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真昼の星  作者: たびー
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さいわい -ヨルダッシュー (下)

 日が落ちる前に始まった別れの晩餐はささやかなものだった。

 兎と野菜の汁物、小麦粉を練って焼いたパン、大麦の粥。トールのお土産の干果、薬草茶……。

 トールと大僧正は静かに思い出話をしていたが、トールがどのくらいの年月を生きてきたのか、不死の薬をどこで手にしたのかを、話すことはなかった。

 ヨルダッシュは粥を匙で大僧正の口に運んだ。

「明朝に出立するといい」

「そんな……」

 あまりに急な話にヨルダッシュは心もとなくなった。さっきまであった、外へ出るという高揚感が冷えていく。

「先ほどトール殿と話し合って決めたのだ。戦のことを考えれば一刻も早く西方の領土へ逃れるのがよかろう」

 大僧正はそう言うと、ヨルダッシュに首にかけた鍵を渡して書棚を開けるように言った。

「中の小箱にわずかだが宝玉と金泥文字の経典がある。路銀とおまえの持参金に。わしには不要だ」

 それはこの寺院に残された財産のすべてと知っていた。

「干果を枕元に置いておきますから……」

「ああ、そうしておくれ。だがもうほとんど腹が減らない」

 きっとこれからは眠りの時間がもっと長くなっていくのだろう。

 ヨルダッシュは鍵を胸に押しあてた。やはり身の丈に合わぬ大それたことをしているのではないか……と。

「気に病むな。すべてはわしも承知したことだ……生きろ、ヨルダッシュ」

 トールも大僧正の枕元に膝を折る。

「大僧正さま……今までわたくしを慈しみくださって、なんとお礼を申し上げればよいのか言葉が見つかりません。ありがとうございます、ありがとうございます……」

 大僧正は何度かうなずき、まぶたを閉じた。

「ヨルダッシュを頼む」

「はい、誓って」

 最後の言葉にトールは力強く答えた。大僧正はそのまま眠りに入っていった。

 ヨルダッシュは大僧正の手をいつまでも握っていた。


 持って行くものはわずかしかなかった。

 何着かの服と櫛。あとは今身につけているもので全てだった。

 ヨルダッシュは珊瑚のピンを頭から外し髪をおろした。

 淡い桃色のピンはかつてトールから贈られた物だ。幼いヨルダッシュの髪に葡萄棚の下でピンを刺してくれた日を昨日のように覚えている。

「ヨルダッシュ」

 声に応えて扉を開けると、薄い月明かりに照らされた廊下にトールがいた。

「準備はすんだか」

「はい」

 ヨルダッシュは体をずらして隙間をつくった。

「……入ってかまわないのか」

「むさ苦しいところでございますが」

 ヨルダッシュは小首をかしげてトールを見つめた。よく日に焼けた顔の表情を読み取ることはできなかったが、ためらっているように見えた。

「トールさま?」

 ああ、と返すとトールはヨルダッシュの部屋に足を踏み入れた。

 窓のないヨルダッシュの部屋は小さな油壺の明かりがあるばかりだ。粗末な寝台のそばの棚に置かれてそこだけぼんやりと明るい。

 ヨルダッシュは無言で着ている物を脱ぎだした。

「ヨルダッシュ!」

 明らかに狼狽えるトールの悲鳴が聞こえた。

「わたしをご所望なのでしょう?」

「ちがう! いや違わないが、その……」

 トールはヨルダッシュを中途に脱いだ服ごと抱きしめた。

「おれはおまえを使用人や従者として連れていくわけじゃないんだ」

「え?」

 トールの腕の強さに戸惑いながらヨルダッシュは考えた。従者でなければ何だろうか。

「伴侶として、だ」

「伴侶? わたくしが? トールさまの愛人にでございますか?」

 ちがう、と再びトールは断りを入れた。

「おれには妻も子もいない、いたこともない」

 ヨルダッシュは意味を図りかねた。

「ずっと前からおまえを連れて行こうとしていたが、大僧正が許さなかった……」

 トールは腕をゆるめてヨルダッシュに服を着せ直した。

「僧坊の奥からおまえの泣き声や悲鳴が聞こえるのが辛かった。いや、辛かったのはおまえのほうだな」

 すまなかったとトールはヨルダッシュに詫びた。

「それがわたくしの役目でございましたから」

 忘れるはずがない。幾度も繰り返された行為を。早く終われと祈ったあの時間を。

「窓さえあれば、どこでも見ることができます。終わるまで、遠くを見ていましたから」

 わずかの時、心を閉ざして遠くの風景を見ていた。ヨルダッシュが自身の業を見いだしたのは皮肉なことに過酷な身の上からだった。

「トールさまは……」

 思えばヨルダッシュを目的をもって寝所に呼ぶことはなかった。いや、トールの滞在中は毎晩呼ばれたしかし、それは。

「いつも、わたくしを寝台で寝かせてくれましたね」

 トールが寺院にいるあいだは、ヨルダッシュは夜のつとめから解放された。

「親の記憶はありませんが、見守られて眠るというのと、同じなのでしょう」

 ただ心が安らいだものだ。眠りに落ちる間際までトールは遠い異国の話をしてくれた。その声を聴きながら眠りに落ちていく……。子ども時代の数少ない幸福な思い出だ。

「他の僧たちと一緒だと思われたくなかったからな」

 いつも何くれとなく、ヨルダッシュを気づかってくれたトールを思い出した。来れば必ず重い水桶を運ぶのを手伝ってくれたことや、あかぎれの手をさすってくれたこと……。

「僧正さまがおっしゃったとおり、おれは長く生きてきた」

 ヨルダッシュは驚きはしなかった。先の会話から思い当たるふしがあり、腑に落ちたのだ。

「……トールさまは、変わっていませんもの。わたくしが子どものころから」

 そうだとトールはうなずいた。

「偶然手に入れた不老不死の薬は六個だった。この世におれと同じような存在は、あと一人いる。薬を売り渡して以来、一度も会ったことはないが」

 死ぬことなく生き続ける……。ヨルダッシュはトールの頬に右手をあてた。

「淋しくはなかったですか、辛くはなかったですか?」

「やはり、おまえは蓮の花だな」

「蓮?」

「ああ。泥沼のような場にあって、心をねじ曲げずにいた。僧たちが去っていく中でただ一人ここに残り大僧正さまによく仕えた。その心ばえの美しさを失わずに」

 ヨルダッシュは頬が熱くなり頭がぼんやりしてトールの言葉の半分もわからない。

「長く生きている間に、お前とよく似た境遇の者たちを見てきた。みな懸命に生きていたが、中には辛さから気がふれたり、哀しみのあまりに自らの命を絶ったりするものを大勢見た。だから、おれはいつも不安だった。次にお前にあえるだろうかと、変わらないおまえにあえるだろうかと」

 変わらずにいてくれた……トールはヨルダッシュを強く抱きしめた。

「ヨルダッシュ、おれの伴侶になって欲しい」

「わ、わたくしは」

 ヨルダッシュは舌がもつれてうまく話すことができなかった。

「おれじゃ駄目か?」

 あわててヨルダッシュは首を思い切り左右にふった。

「わたくしなど…で」

 つかえつかえの返事にトールは小さく笑った。

「長く生きてきて、多くの人に出あった。けれど、おまえほど愛しい人はどこにもいなかったよ」

 トールはヨルダッシュに口づけた。

 そしてヨルダッシュは初めて優しい夜を迎えた。



 翌朝も晴れた。

「大僧正さま、行って参ります」

 最後のお別れにヨルダッシュは涙声だった。

 ヨルダッシュは心をつくして大僧正の寝所を整えた。次に目覚めたときには自分はいない。身をさかれる思いだった。

 僧院の戸締まりはトールが厳重に行い、二人は駱駝に乗り出発した。


「これはおとぎ話でしょう? おじいちゃん」

 白髪の老人は切子の器の水を一口飲むと首をふった。

「ロティシュ、ほんとうのことだよ。それはわたしの母親が書き残したものだ。いまおまえが『詠んだ』とおり」

 ロティシュは、ほんとう? と、切れ長の鳶色の瞳を凝らし雑多な紙の束に手を触れた。

「『不意に…風に煙の匂いを感じ振り返ると僧院から細い筋が一本空高く昇っていた』。火事?」

「そう、トールは僧院を閉じるときに火をかけてきたんだ。前夜そうするように大僧正に頼まれていたから」

 ロティシュは眉をしかめた。文字からどんどん情景が溢れてくる。

「『自分がいつまでも存在していてはヨルダッシュを縛るだけだからと大僧正はトールに前夜伝えていたのだ。首を切り落とし火をつけるように。そうしないと死ぬことはできないだろう』…この大僧正って何歳だったんだろう?」

 曾祖母ヨルダッシュは泣き崩れたと書いてある。ロティシュはまるでその場に居合わせたように感じ、自分の胸元を掴んだ。

「何か見えたかい、ロティシュ」

 白壁に囲まれた中庭の葡萄棚の下は真昼の強い日差しを遮り、心地よい葉陰をつくる。

 その下に小さな卓と椅子を並べロティシュと祖父は腰をおろしている。

「無理に詠まなくてもかまわんよ。今日はそれをお前に譲るために出しただけだから」

 ロティシュは顔をあげて深呼吸をした。

 大小様々な大きさの紙に墨で書かれた文字は、東方世界の文字だ。

「ヨルダッシュはこちらの字は書けなかったからね。その竹の板のもそう。紙は貴重品だったから、それに書いたそうだ」

 ロティシュは数枚の板を手に取った。裏と表、両面に細かい文字がびっしり書かれてある。

「あとは経典とわたしの父親トールが大僧正の言葉を代筆した手紙。これが我が家が家督に譲るもの一式だ」

 華やかな羅紗に包まれ、伝えられてきた紙の束。ロティシュはそれが大切にされてきたことをよく知っている。

「ロティシュ、お前のひいお祖母さんはガブリエルだった。お前と同じ」

 ロティシュはうなずいた。

「生きていたら喜んだろうな。アルマサナスに行くのは母さんの願いだったから。体に無理をしてわたしを産んでから病弱になって長生きできなかった…。おっと、今夜はおまえのお祝いだ。湿っぽい話は終わりだ」

 祖父は椅子から立ち上がると伸びをした。

「さ、もうひと仕事。いつまでも薬店を閉めておくわけにはいかん」

 そう言うと、ロティシュの長い髪を撫でた。

「中庭にいるお前の後ろ姿を見ていると、まるで母さんがそこにいるようだよ」

 祖父は深い皺が刻まれた顔に笑顔を浮かべた。

 さあ、仕事仕事と祖父は店に続く扉を開けた。

 ロティシュは祖父から譲られたものを布に包みなおした。

 曾祖母は自分の人生を紙に綴った。幼いころの苦難の日々とトールを伴侶に得てからの幸福な日々を。

「おとぎ話でも嘘でもない」

 鵜呑みにできないが、自分の業が真実だと教える。

 ロティシュはどんな文字でも『詠む』。その才が目に留まり明日は生まれてから十四年間暮らしたこの町を出て、聖都アルマサナスの学院へ行く。

 ロティシュも立ち、小さいが居心地のよい中庭を眺めまわした。葡萄は小さな実をつけ始め、壁がわに並べられた多くの鉢からは間もなく咲く蓮がつぼみを膨らませている。

 ロティシュは包みを胸に抱えると店先にいる祖父に声をかけた。

「おじいちゃん、おれがいなくなっても…大丈夫?」

 祖父は客に釣り銭を渡してから振り返ると笑ってみせた。

「お前の父さんたちの分まで長生きしないとな。安心しろ、じいちゃんには不死の血が流れているんだから」

「それこそ、ほんとう? ひいお祖父さんのトールは不死だったなんて」

 ロティシュはそれがヨルダッシュの書き付けが今一つ信憑性に欠ける要因になっていると感じる。

「さあな。けど、生きていたならもう一度くらいトールに会えるような気がするよ」

 明日の用意をしていろ、と祖父に母屋に戻された。

トールは伴侶を失った後、祖父が結婚しロティシュの父が産まれると、『ヨルダッシュのいたところを訪ねたい』と家督を譲って出ていったきりだという。

「アルマサナスに行けば何か分かるのかな」

 不死について、曾祖母がいたという寺院について。

 大僧正が唯一残した自筆の署名に書かれてある文字がロティシュの胸に伝わる。


 ジュルトゥーク東方僧房  第二十八世クムトゥラ

 さいわいなれ         


 ロティシュは中庭の四角い青空を見上げた。


  終


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