1、お庭番
老朽化した木造の家屋に電灯は無く、狭い部屋の片隅で隙間風に翻弄されて今にも消えそうな蝋燭がオレンジ色の炎を踊らせる。
その部屋の中央に布団を敷いて、じっちゃんは震えながら枯れ枝の様な細い腕を俺の方へと差し伸べた。
俺は床に就いたじっちゃんの枕元へ畏まって正座すると、薄く禿げ上がった小さな白髪頭を見詰める。
傍らには白狐のカリンが自分の尻尾を枕にして丸くなり蹲っていた。
「こ、『輝』よ、わしゃあもう……駄目じゃ」
「なに弱気な事を言ってンだよ。じっちゃん! 情けねー事を言ってんじゃねーよ」
さっきまで珠代ばあちゃんのトコへ遊びに行ってた癖に。
「最後にお前に……お前に言っておかねばならん事がある」
「なんだよ?」
俺はまたかと思った。これからじっちゃんが話そうとする内容くらい判らいでか。察する処、じっちゃんは珠代ばあちゃんに振られたな。
俺はウンザリと言った表情で天井を見上げた。この遣り取りは今日が初めてなんかじゃ無い。
気分屋のじっちゃんは、事ある度にタイミング良く腰痛になり、決まって床に伏せって引き籠ってしまう。
「知っておろうが、我が明神家は、遠く江戸幕府から受け継がれていた『お庭番』の血族ぞ。わしの曾爺さんの代で遠国御用を仰せつかってかの地へ赴く途中、嵐に遭ってこの離れ小島へ辿り着いた」
「ハイハイ。ンなコトは耳にタコが出来るくらい聞いてらぁ」
泣き落としなんか効くか。そう思って適当にあしらったら、俺から顔を背けて軽く舌打ちしやがった。
「老い先短いこのわしの願いを聞き入れてはくれんかのぉ」
「ナンの願いだよ? 後継ぎの話なら断る」
自分の夢を孫に託すな。ナンパしてる気力と体力があるんだったら自分が遣れよ。
「そこをナンとか」
「このご時世にお庭番とか不要なんだよ。便利なセキュリティがあるんだって」
もっとも、こんな小島じゃあセキュリティつっても次元が違い過ぎるけどね。島には俺達の他にも30人ばかりが生活している。みんな漁で生計を立てているが、軒数が少ないもんだからプライバシーなんて無い。
「キューリだかセキュリチーだか判らんが……先々代がお世話になっておった城主様は今はもう亡き尊き御方。なれどその御血筋は続いておる」
「つーか、俺の話はシカトかよ? それと俺が本島の高校へ行く事とどう関係があるんだよ」
ああそうか。じっちゃんは明日島を出る俺をひがんでやがるな?
「よいか輝。お前がこれから行く学校の創始者が、わし達の御城主様ぞ」
またその話か。
「けどその創始者とかって人はもう死んでるんだろ?」
「無論じゃ。御当主様亡き後は、その縁者が居る。先々代の恩義をお返しする為に、お前はそのお方を捜してお仕え致すのじゃ」
じっちゃんの言う通り、もの心付いた頃からそれなりに鍛えてちゃいるが、俺のスキルになっているかどうかは疑問だ。しかも付け加えるが、じっちゃん本人が『お庭番』らしい仕事をしている姿を、俺は一度も見た事が無いぞ。
そもそも説得力が無いんだよ。
「はあ? 勘弁。先々代の恩義ってそこまで義理立てする必要があるのかよ? 江戸幕府って、一体いつの話をしてるんだ? つーか、どこの誰とも判らない人物を捜せだあ? フツーは既にアタリを付けて事が進んで行くんだろ? 大体、じっちゃん、もう駄目じゃなかったのかよ?」
「はっ! お、おお、おお、そうじゃった。もう駄目じゃったあああ」
「『じゃった』って……」
俺はがっくりと肩を落とした。
死にそうだった事は都合良く忘れてる。
「……」
俺が項垂れていた時間はほんの数秒。その間にじっちゃんはサッサと寝ちまったみたいだった。
全く……自己中にも程がある。
呆れ返って目を細めながらじっちゃんの薄毛が微風にそよぐ様を見詰めていたら、カリンがおもむろに頭を擡げた。
白狐様のカリンは、俺よりもじっちゃんと一緒の時間が長い。詰まり、世間で言う『物の怪』の類だ。
=「輝よ。じいさんまた……」
「判ってる。いつもの『ビョーキ』だろ?」
死にそうな事言っている奴に限ってなかなかお迎えが来ねーんだ。
じっちゃんもその内の一人で……あんなコト言ってた癖に、俺が一寸目を離すと……勝手に元気に復活してやがる。
夜明け早々に島を出ようと自家用の小舟を泊めている港へ遣って来た。
俺の旅立ちを見送ってくれたのは、カリンだけだ。
「じゃあな。カリン。見送りに来てくれてありがとう」
=「達者でな」
「うん」
カリンは慣れない挨拶に戸惑ったのか、いきなり大きな欠伸をして見せる。
じっちゃんはまだ寝ているみたいだったし、俺がこの日に島を離れる事はずっと前から判っていた事だ。
=「じいさんの事は任せておき」
「うん」
=「時々様子を見に行くからね」
「うん」
=「輝ってば『うん』しか言わないのかい」
「う……ん?」
カリンの突っ込みで、俺は自分が期待と不安で余裕が無くなっていた事に気付いた。ついでにもっと深刻な状況になっている事にも気付いてしまう。
「あー! 舟が……無い!」
マジで?
=「あっちゃー。さてはまた夜中にこっそり抜け出したか。どうりで今日は歯ぎしりが聞こえないなと思ったよ。また海を渡って『ぱらだいす』とか言う飲み屋に行ったんかいっ」
カリンは尻尾を左右に優雅に振りながら呆れ返っている。
つか、おかしいだろ。
異常も毎日だと通常になっちまう。
くっそー! 俺の旅立ちの日なのに……舟が無けりゃ島を出られねーじゃんか!
「クソジジイ! 舟返せ―――っ!」