「無意識の殴打です。・・・。」
電車に揺られていた。僕も、あの子も。
ローカル線の車両は古く、一両編成の長方形の箱は車体を軋ませながら終点の町を目指している。車窓から見える景色は闇に支配されていた。
トンネルに入ると、窓が黒く塗りつぶされそこに気弱そうな男の顔が浮かび上がった。
僕だ。これは僕の顔だ。
悲壮感が出ている、顔。それは、その理由は、僕の右斜め前にちょこんと座っている女の子の存在のためだった----僕の過去、の、一部である女の子だ。
僕の過去。中学時代。 青春であるべき時代は、僕にとって猜疑心にまみれ孤独に陥り、そして価値を見いだせなかった時代であった。その時代の僕を知る人間から逃げるため遠くの高校に入学した、が、何処へ行ってもやはり僕は僕なのだからまた猜疑心にまみれ孤独に陥り、価値を見いだせなかったわけだが。
やはり、僕の過去の時代を知る女の子によって再製されるあの時代の記憶は、今も尚、僕を傷つけ狂わせるだけの鋭さを維持していた。
僕は文庫本を片手に、右斜めに座っている女の子を意識していた。だからまったく活字が頭に入ってこない。額には汗が浮いていた。
女の子も本を読んでいるらしかった。たしかあの女の子は中学生の時、よく読書をしているのを見かけたような記憶がある。髪は背中まで伸びていて、着色や脱色はしていない黒色である。あまり中学時代と変わっていない。
しかし、しかしながら、変わっていないからこそ、変わり果てていないからこそ、女の子は僕を傷つけることができるのだ。
文庫本を持つ手が震えている。はん、我ながら情けないじゃあないか、と独りごちるように思う。
「北上川、北上川です。御降りになられる方は切符をお忘れにならないようお気をつけ下さい。次の停車駅は、北上川です」
甲高く、アナウンスが告げた駅から3駅を過ぎると終点の町に着く。僕が生まれ、育ち、義務教育を終えた町だ。
僕は文庫本のページを捲った。もちろん読み進めているわけではなく、何10分も同じページを凝視しているのを疑問に思われないためにページを捲ったのである。
僕は女の子を意識していた。だが女の子は僕を意識していないだろう。それは僕に気づいていないからかもしれないし、僕が居ると気づいていたとしても意識の領域に入れないようにしているのだろう。
僕はそういう存在なのだ。
端的に言うと、そんなことはどうでも良かった。女の子が僕が居ると知ってようが知るまいが、意識してようがしてまいが、どうでも良いのだ。
重要なのはあの女の子が僕の過去の一部であるということだ。
過去。僕を傷つける過去。僕の過去の一部である女の子。僕は過去を切り捨ててきた。消去してきた。しかし女の子によって再構成されてしまった。僕を傷つける過去。再構成された過去。
どうすれば良いか 解っているだろう
いや、僕にはできない。できない。
腕力で拘束してクビを絞めればいい あっちは女でこっちは男だ
いや僕にはできないできない。
あ。
あ。あ。
あ
こうやるんだ こうクビを絞めるんだ
ああ この感触を お前に教えてやりたい
僕は、いや僕が、僕の頭の中で、想像で、女の子の首を両手で絞めていた。
想像の中の女の子は、悶えて、苦しんで、脚をバタバタと痙攣させて静かになった。
死んでしまった。
これで終わりだ
簡単だ
さあお前も感触を味わえ
嫌だ。嫌だ。
「次の停車駅は南上川、南上川でごさいます。御降りになられる方はお忘れ物のないようお気をつけ下さい。まもなく南上川、南上川でごさいます」
僕の体が座席から立ち上がろうとしていた。僕の足が右斜め前に向けて一歩を踏みだそうとしていた。
体が動いた。女の子を目指しているのだ。女の子は相変わらず本を読んでいる。タイトルが読める。ヘミングウェイの『老人と海』だった。それもルビ付き英語版だった。
あと5歩
逃げて。逃げてください。
あと4歩
殺したくない。殺したくない。
あと3歩。
ああ。あ。あああ。
殺せない。
「南上川、南上川-----」
僕は、開いた降り口から南上川駅で下車した。
長方形の車両は入り口を閉め、辺りに光を振り撒きながら闇を切り裂き走っていく。女の子を乗せた車両は闇に消えていった。僕の過去の一部である女の子と共に闇に消えていった。
電灯に照らされた簡素な屋根と無人改札口だけの南上川駅にいるのは僕1人だけだった。
僕は空の闇を見つめ、ため息をついた。
「悪とは何ですか」
「・・・無意識の殴打です。・・・。」