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真昼の星  作者: たびー
3/11

さいわい -ヨルダッシュー (上)


いつか、誰かの目にふれるのだろうか……


 ジュルトゥーク東方僧房 ヨルダッシュ


 ……きょうは大切なお客人がくるから。

 ヨルダッシュは窓が一つもない部屋でいつもより早く目を覚ました。

 寝台から床に足をおろすと、ほてった足裏が冷やされ心地よい。

 ふだんどおり、わずかの水で顔を洗う。さらしで胸をきつく押さえ、かすかな膨らみをかくす。茶色がかった腰までの髪は三つ編みにして頭に巻く布に一緒に納めて珊瑚のピンで留めた。お古の簡素な膝たけの上衣に足の形に添う細身の袴。お客人に失礼ないよう、せめて帯は良いものを。あわせて襟元も色みがあるほうがよいだろう。朱色に金糸が織り込まれた布を持って扉を開けた。

 廊下の先、東向きの露台から朝日が岩を穿った寺院の僧房の奥深くまで光で満たしている。

 ヨルダッシュは鳶色の瞳をすがめて外をみやった。

 客人はまだ宿場を発ってはいない。駱駝を借りているところだ。暑くなる昼前には到着するだろう。

 その前に僧正さまの身を浄めよう。

 ちょうど今日は大僧正さまが目覚めるはずだから。

 ささやかな菜園と一本だけの石榴の木、命をつなぐ井戸…どこも変わりはない。幸運なことに昨日仕掛けた罠に兎が一羽かかっていた。それで客人をもてなすことができる、と胸をなでおろす。

 そして、はるか西方にいる『あの子』はまだ夢の中だ。金の巻き毛が白い額にかかる。口元まで引き上げた上掛けにくるまっている。

 ヨルダッシュは詰めていた息を吐き出した。

 遠見をするとわずかにだるさを感じる。

 早く雑務をすませよう、自分のほかにそれをする者は、もうここにはいないのだから。

 ヨルダッシュは砂が積もった階段を下りていった。


「ヨルダッシュ!」

 駱駝に乗った男が寺院を訪れたのは、やはり昼前だった。

「お待ちしておりました、トールさま」

 ヨルダッシュは駱駝の手綱をとり、ひざまずかせた。

 年に似合わぬ軽い身のこなしで長身のトールが駱駝から降りる。

「相変わらず美しいな。がぶりえる」

 日に焼けた明るい笑顔でトールは声をかけてきた。

 赤毛のトールはヨルダッシュを西方の言葉で『がぶりえる』と呼ぶ。このあたりではヨルダッシュのような存在はふつう『半儒(はんじゅ)』と称される。

「ご冗談を。わたくしも三十を越えましたよ」

 再び立たせ駱駝を山門の軒下へ連れていく。

「……痩せたか」

「そうですか? もう若くないので肉が落ちたのかもしれません」

「干肉と果物を持ってきたから食べろ」

 背負っていた袋から包みを取り出すとヨルダッシュに渡した。嬉しいほどの持ち重りする量だ。

「ありがとうございます。干し棗は大僧正さまの好物です」

「おまえが食え。あんな死に損ないに食わせる必要はない。どうせ死にやしないんだからな」

 ヨルダッシュはからだの奥深くの痛みを意識した。知らず知らず渡された荷物を抱きしめる。

「そんな……そんなふうにおっしゃらないで……」

 うつむくヨルダッシュにトールは舌打ちした。

「悪い。たまにしか来ないおれが言うことじゃないな」

 トールはヨルダッシュの頭をなでた。幼いころからヨルダッシュを知るトールにはいつまでも子ども扱いされる。けれどその優しさに涙が出そうだった。

「書き付けは続けているのか?」

「はい、毎日つけております」

「見せてくれ。僧正さまに会うのはそのあとだ」

 ヨルダッシュはうなずき、トールを厨に促した。



 ヨルダッシュの書きつけは竹を薄い板状にした短冊を麻紐で綴ったものだ。

 僧侶たちが残していった書き付けの裏にヨルダッシュは大僧正の様子を毎日つけている。

「おれが最近で来たのは二年前か」

 ええ、とヨルダッシュはトールに薬草茶を出した。甘蔓を煮出したものだから、厨に甘い香りが漂う。

「今は起きるのは、おおむね十日ごと……」

 トールは茶を口に運んだ。

「ヨルダッシュ、渡したやつを出して食え」

「わたくしは、あとで……」

「駄目だ、いま食え。ほっとくとお前はそれをぜんぶ大僧正さまに食わせてしまう」

 トールにはすべてお見通しかと、ヨルダッシュは観念して包みから干した棗と葡萄を皿に盛りつけてトールの前に置くと、自分も向かい側に腰をおろした。

「食え。気づいてないだろうが顔色が悪すぎる。色白を通り越して青白いぞ」

 言われてヨルダッシュは自分の手を見つめた。荒れた薄い手の甲は青みが勝っているように見えた。

「おれの他に誰か来なかったか? ……がぶりえるを連れた西方の男とか」

「いえ、どなたも。トールさま以外は」

 そうかと、トールは短冊を片づけた。

「お前と大僧正さまだけとはいえ、一人でここを守るのは大変だろう」

 ヨルダッシュは首を横にふった。皆が居なくなってからのほうが、心が安らいでいる。

「ここへ来て何年だ?」

「二十年と少しになりましょうか……」

「そうだな、それくらいだ。お前もずいぶん大きくなった」

「トールさまはあまり変わらないですね。そのうちわたくしの方が年寄るように感じます」

 トールはヨルダッシュの言葉を聞き流し棗を握らせ、食べろと言った。

「あの頃の大僧正さまは、まだ体を起こせるくらいの体力があった」

 ヨルダッシュはうなずいた。そう、今よりお元気だった。

「時どき皆に隠れて菓子をくださいました」

「へえ」

「半儒のわたくしを……」

 ヨルダッシュはそれ以上言えなかった。幼い日から半儒ゆえに味わった僧房での暮らしを。思い出すだけで体が震える。

 トールは何かを察したのか顔を歪めると横を向いた。

「すまない」

「いいえ。たしかに楽ではありませんが、今の生活は穏やかでいいです」

 しばし二人とも口を閉ざした。

 中庭の井戸のそばにある石榴の葉ずれの音がさやかに聞こえた。

「ヨルダッシュ、おれは長い間ここを何度も訪れたが今回が最後になると思う」

 弾かれたようにヨルダッシュは顔をあげた。

「東の藩主どもが結託して西の共和国に戦をしかける準備をしている。共同管理のオアシスの盟約を破棄して、完全に東のものにしたいらしい。そうなると今までのように東西の往き来ができなくなる」

 戦が始まる。ヨルダッシュの心はざわめいた。

「いくらここが忘れ去られた寺院だといっても、以前ここにいた連中は外にいる。貧すれば鈍する、ここを思い出して何かの金づるにとでも悪心を起こして大僧正さまを引きずり出すかもしれない。不死の者として……」

「そんな、誰も信じていなかったではないですか! だから皆ここを見捨てて出ていかれた」

「ならばお前は信じているのか? ヨルダッシュ。大僧正さまは不死の者だと」

 反対に問われてヨルダッシュは言葉に詰まった。

「大僧正さまは、ただ長生きされているだけだ、そう思ってはいないか?」

「そんな」

 反論しようとしたが言葉が見つからなかった。仮にヨルダッシュが寺院に来たときに七十だとする。そこですでにとてつもない長寿だが、それならば今は百歳だ。ありえない。ふつう人は五十前半で亡くなる。

「……大僧正さまは不死ではない。老いる早さが他の者より遅いだけ、おれはそうみている。その証しに徐々に体力を失っている。遅かれ早かれ、大僧正は亡くなる。そうなったら、お前はどうする?」

 あまりに無慈悲な未来をトールに突きつけられヨルダッシュは絶句した。

「大僧正さまは明日亡くなるかも知れない、逆にお前の寿命が先に尽きるかもしれない」

 ヨルダッシュは厨の小さな窓を見つめて息を凝らす。壮麗な館に暮らす『あの子』は湯浴みをしていた。召し使いの手で大切に洗われている。

『あの子』はヨルダッシュと同じ体。半儒……男と女のあいだの存在。

 ヨルダッシュがあの年頃には、もう……幻の腕がヨルダッシュを絡めとる……あああ!!

「ヨルダッシュ!」

 呼ばれて体が大きくゆらいだ。大きく息をすると驚くほど近くにトールの顔があった。

「っ……」

「戻ったか。息もせずに固まっていたから。何か見ていたか」

 ヨルダッシュは両手で顔をおおった。

『あの子』の金の髪、まるで冠を戴いているようだった。

 同じはずなのに、違うさだめのもとに生まれた……誰を恨む? 恨めばいい?

 大僧正が亡くなったら、あるいは誰かが大僧正をここから連れ去ったら?

 残った自分はまた売られる。

 ここに売られて……供物としてさしだされたように。

 終わっている、自分の命運はすでに終わっている、そんな思いだけが押し寄せてくる。

「ヨルダッシュ……」

 トールがヨルダッシュの肩を抱いた。

 不意に岩屋に鈴の音が響いた。

「大僧正さまが目覚められました」

 ヨルダッシュはトールの腕をやんわりと外し、青白い頬のままで立ち上がった。


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