納涼の初夏、海賊船流肝だめし―本当の怪異―
黒青い髪と同じ、深みのある青い瞳に探る様に黒い視線を向ける。
「副船長、そんなに睨まないでくださいよ。たかだか、あんな怪談話ぐらいで」
「ミゲル。あの話は、たかだかあんな怪談話ではないだろ。自分がやった話を、怪談話にするなんて、一体どうした。」
医薬品が陳列する棚と、清潔な白いベッドが二つ備え付けられた医務室。
その医務室(皆は通常保健室と呼んでいる)には、灯りに二つの人影を浮かび上がらせていた。相変わらずに、抑揚のない低い声でクロウは、眼の前に白衣を着た微笑みを湛えた、航海医師を見据えている。蒼い瞳を瞬かせて、ミゲルは脚を組んで丸椅子に座り、
「さぁ・・・どうしたんでしょうね。それより、副船長はやっぱり私達の話を、全て聞いていたんですねぇ・・・盗聴はよくないですよ」
ふふ・・・と微笑む。だがその瞳には、薄暗い微かな殺意が籠っていたのを、クロウは見逃さなかった。クロウは眉を寄せ、医務室の扉にもたれ掛かる。すると、クロウの影から黒いインクが壁全体を染める様に、暗黒の水が壁を覆い尽くした。これで、外界から一切この部屋は遮断された。
「聞きたくて聞いている訳ではない。闇が俺に教える・・・ただそれだけだ。」
暗闇が広がる中、ただ光は頼りないランプの灯りだけ。
淡々と話すクロウに、ミゲルは彼特有の棘のある嗤いを零す。普段飄々としたこの航海医師の姿とは、打って変わって別人、野性的な尋常じゃない剥きだしの棘があった。
「ふっ・・・そうですか。なら、その闇が教えたんだから、わざわざこうやって、保健室に貴方が出向く必要はないと思いますが」
四角いレンズが嵌め込まれた、眼鏡を外してミゲルは、鋭利な蒼い瞳でクロウを刺すかの如く見据える。キィ・・・丸椅子が軋んだ。
「言っただろう。自分がした過去の殺人の話を、怪談話にでっち上げて、仲間に聞かせるとは、一体どうしたと。・・・オマエらしくもない。」
ふぅっと溜息を吐き、ミゲルの視線を受け止めながら、クロウはミゲルに問いただす。
自室に籠り一人ペンを走らせていたが、闇を伝って無意識にクロウの心に、他の仲間の息使いや、心の中の声が響いてきていた。その中であの怪談肝試し大会でのミゲルの話は、はっきりと脳に響いて胸がざわついた。
その話には過去、ミゲルがしてきた行ないに関するものである。
それを知っていたクロウは、このまま、また(・・)ミゲルが暴走しないよう釘を刺しに来たのだ。
「言っとくが、セシルはオマエのした過去なんぞ知らないぞ。アイツはただありのままに、女の霊と話したに過ぎない。」
今回の事で一番ミゲルに、眼をつけられるであろうセシル。あの本質を浮き彫りにする瞳に、抑えられ忘却した本質を呼び起こされ、それ故に自己を保っていられなくなる者はいる。そうなれば、自己を保てぬ人間の、刃に真っ先にかかるのは、悪気も無く純粋に映した者・・・セシルに刃が向けられるだろう。
クロウは己がそうだった故に、ミゲルの狂気が呼び起される可能性は十分にある。
「勘違いしないでください、私はセシル君には感謝してるんですから、副船長が思っているように、あの子をいじめるなんてできませんよ」
肩をすくめて、ミゲルはギラギラとした蒼い瞳を向ける。
「・・・ミゲル。オマエのいじめは洒落にならんだろ。」
「いや~あはは・・・」
渇いた笑い声が響いた。
そして、ひとしきり笑った後、ミゲルは瞳を閉じると、深く息を吐いて髪を掻き上げる。
「そうですね。私らしくも無くなったのは、皆さんには副船長に視えていた、あの幽霊さんが、私には妹のリーネに視えていたんですから」
静かに、そう自分に言い含めるように語る。再びクロウを捉えた、黒青い髪と同じ、深みのある青い瞳には、先ほどまでの薄暗い微かな殺意は感じられなかった。
「そうか・・・。」
クロウはミゲルの棘が心の深淵に、納まったのを見届けて静かに頷く。
「わかってますよ、あれがリーネでないって事ぐらい。ただ私は、どこかであの薄汚い男たちに殺された妹に、私は復讐して仇をとった、と知らせたかったんですね。これは、完全なる自己満足に過ぎない。」
狂気が去れば、今度は悲しみが顔を出す。
このほの暗い部屋に居る航海医師の男には、表情は微笑が張り付いているが、滲み出る悲嘆が瞳にはる水膜に映っていた。
「ミゲル。オマエが酔っ払った刺青の男を井戸に落とし、殺した死体を切り刻み、復讐を果たした。俺は復讐や仇で殺しをするなんて、馬鹿げているとは思わん。ただ、言いたいのは、オマエはまだ堕ちる処まで堕ちた奴ではない。罪を忘れろとは言わない、だがあまり、その闇に引き込まれてはいけない。オマエはまだ妹にとっては、いい兄さんで生きろ。」
微笑む男とは真逆に、無表情にただそうミゲル言い放つクロウ。
「何故・・・そんな事が言えるんですか。」
首を傾げてミゲルが、クロウを見上げる。ミゲルにしては、普段あまり多くを語らないクロウである。歳にしても、まあそんなに変わらないが、こちらの方が年上だ。雰囲気からして自分と同じモノを抱えているのは、なんとなく察していたが・・・ここまで相手の心に踏み込んだ事は、今まで言われたことは無かった。
そんな事を思うミゲルに、お構いなしにクロウは感情の読めない声で断言する。
「俺は生まれた時から、堕ちる処まで堕ちているからだ。言っとくがな。殺しに理由なんて俺には無い。殺したいから、殺す。ただそれだけの感情しかない。俺はただその感情を、常日頃抑えているだけでしかない。理性の枷が外れりゃァ、オマエ等は皆俺に殺されている。理由も無くな。」
物騒な発言には、嘘も偽りも感じさせない。
しばし、重たい沈黙が闇に満たされた医務室に鎮座する。
「・・・それはセシル君、いやセシルさん(・・)でもですか」
若干乾いた声で、ミゲルが口火を切った。
「アイツは、一番俺にとっちゃ殺したい相手だな。真っ先に狙われる。」
ミゲルの妙な言い回しに、片眉を少し上げ、クロウは本音を吐きだした。
「なんです、それ。副船長が私より、一番セシルさんにとって危険じゃないですか」
「かもな・・・。だからこそ枷に、心の杭になる。アイツといれば心も満たされる。」
惚気ですか?と、すっかりいつもの調子を取り戻した航海医師は、ただいつもの微笑みを向けて、組んでいた脚を組み変える。
「なるほど。これじゃぁ、セシルさんが貴方を恐れる筈ですね。」
ぽんと手を打って、ミゲルが頷く。
「うるせぇ、ほっとけ。」
何気に気にしていた事を指摘されて、クロウは不機嫌に眉間を寄せる。
そんなクロウを一瞥し、セシルの事を思い浮かべた。
物騒な話の中心人物の割には、栄養が届こうっていない、小さなガンダルシアの青年。
「しかしまぁ、セシルさん。あの子は短い人生どうやったら、あんな風に人間の本質をありのままに語るんでしょうね」
セシルとはもう何度も話をしたミゲルだったが、これといって普通の下町での生活をしていたらしい。自分とは違い、血生臭い過去の影も何も無かった。
「人間こそ(・・)が(・)一番恐ろしい(・・・・)、か。」
抑揚の無い声で、ぽつりとクロウが言う。
「えぇ、あの言葉には私も同感です。ただ、セシルさんに私の過去を見透かされた様な気がして、少しだけあの子が恐ろしくもありましたよ。でもセシルさんなら、貴方と同じできっと、それがどうしたの?と沈黙をもって、別段気にもしなければ、責めもしないんでしょうけど。」
肩をすくめ自嘲気味な笑みでクロウに応える。医務室に唯一置かれている、小ぶりな机に鎮座したランプの灯がゆらり、ゆらりと揺れた。
「それは、大いにありえるな。しかし、俺でもアイツの視ている世界なんざ、解からん事が多い。」
ふんっ・・・鼻を鳴らして腕を組む。
「ふふふ。それは、それは・・・数千年も昔、もと夫婦が言っていいモノでしょうかね。セシルさんが嘆きますよ?魔剣士殿。ダン将軍やアルジャンさんに、散々奥さんの事で、怒られたでしょうに。」
嫌な含み笑いと一緒に、クロウにとって懐かしい名が言葉に乗せられる。それと同時に、何故彼がセシルの事をいきなり、セシル君ではなく、セシルさんと言い直したのか瞬時に理解した。
「・・・・・・オマエ。いつから思い出してた。」
珍しく虚を突かれ、黒曜石の瞳を瞬かせた。
「ん~、この船に乗ってバルナバスさんとルーヴィッヒさん、そして副船長のじゃれ合いを見ていた時に、薄ぼんやりと。でも決定的に思い出したのは、セシルさんが来てからでしたね。あのルシュカさんの銀の剣事件の日の夜に、夢で思い出しました。」
首を傾げつつ、唇に人差し指を宛て、その日を思い出すミゲル。
藍色の道衣に、真っ赤な鮮血で染めた人であった者を、抱きかかえて消えた黒衣の人。
その周辺には、魔物の死体と、人間の死体。
焼け焦げた草原に、腐臭が漂う大地。
弓を携えて、負傷しつつも最後まで、他の仲間と生き残った自分。
見た事も無い、今では考えられない自分の姿。
「副船長は初めから、私を憶えていたんですね。バルナバスさんも、ルーヴィッヒさんも、全然変わっていなかった。私は・・・私は、本当に変わってしまった。」
首を軽く振って、かつての自分の残像を振り払う。あの時の私は、正義を勝ち取るために、戦っていたが・・・今の私は、そうでもない。しがない復讐でしか動けない、ただの堕ちた罪人だ。
「そうか?俺はオマエも、あまり変わりばえしないと思うが。」
「あの時の私は、実に何もわかっちゃいない、ただの狡賢かった参謀にすぎません。」
クロウの言い分に、ゆるゆると首を振って、静かに目を伏せた。
「ミゲル、オマエがどう思おうとそれは勝手だが。人生いつだって、何が起きるか分からないモンだ。」
どうしようもない、のっぴきならない瀬戸際に立たされる事もある。
それを見詰めたうえで、選択した道を進むことに対して、後悔や非難はあれど、なぜ卑下する必要性がるのか。そんなモノなど、気を揉むだけでナンセンスだ。
「己で決めた道を、オマエは歩んできた。堕ちたと自覚して、変わったと思っていても、俺は己で考え選択し生きた道に、恥じ入る必要はないと思う。堂々としていればいい。変化なくして、善くにも悪くもならん。ただそれだけの事だ・・・ノユル。」
そう言ってクロウは、かつてのミゲルである前の名を呼ぶ。
かつての名を呼ばれて、キョトンとする航海医師の顔には、クロウ自身より年上の筈だが、幼い顔の長い青髪を三つ編みに束ねた、弓使いの軍師の顔がだぶって消えた。
「そう言う貴方は、変わらないですね。容姿も、そういうところも。」
懐かしい姿を想い、ミゲルが溜息交じりにそう告げる。
「それは心外だ。ルーヴィッヒと同列かよ」
「・・・あれは、変わらなさすぎでしょうね。」
お互い、あのお騒がせトラブルメーカーお調子者の、僧兵の姿を想い返して、頭を抱える。
彼はいまでも変わらず、トラブルの元凶で、お気楽にしてお調子者。
汚れた僧衣をはためかせた姿や身長こそ縮んで変わってしまったが、中身が全然変わっていなかった。
「同感だ。しかし・・・」
「はい?」
組んでいた脚を正して、ミゲルが首を傾げる。クキィ・・・丸椅子が音を発てた。
「ミゲル。オマエは根本的な所は変わっていないぞ。俺が見ている分には、オマエがバルナバスと一緒に酒を飲んでる時や、チェスをしている時。その時の表情や仕草、あれはダンの親父とノユル・・・昔のオマエ、昔のバルナバス、そのまんまだぞ。」
何処か面白そうに、ニヤリと悪そうな笑みを零すクロウ。
「・・・・・・・・・・。」
まさか、そんな事を指摘されるとは、思いもよらなかった・・・。
バルナバスと一緒に居る自分の日常を、振り返ってもミゲルにはピンとこない。
ポカンと珍しく破顔する航海医師に、得意げにクロウはクツクツ・・・と喉の奥で笑う。
「気が付かなかったのか。」
「気付きませんでした・・・。そうですか、そのままなんですね」
何か心に煮詰まっていた物が、取れた様な呆けた言葉。
「ああ、あの頃と同じ、小賢しく笑っているぞ、オマエ。」
ピッと人差し指を立て、壁に掛けてあった鏡をゆっくり指す。
そこには、白衣に身を包んで座る、間の抜けたミゲルの姿が映し出されていた。
「ふっ・・・ふふふ。」
鏡に映し出された己の姿。
過去も現在も、悩め、自身を疑い続ける、己の姿。変わっているようで、変わっていない。
悔いる事があったとしても、精一杯生きたなら、恥じ入る必要はなに一つない。
そう蒼いまなざしを向けて、ミゲルは純粋に笑った。
「さて、話も済んだ。俺はもう自室に帰って寝る。邪魔したな。」
息を吐いて、いつもの様に淡々と言うクロウ。背凭れにしていた扉から離れると、インクに似た暗黒の闇は、瞬く間に霧散する。
「いえいえ、ご忠告どうも副船長」
いつもの航海医師の顔に戻り、にこやかにミゲルが微笑む。
その微笑みを受けて、もう大丈夫だろうと、クロウは医務室の扉のノブを回し、静かに扉を開けた。
「あ!そうそう・・・言い忘れていましたよ」
扉から一歩足を踏み出したクロウの背に、ミゲルが声をかけた。
「なんだ。」
視線だけをミゲルに向けて、クロウはその場にとどまった。
「あの刺青の死体なんですが、殺したのは確かに私です。けれど・・・あの男の背中の皮が剥いだのは、私ではないんです。」
「・・・。」
ただ事実だけを、重たい静寂に響かせて語る。
「人間の皮がずる剥けになるには、三日以上かかりますし・・・不思議な事はあるんですね」
魔物に憑かれ、その身に魔物を宿した人間。
果たして、魔物に憑かれたが故、男は殺される程恨みを背負ったのか。
それとも、魔物に憑かれる程、堕ちた下衆な魂だったのか。
どちらとも分からないが、クロウが決定的に言えるのは、これだけだった・・・。
「本当に魔物に喰われたか。」
そう言って、抑揚の無い声を漏らした。
「かもしれませんねぇ・・・」
ミゲルの乾いた声が医務室に落ちた。
クロウはその声を最後に、音も無く通路に身をひるがえし、今度こそ医務室を後にした。
初夏の筈なのに、冷たい闇が広がる廊下を歩き、自室に鍵をかける。
人間こそ(・・)が(・)一番恐ろしい(・・・・)。
その夜、クロウの脳にはその言葉が、波紋の様に木霊し、離れることはなかった。
『納涼の初夏、海賊船流肝だめし―本当の怪異―』終