9、何の冗談?
投げる速度と飛距離にも依るけど、それをキャッチするのにそう何度も成功した試しは無かった。でも、今回は辛うじてラケットの着水は免れた。
武術の体捌きのひとつである『縮地』。瞬時に相手との間合いを詰めて死角へ入り込む手法だ。
……って、膝下まで河に浸かってしまったし。
「なんだよ……なに拾って……て言うか、今のどうやって取った?」
「馬鹿野郎!」
突然で予期しなかったであろう出来事に、本田は驚いて息を飲む。
「本田、お前はこんな事をするために新しいラケットを買ったのか?」
「……せーよ」
本田は悪怯れる様子もなく口を尖らせてソッポを向いた。普段のクールな自分を取り戻そうとしているが、それよりも驚きに圧倒されているのか、いつものクソ生意気な元気が無かった。
「ああ? 聞こえねーな」
「っせーつって言ってンだよ!」
「無理しやがって」
「はあ? 俺が買ったラケットだし、どうしようが俺の勝手……!」
本田は近付く俺に気圧されてか、思わず数歩後退る。
拾ったラケットを左手に持ち替えて、俺がコイツの眼の前至近距離で勢い良くサービスを打つフォームから殴り掛るフリをして見せたからだ。
ガットの張られていないラケットのヘッドスピードはめちゃくちゃ速い。つか、ガットの空気抵抗が無い分、もの凄く軽くて違和感を覚える。
スイングコースの延長上に本田の頭がある。俺は委縮して眼を大きく見開き身構えているコイツの頭上でぴたりとラケットを止めた。何かされると思ったのか、両腕で顔をガードして堅く眼を閉じた本田の首へラケットを静かに引っ掛け、ぶら提げて遣った。
「な、なにすんだよ」
ラケットを捨てられなくなった事か、それとも冗談でも俺に脅かされた事が気に食わなかったのか……何れにせよ、自分の行動を呆気なく阻止された事がよっぽど癪に障ったのだろう。顔を真っ赤にして怒り出した本田は、気迫十分で俺を睨み返した。
今までは素っ気なく、殆ど上から目線の無表情だった本田が、初めて俺に向かって感情的になった。事故から一年余り、テニスを続けたくても駄目だと諦める事を選択してずっと堪えていた本田が、しつこく勧誘に現れる俺に向かって感情を爆発させる。
そりゃあいい加減、俺に対して怒るのは無理も無いと思う。けど、買ったばかりのラケットに八つ当たりだなんて、それは……
「違うだろ?」
「何がだよ!」
静かにそう言った俺の言葉に激しく反応した本田は、奥歯を食いしばって今にも泣き出しそうな形相だった。
「捨てるだけの勇気があるんなら、その逆を選べって話」
「お前に何が……」
「判るよ。だけど多分、俺は本田みたいにはならねーな」
そこまで根暗じゃねーし。
「……」
「あの、そのう……た、多分な。多分」
本田の疑いの眼差しと沈黙の間合いに耐えられなくなって、思わず混ぜ返したが時既に遅し。
「随分な自信じゃないか。それだけ俺にデカイ口が叩けるのなら、それを証明して見せろよ」
「は?」
証……明? って、何をだ?
「今からコートへ行くんだろう? 俺も行く」
「コートへ……って、まさか俺の自転車で」
ニケツ(二人乗り)か? いや、そんな事して警察に見付かったらヤバイだろう?
俺の自転車つってもひまわり寮の貸し自転車だし。
渋っていたら、本田が道路の方へ振り返って軽く右手を挙げた。
何の合図かと思ったら、国道の路肩へ静かに黒塗りの高級車が滑り込むように停止する。
「先に行く。遅れるなよ」
本田はそう言い捨てると、サッサと高級車の後部座席へ乗り込み、高校のテニスコートがある下流へと向かわせた。
俺は膝下がずぶ濡れになったまま、唖然として本田の車を見送った。
「な……?」
ちょっと……待て。
目的地が同じで俺に挑戦しているんなら、フツーは俺も一緒に乗せて行くもんじゃねーのか? 大体、親かお抱え運転手だか判らないが、高価なラケットを捨てようとする子供の暴挙を大の大人が黙殺してたってコトか? それに……河はゴミ捨て場じゃねーぞ!
しかも自転車で車に追い付けと言う何様な無茶ぶりに、何か眩暈がして来たし。
「……」
四月とは言え、まだまだ肌寒い。濡れた膝下の冷たさと気持ち悪さが一気に頭へ駆け上がって来る。
買ったばかりのテニスシューズの片方を交互に脱いで、中に入っていた水を出す。
あーあー。シューズが水を含んで重たくなってしまったな。
まあ何にせよ、本田が再びコートへ立つきっかけが出来たって事でOKなのかな。あの勢いなら、先輩方差し置いてコートに立って居そうだし。
いや、待てよ? 真っ向勝負を挑んだら、視力のハンデが無くても今のアイツなら俺に勝ちそうな勢いだったな。て事は、強力なライバルを自分で復活させちまったって事なのか?
そう思った途端、今まで熱心に本田を誘っていたのを後悔した。
俺、ひょっとして余計な事をしちまったのかな?
河川敷にあるテニスコートは全部で四面ある。
濡れた膝下の情けない恰好で到着したら、当たり前だけど先に行った本田が先輩方と話している。
遅刻しそうになった俺は、急いで一年の集まりに潜り込む。隣に居た同じクラスの宮脇と波田が小声で話掛けて来た。
=「セーフだったな」
=「うん」
=「何処へ行っていたんだよ? 心配したぞ」
場所の移動は学年ごとに集団責任を負わされている手前、俺だけが遅刻して他の皆に迷惑を掛けたくはなかった。
=「ゴメン」
入部したての一年生は、最初球拾いとランニングくらいしかさせてくれないだろうと思っていたら、個人のレベルを見たいという話になっていて、いきなりゲームをする事になってしまった。
「おい、明神は知らないだろうけどよ、アイツが来たと思ったら、急にゲームする事が決まったんだってさ」
「あの本田弟が言い出したんだろう? そんなの判ってるさ」
状況が把握出来ていない一年は、それぞれが本田を余り良い様には捉えていないなと思った。
やっぱりお節介だったのかな?
そう思っていたら、本田の方から俺達一年の集団場所へ遣って来た。
「時間の無駄だから、最初は俺がお前と対戦する。お前はこれを遣えよ」
「はああ?」
普段の自分を取り戻し、相変わらずのきつい視線で俺を見下したように言って来た。
『遣え』と言われて本田が手にしていたラケットを見て言葉を失う。
俺に差し出されたラケットは、さっき俺が本田からキャッチした……ガットが張られていないニューモデルの赤いラケットだったからだ。
一体、何の冗談だよ?
「あの~~~、ガットが無いんだけど……」