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 静かな、庭だった。苦労を惜しまない人の手で育てられた緑と、小鳥たちの囀りと、時折吹く風の優しい音色。それにぎ、ぎ、ぎ、と揺れる樫の木の揺り籠。流れ、滴り落ちる池の水の音。外の喧騒と汚さから隔離された、そこは一種の聖地といってもよかった。ここから数歩離れた外はけたけたしく立ち並ぶビルと土砂物のような匂いと汚い路地が並ぶとは思えないほどだ。

 その庭の端にある、木陰に設置された揺り椅子の上で、彼女はすやすやと眠っていた。寒さを気にして、膝にかけられた淡い桃色のカーディガンをかけて。

 年老いた彼女は、深い微睡のなかにいた。

 静かに、それは忍び込むと微笑んだ。

「やぁ、起きたらどうだい? たぬき寝入りなんて、可愛くないよ、ばーさん」

「……本当に、眠っていたのだけども」

 彼女は薄目を開けて、それを睨んだ。声がどこか機械じみて、ノイズが入る。それというのも、彼女の喉には古い、斬られた傷があった。昔奪われた彼女の声は、最新の人工音声を植え込むことで、ようやく出せる始末だった。

 それは、見た目は幼い子どもの姿をしていた。薄汚れたシャツとズボンを身に着けた、けれど整った顔と輝く瞳の魅力は、路地に立つ娼婦よりもずっと蠱惑的だ。

 栗色の髪に、深い紫色の瞳。

「そんな姿なの」

「驚かないんだね」

「いつか、こんな日が来るって、覚悟はしていたから。思ったよりも、ずっと遅かったけど」

 彼女の疲れた声にそれは笑って小さく頷いた。

「そっか。思ったよりも遅かったってことは、楽しめた? この世の日々は」

「そこそこ、ねぇ。まぁ、人としてやるべきことはしてきたつもりだけど」

「やるべきこと?」

 それは奇妙なものを見るような目で挑発してきたのに彼女は片方しかない腕を肘付きにおいて、頬杖をついた。

 皺を深く刻んで微笑んだ。

「人を愛すること、愛されること、ついでに殺し合うこと」

 それは目を丸めたあと、両肩を竦めた。

「そんなことが人生において大切なことなのかい? 地位も名誉も、それ以外の娯楽も口にしないのかい?」

「子どもはいやね。楽しみを知らない」

「……女は感情的、とはよく言ったものだ。ま、あなたの場合は、元からわかっていたけども。ああいう選択をしたんだから、だから、俺はここまできたんだ」

「否定しないわ。ただ、それがあたしにとってはとってもいいものだったのよ」

 それには、彼女の言葉が言い訳にしか聞こえなかった。腹が立つほどに、憎悪で人が殺せたらと思えてならないほどに。

 それは瞳を輝かせて彼女を見た。

 彼女が立ち上がって、足元に隠していったククリナイフを片手に構え、背後をとったそれを叩き斬った。

ぱさりと、カーディガンが床に落ちる。

 黒い、矢を見て彼女は眉根を寄せた。それは深く、一度、目を伏せた。

「聞かせて」

 囁くように、どこか献身的な信者のように。

「あなたが、どうしてそういう選択をしたのか。本当はこんなことにならなくてよかったはずなのに、なった理由を」

 それは焦がれるように、腹を立てながら、切望していた。

 理由がほしかった。こうなってしまった理由が。どんなことを言われたとしても納得は出来ないことも、怒りしか煽られないこともわかっていた。けれど、知りたかったのだ。到底許せないとしても。

 彼女は罪を犯した。それは彼女一人の命では抗う事は出来ない。それは彼女だってわかっていたはずだ。

 けれど、選んだのならば、どんなことでもいい理由がほしい。

 それは己の知識欲に絶望とともに苦笑いの諦念を覚えた。

「先程言ったままよ」

「どういう意味?」

「愛して、愛されて、そして殺し合いをした。それがあたしの答えなのだけども、お前に応えられる、全部、のね」

「……簡潔すぎる。それでは納得できない」

 いや、とそれは言い返した。

「納得なんて、はじめから出来ないんだった。あなたを殺しても、許せない」

 それの声は落ち着いていた。泣いているようにも聞こえた。そして、ぬるっとした感触がした。彼女が動くよりも早く、背後をとった、その黒い――影の刃が心臓を貫く。

 あ、と死にゆく声を漏らした。ずるりっと体が落ちていく。

「母さん!」

 吠える声がしてそれは視線を向けた。庭の入口にスーツ姿の、二十代も後半の男性が駆け寄ると、その肉体を抱き上げる。

片腕に彼女を抱いて、彼は白い歯を見せて唸り、銃を構えた。

「その目」

「貴様の相手してやるぞ」

「……その色、その輝き。獣の眼か。……その目を持っていて、なお、その女を守るか!」

 それの声は慟哭のように空気を震わせ、水を、大地を、木々を震わせた。震えるほどの怒りを孕んだ瞳で、しかし、すぐに踵返した。

「目的は達成した。無駄に争うつもりはないよ。じゃあね、死にぞこない、せいぜい死ぬその瞬間まで悔め」

 それが闇に溶けるように消えたのに、残された彼は視線を腕のなかの彼女に視線を向けた。

「母さん」

「……ざまぁないな。子ども相手に遅れをとったよ、歳は取りたくないなぁ」

「黙って、すぐに医者を呼ぶ。フゥの先生なら、五分できてくれ、……母さん?」

 彼が動こうとしたのに、彼女の手が、弱くて、皺だらけの手が止めた。まるで石のように冷たく、揺るぎない力だ。

 彼は彼女の目を見つめて、困ったように笑った。本当は今、するべきことがわかっているのに、それが出来ない。

「ごめんね」

「なにが?」

「さぁ、なんだろう」

 囁く唇を彼はじっと見つめた。

「なんだろうねぇ、けど、あたしが死ねば、お前は自由だ。ここから解放できる」

「なにを馬鹿な、俺は、ここが嫌いじゃないよ」

 本当に、と視線で問われたのに彼は押し黙って、下唇を舐めた。嘘がつけないことがもどかしくも忌まわしい。

 母と呼ぶ、この人を生かすために彼はあらゆるものを犠牲にしてきた。それは半ば彼の望んできたことでもあったけれども。

 ここは彼が生きるための檻だった。その檻を提供してくれたのは彼女だった。あのとき、自分は選んだのだと思う。

 先ほどいたそれが罵った道を、彼は続いたにすぎない。

 彼女の手が自分の頬に触れる。彼はその血塗られた手をとった。本能が蠢くのを理性でねじ伏せる。

「母さん」

 言葉のない微笑みに彼は笑い返した。

 ずっと昔、あのとき、あの選択をしたときから、こうなることはわかっていた。彼女も、自分も。

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