雷をぶっ放したいと思っている者がいる程だった。
やはり彼女も同じだったのだ。彼女の思いは、彼女に乗り組んでいる将兵とも通じている。
「近い内にまた上陸作戦への支援任務がある。きっと俺達の出番もそう遠くはないはずだ」
だから、と。都倉は微笑む。
「その時まで、精進しよう。一緒にな」
その瞬間、雪風の頬がほのかに赤くなった。
「……はい、少尉」
頬をぽっと赤く染めた雪風は、そのまま口元を優しく緩ませたのだった。
「……さて。実はここに羊羹があるんだが、君も食べないか?」
「――えっ! どうしたんですか、これっ!」
雪風は突然自分の目の前に現れた羊羹に目を丸くした。都倉が懐から包みを見せるや、その包装を解いて立派な羊羹を出したのだ。
「上陸が成功したって事で、その祝いに乗員たちに配られたんだ。しかも聞いて驚け、天下の間宮羊羹だ」
「ま、間宮羊羹!?」
その名を聞いた瞬間、雪風が目をキラキラと輝かせるのも無理はなかった。間宮羊羹とは、給糧艦『間宮』で製造された羊羹の事で将兵の間でも人気があった。『間宮』は開戦後も各地で食糧などを供給しており、『雪風』にも間宮製が流入していた。
「こ、これを私に……?」
「ああ。君も食べたがるのではと思って」
「勿論です! ああ、間宮羊羹……、久しぶりに食べます」
食べる前から既に頬を緩ませる雪風に、都倉は微笑ましく笑った。甘いものに目がない所は、年相応の少女に見える。
「本当に、本当に良いのですか?」
「遠慮するな。食え」
都倉は羊羹を差し出すと、雪風はそれを恐る恐る受け取った。
「お、おお……」
まるで宝石を目の前にしたかのように、雪風は小刻みに震える両手に羊羹を乗せた。
黒光りした羊羹が、雪風の食欲をそそる。
ごくり、と唾を飲み込む。
続けて都倉から受け取ったつまようじを刺し、その一つを、ゆっくりと口元へと運ぶ。
「あーん……」
ぱくり、と羊羹を口の中に閉じ込める。優しい感触が舌に触れ、噛む瞬間に甘い味わいが広がっていく。
「ん~。美味しいです~っ」
全身に染み渡っていくかのように、雪風は口に含んだ羊羹の味を堪能する。
幸せそうに羊羹を食べる雪風を、都倉は終始親のような眼差しで眺めていた。
雪風はぺろりと、全ての羊羹を食べ尽くしてしまった。
「ふぅ、ご馳走様でした……。――って、全部食べちゃってから聞くのもアレですけど、少尉は頂かなくて良かったのですか?」
「ん? ああ、俺は良いんだ。甘いものはそれ程好きってわけでもないしな」
それに良いものが見られたしな。都倉は雪風に届かないような小さい声でそう呟いた。
「都倉少尉? 今、何て――」
都倉の呟きを聞き返そうとした所――雪風は、ハッと空の方に視線を向けた。
「どうした? 雪風……」
その直後だった。艦内に警報が鳴り響いた。
「敵機来襲!」
都倉は上空を見上げた。敵機。どこだ?
しかし都倉の目には見えなかった。都倉はすぐ傍で先に空を睨んでいた雪風の方を見る。雪風は険しい表情で、遥か彼方の上空を見上げていた。
「まさか、あの高さから……?」
都倉の予想通り、敵機は高高度から飛来した。『雪風』と他の艦も対空戦闘の準備に入り、敵機の爆撃に備える。
「雪風!」
雪風は都倉の呼びかけに応えるように頷いた。それを見届けた都倉はその場から走り去り、艦橋へと急いだ。
一人になった雪風は、再び敵が潜む空を睨んだ。
レガスピに停泊する艦隊の上空に飛来したのは、米軍のB17重爆撃機であった。数は二機。高度八千から飛来し、港内に居る艦に向かって爆弾を投下した。
ヒューン、と言う音が響くと、艦の周囲で次々と水柱が立ち昇った。
それらの爆弾は輸送船と掃海艇のそばに落ち、それが至近弾となって乗員たちを襲った。負傷者の報告に、都倉は戦慄を覚える。
「あんな高い所から落として、当たるものなのか……」
高度八千。直ちに迎撃のため射撃を開始するが、こちらの攻撃は届かなかった。
敵機は一体どこから来たのかは不明だったが、一回の襲来があれば、今後もまた来るだろう。
ここは敵地なのだと、都倉は改めて思い知らされた。
そしてその日の午後、都倉が思った通り、敵機は再び飛来した。
各艦に警報が朝と同じように鳴り響く。だが、今度の敵は――
「敵爆撃機四機、戦闘機一機!」
今回の敵機はB17が四機、そしてその傍に一機のF2Aバッファローが随伴していた。
雪風は、そのバッファローの機体に見覚えがあった。アリバイ湾に侵入した時、自分たちに機銃掃射を浴びせてきた機体に似ていた。
「来ましたね……」
『雪風』の主砲が、ぐるりと回る。
「今度こそ、逃がしません!」
飛来した敵機に向かって、『雪風』の砲や機銃が火を噴いた。
この時飛来した敵機は、朝のように艦隊を襲うような事はせず、そのまま陸地に居る日本軍に対する空襲を行った。
昼過ぎに台湾から到着した零戦隊が迎え撃ち、B17を一機撃墜したが、陸上に駐機していた零戦二機がバッファローの機銃掃射によって小破した。
今回の襲撃にも『雪風』は被害を免れたが、雪風は再び敵機を仕留められなかった事を悔やんだ。
十二月十九日、『雪風』『時津風』第16駆逐隊第一小隊はレガスピを出航した。
陸軍の上陸部隊が完全に揚陸した事を受け、二隻はレガスピにおける支援任務を終了。次の目標であるラモン湾上陸作戦支援に向かった。
二十二日朝、南下中の船団と護衛の『長良』、そして第24駆逐隊と合流。この時点で『雪風』は『時津風』と共に『長良』などの第四護衛隊に編入。ラモン湾に上陸する陸軍を支援する。
ラモン湾を確保する事は首都マニラの占領を成すのに重要な条件であった。ラモン湾と同等に重要なリンガエン湾は第三艦隊が主力の比島攻略部隊が受け持つ。
『雪風』などの第四護衛隊はラモン湾に急行。二十四日、ラモン湾における上陸支援が開始された。