6、噂話
「どうしてですか?」
「アイツが中学の時に交通事故に遭った事は知っているか?」
「ええ」
その事なら、スポーツショップの店主が教えてくれた。酷い事故だったそうだけど、さっきのアイツの態度から察すれば、もう完治しているだろうと思うんだが……?
「噂では、怪我の後遺症で左の視力が弱くなったそうだよ。集中力が全く続かないらしい。それでテニスを諦めたって。今はテニスどころか、球技自体全く出来ないんじゃないのかな」
「……」
片方の視力が悪くなると、遠近感覚のバランスが崩れてしまう。実際には遠くにあるものが近くに見えたり、近くにあるのに遠くに見えてしまう事があるそうだ。静止している物ならまだしも、テニスは動いているボールを追い掛ける。そんな状態でテニスなんて出来やしないさと先輩は言った。
だけど、俺はあの日確かにアイツがニューモデルの高価なラケットを即金で買ったのを眼の前で見たんだ。
店主にガット張りは必要ないと言っていたが、兄弟がプロ選手の家ならガットを張るストリングマシンくらいあってもおかしくは無い。
それに……
テニスを諦めたって……諦めたヤツが新しいラケットを買うか?
高校生の小遣い程度じゃすぐには買えない高価な物を……
俺が疑っていると思ったらしい先輩は、止めとばかりに畳み掛ける。
「そりゃあ、訓練次第で以前の様にとは行かないにしても、出来る腕を持っているんだし、趣味っつーか、楽しめる程度なら続けるのはアリだと思うんだよ。でもな、ヤツのプライドはめちゃめちゃ高い。クソ高いんだ。仲良しゲームなんて端っから頭に無いのさ」
「でも、アイツはこの前店で新しいラケットを買っていましたよ」
「え? ……まさか」
「いえ、俺の眼の前で買って行きましたから」
……持っていたのをガッツリ横取りされたし。
「んな馬鹿な」
俺達の会話に引き寄せられるように、他へ部員勧誘に行っていた先輩方が集まって来て、俄かに入部受付場所がざわめき始める。
「だから、部に入るのならここしかないだろうと思ったんです」
話しているうちに、予想は確信に変わって行った。うん。そう思ってもおかしくはないんだよな。
「明神の話が本当なら、入部して来るかもって話があり得るかも知れないな」
「そうそう。入部受付は今日だけじゃないし」
「いや~、そうですかね? 中学の時のアイツ知っていますけど、結構生意気だったっスからねー。部の一員で居るのが気に入らないんじゃないっスか?」
入部希望者のリストを見ていた、俺とタメ張りそうなくらいタッパがあって寝癖がハンパ無い先輩が、受付二人の会話に割って入った。
寝癖の先輩はどうやら二年の先輩みたいだ。
「そっかあ? ……本田が入って来たら心強くね?」
「けど、仮に入部して来たら、誰がペアになるんだ? まあ、俺は真っ先に勘弁な」
「勘弁って……相手にも選ぶ権利ってーのがあるんだぞ?」
坊主頭の先輩が笑いながら茶化す。
「あー、その問題もあったよなー」
先輩方の口振りから判断すると、ヤツの入部は手放しで大歓迎……ではなさそうだ。
「こらこら、今ここで居ないヤツの事を相談しても仕方ないだろう? どうだ? 何人くらい来た?」
「はっ? 大地さん。今のところ十二人です」
「ちわっす!」
後から遣って来た先輩を見た途端、周囲のだらしない空気が一瞬で引き締まる。
俺よりは若干背が低いが、肩幅が結構広くて背中が大きい。鍛え方が他の部員とは違っている。『好きな飲み物はプロテイン』とか平気で言いそうだ。
そしてどうやらこの人が主将か部長なんだろうなと暢気に思っていたら、ガチで眼が合ってしまった。
「入部希望者かい?」
「ハイ」
うわ、直々の挨拶キター。
「主将の正岡だ。よろしく。自分、身長は幾らあるんだ?」
「は、ハイ。百八十八です」
じっちゃんからワケの判らない事を良く言われていたっけ。『お前の身長は米寿じゃな』とか意味が判らん。
緊張して答えると、受付をしていた坊主の先輩が笑いながら『なんか成長早くね?』と漏らして別の部員から頭を小突かれた。
「ふうん。合田とタメ張るな。テニス歴は?」
あ、さっきの寝癖の先輩が合田さんかぁ。
「ハイ、中学二年の夏頃から……あ、で、でも部活じゃないです」
「中学で硬式テニスを遣っている所は少ないよ。何も気にする事はない。俺達もそうだったから」
俺へにっこりと笑顔を浮かべてくれるのだが、部活での『素』の主将を知っている先輩方は強張った笑顔を浮かべている。
なかなかどうして……一筋縄じゃ行かない人らしい。
「ところで、何を騒いでいたのかな?」
「大地さん、コイツがあの本田弟が入部するって言い出したんですよ」
坊主の先輩が俺を指差してそう言った。
ちょっと……待て。『入部する』だなんて俺は一言も言っていないし。なんで話を端折ってしまうんだよ?
「本田プロの弟? あの中学二年で県予選優勝した? この学校に入学しているのか?」
「ええ」
主将の問い掛けに俺を含めて全員が示し合わせたかの様な絶妙なタイミングで頷いた。
「明神が新しいラケットを買ったのを見たって」
主将がその言葉に軽く息を飲んで驚いたが、すぐに元の笑顔に戻った。
「入部するかしないかは本人次第だろう? 俺達がどうこう言うものじゃない。まあ入部してくれれば、ウチの戦力として期待は出来るかも知れないが……」
「俺は『無理』だと思うな。『無理』な方に唐揚げ定食を掛ける」
主将が考え込んでいる間に、合田先輩が声を張り上げた。
「じゃあ、俺も『無理』で」
「俺も」
「それじゃあ掛けになんないだろうが」
誰もが合田先輩と同じ方へ掛けてしまい、掛けにならなくなっている。
「おい一年、お前はどうよ?」
「え? お、俺っスか?」
「おい合田。部員減らす真似するなよ」
「あ、ハイ。すんません」
掛けの仲間入りを強要されて困っていると、三年生が助け船を出してくれた。落ち着いた風格を持っていて、頼りになりそうだ。どうもこの人が副主将っぽい。