はら、はら
本当に好きだった子を忘れるために数年前に書いたものです。
無駄な記憶を夢への踏み台に。
はるが死んだ。
かつての同級生から届いた一件のメッセージはどこか他人事で温度がなく、ゴシップでも囁くような文面だった。久しく耳にしていなかったその名は節々が丸まっていて、当時のとがりきれないあいつをまんま連想させた。
はるが死んだ。
茶色く煌めいた髪が、白いくすんだフィルター越しに靡くのを思い出す。
ドラマか漫画みたいに端末を取り落とすようなことは無かった。機種変したばっかだし。貧乏故に最低限の保証しか付けられなかったし。
ただ、思い出した。埋もれていた記憶が、無惨に掘り起こされる。
はるが死んだ。
記憶の中には確かなあいつの手の温もりがあった。
「なーにお前。いつにも増して辛気臭ぇじゃん」
飯マグくなるわーなんて人様の作った生姜焼きをかきこみながら言う。人の手作りを不味くなるとか言うんじゃねーよとは思いつつ、噛み付く気分でもなくて完全にスルーしておいた。
折りたたみ式の机に並ぶ料理はもはや作った記憶さえない。肉を解凍した覚えすらない。味噌汁に入ったさつまいもなんて冷蔵庫になかったので、スーパーにでも買いに行ってきたのだろうか。無意識下にいる人間の生活力の高さには驚愕だ。旬すら嗜みながら生きようとする意思が半端ない。
副菜に主役違いのナムルが二品並んでいる辺り、俺は何が何でもナムルを接種したかったのだろうか。
小野はその辺特に気に留めていないようで同じ味の野菜それぞれに「うめー」と呟いて口に運んでいる。
「んで、マジ何?すごい顔色悪いけど」
ひとしきり腹を満たした様子の小野は、あと少しだけ米が残った茶碗を片手にそう切り出してきた。
今日も一日ベッドでパソコンをいじくっただけの小野のスウェットは小さな毛玉の宝庫だ。
小野秋人。大学を出て就職すると同時に、この家を共有して暮らし始めた男だ。俺の一つ上の25歳で、大学卒業から三年遅れて実家を出たらしい。ちょうど良いタイミングで安く家を出る手段を模索していた俺はそんな小野と飲み屋で出会い、若気の至りというやつでとりあえず同居人として家賃を折半することになったのだ。こうしてリビングもどきの共有スペースにて食卓を囲むのも時間が合いさえすれば自然な流れになっていた。
万人に受けはしないが好む人にはたまらなく刺さるであろう気だるげな一重はさして心配もして無さそうに俺を見る。
ずっと乾いた心地の舌がピリッと辛い肉の味にほんの少しだけ感覚を取り戻した。
「好きだった人が、死んだって」
口にしてみれば呆気ない。とっくに色褪せた記憶がいよいよ輪郭を手放したようなものだった。あの少し苦しそうに笑う姿に、花を手向けたようなものだった。
若い想いより先に現実を静かになぞった音は遠くで聞こえる救急車に溶ける。
いつだって誰かは生まれて誰かは死ぬ。今回はそれがあいつと言うだけだった。
相も変わらず社交辞令の同情すら持ち合わせていない小野は顔色一つ変えずに再び肉を口に運んだ。
「残念だったね」
当たり障りのない返事が帰ってくる。
著しく人情に欠けた小野にしては、憐れみを込めた声で上手く再生出来ていたように思えた。血も涙もないとは言わないが、他人の誰かが死んだくらいで心を痛められる人間では無い。
「いつ好きだったの?」
続けてそう尋ねながら茶碗を手にキッチンへ立つ。余程肉の味付けを気に入ったらしい。小野の実家から仕送りで届いたお米をお代わりでもしに行くのだろう。
「高校んとき」
「へー。青いねー」
「冷やかしなら聞いてくんなよ」
「純粋な興味だって。ねーどんな子だったの?」
珍しく会話を展開させてきたかと思えば、本当にただの興味だったようだ。こういう時普通ならば気まずさを感じて話を逸らしでもしそうなものなのに、気遣いもデリカシーもない質問に少し笑える。
「どんな、んー。ギターが上手だった」
「へーお前と同じ軽音?」
「うん」
「見た目は?可愛い?」
「かっこいい系かなぁ。髪は染めててちょっと茶色かったよ」
「意外。真面目な清楚がタイプかと思ってたわ」
「全然。口悪いし下品だし清楚の対義みたいな奴だつたわ」
やっと自然に、言葉に笑みを乗せられた。
「どこが好きだったの?」
さつまいもを掴もうとした箸が止まる。
小野は、たまに見せるどこか柔らかげな顔で俺の口が開くのを待っていた。
何度も自分自身に投げかけた言葉だった。いくら考えても分からないほどに、言語化できる人柄的な良さはあいつには見つからなかったし。ギターは本当に上手かったな。ピックで滑らかに弦を弾く姿にはいつも余裕があって、涼しげに感じられた。揺れる髪は綺麗だった。俺天然パーマだから、まじで羨ましかったな。指を通せば引っかかることなく毛先まで滑る髪質がこの上なく美しかった。歌声もよかった。小鳥が歌うような可愛らしいもんじゃなく、響くような歌声には何度も涙腺を刺激された。飛んでいきそうな軽い口調もはるらしくて。あとは、匂いとか、背丈とか、声とか、デリカシーのなさとか、言葉選びの拙さとか、とか、なにより、
「最低なところかな」
口をついて出たのは、最初に思い浮かんで最後にこびり付いたそれだった。
小野はちょっとびっくりしたみたいに目を丸くしてからふは、と笑った。米を盛った皿と一緒に机に置かれた缶は成人の特権で、果実を感じさせるパッケージは嫌に明るいオレンジ色をしていた。
ギターが蘇る。はるの青いギターを最後に聴いた日の、お門違いに明るい自分のギターのボディーに少し似ていた。実家に置いてきたかな、持ってきたっけな、持ってきてたとして、どこにあるだろう。もう見たくもない色に当てられて、小野がプルタブを開けた途端衝動的に奪い取って喉奥に流し込んでやる。
あ、お前ー、と不服そうな声が聞こえるが、構ってられなかった。目の前がぼやけた。目頭が熱くなる。柑橘の香りが鼻いっぱいに広がる。一気に半分くらい飲んだ所でアルコールが回る心地がしたが、構ってられなかった。オレンジに詰まった若い酔いを、一刻も早く空っぽにしてしまわなければ、時間に押し潰されてしまうと思った。
最後の一滴まで乱暴に飲み干して力任せに机に置くと、視界は大きく回る。
「あーあーもう一気に飲むから。いくら13パーだからってイッキはよくないわ」
重力耐えられず机に突っ伏せば、忙しなく動く気配がして、音から察するに水を汲んで持ってきてくれたようだった。
「まー俺はちびちび晩酌すっからそこで潰れてな」
そう言ってプシュ、とまたもや缶の開く音がする。テレビの音もなり始めたのでいよいよそっとしておいてくれるらしい。
テレビをつけてくれて良かった。情けなく鼻を啜っていてもバレないだろうから。まあ気付いても、この妙にモテる男は気付かないふりをしていてくれるのだ。
高校時代好きだった奴が、死んだ。交通事故らしい。昨日の夜、仕事が終わり家路についたあいつの車に居眠り運転のトラックが横から衝突事故したんだと、高校を卒業してからもちょくちょく会ってた奴が言ってた。遺影にはどの写真を使うんだろうか。今時は畏まったものじゃなくてもいいらしいから、さぞかし幸せそうに笑っている我が子の写真を、ご両親は選ぶんだろう。1つ前のスマホのカメラロールに埋もれた、バンドタオルを頭にかけて笑う姿を思い出した。
重力に従ってズボンにシミを作る水滴を見下ろしながら、思わず笑えた。
あの写真にだけは黒いリボンは永久にかけられないということが、馬鹿みたいに嬉しかった。
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[ねぇ聞いて一弦切れた]
生産性のない小躍り動画のスクロールに勤しむ中、液晶の上にそんな文面が舞い込んできて、一度スワイプして上部に仕舞った。
21時。時刻はもう今日が終わるカウントダウンを刻んでいて、ソファに横になって入浴を渋る俺を刻一刻と急かす最中だった。
近頃ハマっているアニメのファンアート、歯応えのいい菓子を咀嚼する動画に続いて興味が無いも甚だしい広告が流れてきたので、ようやく流れを切ってスワイプしコントロールセンターを確認する。
つい先程の文面の左によく見慣れた緑色のアイコンが表示されている。
はるだ。
このくらいの時間になると、いつもはるからの他愛のないメッセージから会話が始まる。ここ最近のルーティン。会話のあった日にちが色づく機能で見てみると、7月から2ヶ月間に渡って絶え間なくその文字は濃く色づいていた。
また長くなるんだろうな、と、半ば呆れたようなセリフをわざとらしく浮かべながらメッセージをタップする。
緑色のトップ画面を抜けて表示されたはるとのトーク画面は先程のメッセージの上の[おやすみ]を最後に昨日を締めくくっていた。
[お前よく切れるよな]
少し置いて返信したのに、間髪入れず着いた既読に頬が緩んだ。待ってたみたいだ。
[えそれな。弾き方悪いのかな。ギター歴3年目にして発覚?]
会話を無駄に展開させもしない、かと言って終わらせる意思も見えない返答。終了したら病むくせに続けるのも苦手なこいつのいつもの文面だった。
木沢はるは、高校一年生のクラスで新学期早々隣の席だった奴だ。首の当たりに襟足を作って切りそろえられた茶髪とセンター分けが良く似合う、中性的な見た目。大きな目はさらにそれに拍車をかけている。
何がきっかけだったかは忘れたが、自然と同じグループで行動を共にするようになり、今ではその中でもよく一緒にいる仲になった。部活が同じであることも要因の一つだろう。はるはギターで俺はドラムなので基礎練で一緒になることはないが、バンド練習などの際の空きコマでよく一緒に時間を潰している。
はるからの連絡が頻繁に来るようになったのは、夏休みに入る少し前からだった。
よく二人でカラオケに行くようになって、あこいつマジで歌上手いななんて感動して、柄にもなく近所の花火に行って、そんな頃。
[何弾いてたの]
ぽこんと吹き出しとなってトークルームに加わるその問いかけの隣に"既読"が続く。
待っていましたとばかりに送信されてきたのは動画だった。うちの軽音のギタリストがこぞって愛用しているアプリの画面は、再生した途端TAB譜がゆっくりと流れる仕様になっている。
ギターを齧り始めたばかり故にコード名だけで何の曲か分かる程の知識は無いが、音量を上げてみれば奏でられる旋律に聞き覚えがあった。
『 一瞬我に返る。君がいない部屋に、一人だった。』
安定感のあるギターの音色に乗せて、聞き馴染んだ声が歌う。小柄でちょこんとした見た目に反して、その歌声は随分と響くような感じを持っていた。何度も何度も、聞いた声。
こうして送られてくるのは初めてだな、なんて思いながらも、我に返って送信取り消しに走るであろうことを予測して保存しておく。せっかく自主的に送ってきたのに、お蔵入りにされては堪らない。
[だった、んとこ。いいね]
素直に思った感想を送る。画面を縮小化して上部に再生され続ける歌声は、リビングで1人黄昏れるには最適なBGMだ。
[ ─────一瞬我に返るけど、君といたあの部屋は二人だったし、]
俺が一番好きなバンドの曲。来週の日曜に、はると行くフェスに出演するバンドの曲だ。実に王道な曲だが、フェスに向けて勉強すると言っていたので色々な曲を嗜むうちに何周か回ってハマったのだろう。
[でしょーそこ上手くいった]
[うんまいうんまい。左耳も歌ってよ]
[それはなつきの専売特許]
[俺歌えねーんだって]
[歌えてたわ]
[え歌ったことある?俺はるの前で]
[こないだカラオケでごねたら歌ってくれたじゃん]
[あーーーそだった忘れて]
[忘れたから次も歌えよ]
[あれは出血大サービスだったの]
[また輸血してやるよ]
くだらない、他愛もない、意味の無い会話が淡々と続く。長い針はその時間の無意味さと尊さを見せつけるかのように早足で進み、気付いた頃にはもう一周半も時を刻んでいた。
[てか俺お風呂入らなきゃだわ。はるもう入ったの?]
[まだ。はいるべき?]
[どう考えても]
[んじゃせーのではいろ]
[おけ]
[せー]
[フライングすんなし]
[はいまじ入る]
[ん]
[出たら寝る?]
[ねーる、ねる、かな。はるは?]
[なつきが寝るなら]
[じゃあ寝よう]
[へーいおやすみ]
[おやすみ]
構ってちゃんなはるとのやり取りはいつもはるが就寝時間を確認して来ることで終わる。次の日なんの予定も無ければ"まだ寝ない"だの言って会話が続くところだが、生憎明日は朝からバイトがあった。普段の通学時間よりは遅いが余裕ぶっかまして起きていられるほど朝に強くない俺は、朝からのバイトが控えた前夜は極力無駄な夜更かしをしないよう心掛けているのだ。
会話が終わったトークルームを閉じて、スマホの電源を落とした。
何はともあれ風呂だ。1週間溜め込んだ疲れを金曜の浴槽で溶かさずしてなんのために生きる。そのくらいの使命感に駆られるくらいには俺は風呂という行為が好きだ。シンプルな話潔癖症というのが全ての根本にあるのだが。
脱衣所で服を脱ぎ捨て一日中額に纏わりついていたうねうねと跳ねる髪をかきあげる。複雑に入り組んだ壁に額と外気との接触を阻まれる天然パーマにとって入浴は、もはや貴重な外気と額の交流の場でもあるのだ。
薄く湯気の立ちこめる浴室で熱々のシャワーを頭から浴びれば、途端にスマホとのにらめっこで蓄積された肩の違和感が排水溝に流されたような気がした。
気持ちが良い。
ふと先程のはるの歌声が脳を回る。いつもはタオルに巻いて持ってはいるスマホを今日は脱衣所に置いてきてしまったので今聞き直すことは出来ないが、本人にも賞賛を伝えた"1人だった"の声が繰り返し耳元で流れているような心地だ。
はるは中一の頃にギターを始めたらしい。一人っ子で、そこらの兄弟持ちより甘やかされて育ったはるがギターを買ってもらうのは大して大変なことでは無かったそうで、難なく入手したギターを趣味程度に弾いているうちに気付けば軽音楽部に入部していたらしい。話に勝手に箔が付いてハードルが上がることを避けるために、"受験期から始めた"と公言しているのが真っ赤な嘘なのは、俺だけが知っている。
あいつのバンド、次は自由曲某怪獣のなんとやらだったよな、なんて考えを巡らせていれば、男の大雑把な洗身は直ぐに終わった。今日の浴槽は姉が甘ったるい粉を溶かしているので入らないことにする。なんたらストロベリーだとか言っていた。頬が痛くなるような甘い匂いは残念ながら俺好みでは無い。
浴槽に蓋を被せて風呂場を出る。脱衣所に立ち込めた湯気は洗面台の鏡を大慌てで曇らせた。
タオルで軽く水気を拭き取り用意しておいた着替えを身にまとって脱衣所を出ると、俺が手に取るのを待っていたかのようなタイミングで手のひらのスマホが通知を知らせた。
[もー寝た?]
心のどこかで期待して画面をタップした。実際のところカラスの行水のこいつは先に上がって髪も乾かさないまま寝こけているものだろうと思っていたから、ふ、と笑みが零れた。
[ねてないよ]
[寝る?]
[ねるかな、ねる。はるは?]
[夏輝が寝るなら寝る]
絶妙なタイミングでわざわざ漢字に変換してくるあざとさに、なんの故意もないことがなんだか堪らなかった。人の漢字は間違えない奴だから、手癖で成された変換が間違いでないことがわかるのは、俺の字をちゃんと覚えているからだ。友人の名前の表記を把握しておくことくらい、きっとなんでもないことなんだろうけど。
平仮名で綴られた名前だから、漢字のある人が羨ましいと話していた夏の日を思い出す。
[まだ寝ないわ]
くだらない夜更かしの幕が、翌朝のアラームに散々苦しめられることを分かっていながら開けた。
──────────────────
『なつきぃ』
幼い声が俺を呼んだ。目の前には俺の姿があって、定点カメラのような視点からその声を聞いていた。
幼い日の俺と、あいつがそこに"有る"。"居る"と感じなかったのは、もう"居る"訳では無いとなんとなくわかっているからだ。
いつぶりだろう。この声に名前を呼ばれるのは。
結局最後の最後まで、その声にもう一度振り返ることは叶わなかった。けれど今、目の前であの日の俺は呼びかけられたあいつの声に足を止めている。
なに、と、幼い俺の口が言葉を象る。音にはなっていなかった。どこか不満げな、納得のいかないような顔をした俺に、はるは宥めるような口振りで言う。
『なに拗ねてんの』
置いてったのは夏輝じゃん。
そうして、眉を落として、笑う。
がらがらとはるの輪郭が崩れ落ちた。はらはらと言った方が正しいかもしれない。剥がれるように、零れるように、その言葉を最後にはるの柔らかな頬も溶ける髪も砕けていく。
幼い俺の顔は霧がかかったように朧げになって、表情はよく読み取れなくなった。
そっか、そっか。置いてったのは。
『俺なのか』
やっと声になった時には、やっぱりもう遅かった。
「──────、っ、は」
首と背中に汗が伝うのを感じる。見開く乾いた目の前には木製の柱のようなものがあって、それが自宅の机の足だと気付くまでそう時間はかからなかった。
突然の覚醒に追いつかない目を数回瞬かせて潤してやる。
霞む目の前のラグに陽の光が差し込んでいることに気が付いて反射的に身体を起こせば、すぐ背後から「はーいおはよ」と間延びした挨拶が聞こえた。
「う、?小野、今、なんじ」
「ははぁへろへろじゃん。弱いんだったらイッキすんなよ一缶ダウン」
声の方に振り返ると、開け放たれた自室のベッドでパソコンに齧りつく小野が憎たらしく笑っていた。
肩が異様に凝っている。昨日、勢いのまま強くもない酒を煽ったっきり、そこで潰れてしまったらしい。あのアルコールの量で二日酔いだとは認めたくないが、普段より心做しか頭が重いのは避けようもない事実だ。
「あの、まじ、時間」
「9時46分。随分寝たなぁ心配しなくても今日はお前仕事休みだよ」
昨晩は確か夕食の途中だったよな、と机に目を向けるが、俺がぶんどって飲み干した酒缶はおろか食器すらひとつ残らず方されている。
「あれ、ごめん。全部やってくれた?」
「別にいーよ蹴っても起きないから夏輝のおかずまで貰ったけどな」
「いやそんなん全然、てかあれ、今日何曜?」
「土曜。なんなら三連休じゃん今週。お前顔洗ってこいよいつになくぽんこつだぞ」
俺の相手に飽きたのか仰向けに体制を変え腹の上でパソコンの操作に勤しみ始めた小野に、もう一度だけ「あざす、」と礼を告げて未だ覚束無い意識を起こすため洗面所に立つ。人間顔を洗えば大抵の事は整理が着くのだ。これ自論。
多少ふらつきを感じながらも移動し、ぐしゃぐしゃと混在する時系列と夢と現実を少しでも処理する意味も込めて、冷たい水で顔をすすぐ。
顔の皮膚が分厚くなったみたいに感覚が鈍い。秋も終わりが近付き凍てついた空気に侵食されつつあるこの頃は夏場には有難いこの温度が拷問でしか無かったはずなのに、なぜだか今日は他人事のようにすら感じられた。代わりに、ずしんと胸の辺りに冷たいものが広がる。氷水をぶちまけられたように、限りなく低い温度がじわじわと広がって、気道を狭くする。息がしずらくなる感覚は、却って脳をクリアにしてくれた。
現実に引き戻される感触は、幼い頃嘘がバレることを恐れていたときのそれに似ている。
夢に出てまで、俺の誤認を正したかったのか。それが俺の持ちうる唯一の慰めの術だとしても、はるの亡霊はそれをも許してくれないのか。そんなどこまでも身勝手な言い分はどうしたって正当化できないとわかっているから、許してくれとは言わないが。
「夏輝」
こいつはよく後ろから声をかけてくるな。
今朝の夢か記憶か、妄想か、あの光景みたいに振り返る。その先にいるのがはるではなくこの飄々とした男であることが許しも乞えない俺への救いのように思えた。
「はよ水止めろ。あとめっちゃ垂れてる」
昨日から異様に優しいな。彼女でも出来たのか?
そんな悪態をつく心の余裕はなくて、差し出されたフェイスタオルを黙って受け取った。男と衣類やタオルの共有なんてクソ喰らえと、間違って小野のスウェットを着かけただけでブチギレるこの男が自分の物を貸そうとしてくれるなんて異例の事態だが、俺が余程酷い顔でもしていたのだろう。
あぁ素面じゃないと言い訳もできねぇよ。起き抜けに冷蔵庫から小野のストックをがぶ飲みでもしておけば酒のせいに出来たのに。今の小野なら一発ガチで蹴る位で許してくれただろうな。
先月買ってきたばかりのフェイスタオルはそこそこ良い値の張るものなだけあってふわふわとしていた。柔軟剤すらも使わない簡素な洗濯でもお肌に優しそうな生地を保っている。株で月に俺の4倍ほど稼いでいる小野からしたら言葉通り端金なのだ。
顔を埋めて、一息ついて、離れる。大丈夫。まだ保てる。
「ごめん、ありがと」
水道を止めて、小野の方へ向き直る。
うげ、男に恩売っても美味くねぇー。といつも通りの調子で部屋に戻っていく小野にまたもや平静の空気を吸うことが叶った。
なぞればいい。いつも通りを。既に俺の世界にいなかった誰かがどうにかなったところで、俺の世界にはいなかったのだから、何も変わらない。俺の生活は、何も違わない。
手元のタオルを見下ろして、もう一滴だけ垂れた閉まりの緩い蛇口を見た。
ただ、確かに何かが減ってしまったと思った。むしろ、減っていたいという願望に近かった。
水滴はその形をすぐに手放して流れる。元からその形なんてなかったみたいに、惜しげも無く手放す。そうしてまた懲りずに同じことを繰り返すのだ。惜しくないものを、正しく惜しくないと思えるようにならなければならない。そうでなくとも、惜しくないと言い張れるようにならなければ、俺は俺できっと居られない。
タオルを片手にリビングに戻る。普段から自室の引き戸を開けっぱにしている小野は相変わらず開放的なまま軽く散らかった部屋を晒していた。
当の本人は何食わぬ顔でパソコンの作業に戻っている。
「なぁ小野」
呼び慣れた苗字。下の名前は親しすぎるから出会って早々に呼ばないことに決めていた。学生時代を共にしなかった人間と今更腹の探り合いから始める気がどうにも起きないのと、その場のノリで決まった同居生活など数ヶ月で断念すると決めつけていたから。
この世の全てを悟ったほど経験は積んでいないが、子供を名乗るにはあまりに背が伸び過ぎた。そのくらいの妥協や予備知識は、持って然るべき大人の常識だ。
図体ばかりが大きくなり言い訳と時間が減っていく中で、何かを完全に分かち合えるなんて希望を抱くことを辞めた。それは間違っていないと思う。もとより、そんなことできる方が難しいのはずっと分かっていたことだから。
ただ、俺の中でこの男が苗字で言い表す存在でしかない事がどこか遠く、そしてちょうど良い距離だと思った。
「んー?」
「おれさ、」
今の俺は、惜しくないものを、正しく惜しくないと思えるようにならなければならなかった。そうでなくとも、惜しくないと言い張れるようにならなければ、俺で居られなかった。俺で、居たかった。
「実家に帰ってみようと思うんだよね」
惜しくないと思うだけの証明がなければ。
聞き分けよく割り切れる大人にはまだなれない自分だけは認めて、せいぜい傷付いてやる。傷付かないならそれはそれでいい。無意味に古傷を切り開くことになったとしても、どっちにしろ本望だ。
俺が置いていったのだと、そんな顔で言うのなら、お前が俺に向ける刃先を喜んでこの胸にしまってやろう。
──────────────────
「まじ誰かと付き合いたいやばい」
今日だけでも両の手足の指じゃ収まらない数口にしたその言葉に、凝りもせず「要らな」と返す。
薄暗いカラオケボックスではテレビの中のよく知らないアーティストが謎のコラボを宣伝するのに必死になっていた。初耳のグループ名に所属している初耳の彼は舞台の座長も務めるらしい。誰かよく知らないが頑張ってくれ。
「だって普通に考えてもう11月だよ?夏フェスカップルあるある実現できなかったんだからもう年越しに賭けるしかないっしょあせあせだわてかその前にクリスマスだわ」
年末に恋人が居ない事実を嘆いてクリスマスまでにだのほざき始める奴はどの季節の風物詩も恋人がいない寂しさの象徴としてその枕に"ぼっち"をつけたがるのだ。"クリぼっち"がその代名詞だ。
「友達いりゃいーだろ別に」
「かっはー、恋人いれば他なんもいらねー」
「浅はかすぎて吐き気するわ」
思春期も甚だしくて寒気がしますに嫌悪感を添えてお届けすれば、はるは真に受けた様子もなく口を尖らせてタブレットに向かった。指先でぴっぴと操作して、何やら曲の予約を入れる。素知らぬタレントの宣伝が打ち切られたのでテレビに視線を移すと、次に演奏される曲名が沈黙の中表示されていた。
「おー、これいいよな。はるに教えてもらってからずっと聞いてるわ」
キリストだったか、何かの宗教の神話に出てくる二人の男女の名前がそのまま借りられた曲。恋愛に重きを置く人間を歌った文章は、歌詞に重きを置く俺にはあまり刺さらなかった。はるが好きだと言ったから。ただそれだけの理由で何度も聴き込むのだから笑える。シンプルに曲調を気に入ったのも確かだが。
「これ生で聴いてみたいのよ。多分余裕で泣く」
「えぇはるが?」
「いや盛った泣きはしないわ」
そこまで話して、曲の頭を示すカウントが聞こえ俺は口を閉じる。はるも気付いたようで、マイクを片手に画面に向き直った。本人映像だ。はるの好きなバンドのボーカルがベッドの上妖艶な雰囲気を醸し出しながら座り込んでいる。
はるの歌声が狭い部屋に響く。何度だって、その声で体は動かなくなる。見開くわけでも噛み締めて閉ざす訳でもない瞳でじっと色付く文字を追い、たまに盗み見るようにはるに視線を移した。
浸っていたいのに、さっきの言葉が脳裏に流れた。
こいつも、いつか誰かと付き合うのかな。付き合うんだろな。相手はどんな人だろうか。こいつを、どんな人が好きになるんだろうか。
「あなたと私がいて、それ以上望まないよ」
そんな、そこまでは思ってねぇけど。家族がいて、友達がいて、普通に起きて普通に学校へ行って普通に帰って普通に寝て、そんな日々にはるがいたら、ずっといたら、きっとそれほど幸せなことは無いだろうなと、思うだけだ。
一緒に居て誰よりも心地よい訳でも楽しい訳でもないはると、誰よりも一緒に居たいと心から思っていた。はるの口先ばかりの誇張した好意を本気にしていたつもりは無かった。どれほど言葉に責任が持てない奴かなんて心得ていた。けれど、どうしても、舞い上がらずにはいられなかった。
人は変わるし、時間は止まらないし、季節は流れる。
人と人との繋がりになんの保証がないことも、分かっていた。はるは薄情な分俺よりもそれを理解していたのだと思う。
互いに気を許した仲でもない俺たちは不格好に繋ぎ止めただけの糸を切らさない術など知らなかった。
何が決定的な原因など分からない。強いて言えば、俺の器量が人との馴れ合いを過剰に拒むはるを受け入れるに足りなかったことだろうか。癖であるかのように何気なく口にするはるの言葉は、毒を纏った棘のごとく時間をかけて俺の心を蝕んだ。
ことある事に俺を軽んじる発言をするはるに寄り添い続けることが、堪らなく苦しかった。俺ばかりがはるを必要としていることが、堪らなく虚しかった。
あんなにも俺に拘ったはるの心に結局俺は溶け込めなかった。あんなにも俺に拘ったはるが求めるのは結局は名ばかりは大層な恋人だった。
俺は、要らない。
ずっと分かっていて、認められなくて、目を逸らし続けていた事実をやっと飲み込んだ俺の痛みきった喉では、その心情を伝えることなどとうに出来なくなっていた。
もとより、誰でも直ぐに手放せる性分なのだ。自分を大切にしない相手だとわかれば、なんの未練もなく断ち切れると自負していた。裏を返せば、傷付くリスクを最小限に抑え込む為に、誰かに嫌悪感を向けたくないがために、自分から相手の世界を去る臆病者だと自覚していた。
だから、離れた。はるから。
簡単なことではなかった。生まれて初めて、心から好いた相手だったのだから。その気持ちが恋だと気付いたのは半年かけて離れたはるの影が胸に居座る理由に辻褄を合わせようとした時だった。その頃にはもう、1番初めの傷跡から1年を優に超える時間が流れた頃だった。
俺と全ての関わりがなくなったはるは部活をやめた。きっと俺が原因ではないのだと思う。俺は結局はるの何にもなれなかったのだから。
春に出会って、友達になった。夏に擦り寄って、恐らく互いに必要とした。秋に目覚めて、耐えることにした。冬にはもう、終わりを告げていた。そうしてはるの居ない季節が巡って、最後の一年が静かに始まりを告げていた。
──────────────────
宣言したら後は実行するだけだった。昔から決めたことは守る人間だ。宣言した対象が自分自身にしろ他人にしろ、自分をこれ以上見損ないたくないが為に必ず形にしてきた。
小野は俺の言葉に「そーか。連休だしいーんじゃね」と軽く返してその掌をひらひらと振るだけだった。まじで軽い奴だ。むしろ有難い。決心が鈍る隙も与えないくらいに、俺にとって最大の決心をいとも簡単になんでもない事にしてくれる。実際、小野からしたら知り合いがかつて好いていた知人に線香をあげに行くようなものなのだろう。小野からしたらもなにも、単純にそれだけだ。
数年ぶりに、仕舞いこんでいた有線のイヤフォンで耳を塞いでみた。自覚がある程には几帳面な俺は高校三年間使ったイヤフォンがどこにあるか分かっていながらずっと触れずにいた。思い出したくないものが蘇ると分かりきっていたからだ。次に触れる時には差し込み口が型遅れになっているだろうなんて思っていたが、今のものでも問題なく対応していた。
ずっと消せなかった高校時代のプレイリストは、機種変更しても引き継いでおいた。こんな日が来るなんて思ってもみなかったけれど、こんな日でも来なければ前に進めないとどこかで分かっていたのかもしれない。
耳元で流れる歌声は、あの日のあいつの声よりも随分と特徴的で、人によっては受け付けない色をしている。でも俺は好きだった。俺だけがこの良さを分かっていればいいと思っていた。本当に好きなものの良さは、俺だけが分かっていたかったのだ。
大学を出て二年。一度も家には帰っていない。里帰り初心者の俺が鞄に詰めたのは財布と通帳とクレジットカードとハンカチだけだ。だって、着替えなんて古いのなら実家にあるし、タオルだって持ってく必要ないだろうし。
普段使いの小さな鞄にそれらを詰め込んで家を出るためにリビングを通れば、少し驚いた顔で鞄と俺を見比べた小野は、何を言おうか口を開きかけた後諦めたように笑った。大方、今からかよ、とか、荷物そんだけかよ、とか、言いたいことはいくつかあったんだろうけどどれも言わなくていいと判断したのなら聞かなくていい。
「まぁ行ってこいよ」
行ってこい、に、帰ってこいが含まれてる気がして足が軽くなった。帰りには昨日の詫びでビールでも買ってきてやろう。
里帰りと言っても新幹線で3時間弱の距離。飛行機に頼らなくてもなんとかなるので新幹線代さえ惜しまなければ今日中に着く。
家を出て駅に向かって、スマホで調べながら新幹線に乗った。会社とは逆方面の、更には新幹線に乗るのは随分と久しぶりだ。
道中、色んなことを思い出した。耳の中で鳴り続ける煩い青春のせいでもあるだろう。
出会った日の匂い。一目見た時からきっと目を奪われていた。初めて外で会った日。自転車で草むらに突っ込んだはるの顔は今思い出しても笑えるな。暑い暑い夜のやり取り。あんなにも眠りたくなかったのは初めてだった。花火を見に行ったな。自転車に乗って、何度も同じカラオケボックスで似たような曲を歌って、飽きもせずに会って。全てが楽しかった訳なんてなかった。コミュニケーション能力に乏しいはるは会話を弾ませることが苦手だったし、俺もそういう相手と関わるのは得意じゃなかったから。
それでも、会いたかった。
"なつきともっと違う関係で出会いたかったわ""来世は正しく出会いたいね"そんなぶっとんだ言葉を投げかけてきてもなお俺になんの気もなかったなんていっそ笑えてくるよな。そんな言葉まるで始めからなかったみたいに俺の存在を軽んじる発言を繰り返して、そんな言葉をかき消すみたいに上からぐしゃぐしゃに塗りつぶして、楽しかったのだろうか。
歌が流れた。はるの声だった。怪獣がハミングする歌だとか、一人になった時に自分の弱さを実感する歌だとか、今日はギスギスするなよと余裕そうに笑う歌だとか、随分と懐かしい曲ばかりだった。
スマホから流れる音楽はとめた。集中したかった。段々と薄れゆく記憶の中でここまで鮮明に歌声を思い出せるのは、もう無いと思ったから。録画じゃだめだ。録音じゃだめだ。この耳で確かに聞いた歌声だけが、そばに居た証拠だと思ったのだ。
送られてきたあの動画を思い出す。夜9時。だったと思う。弾き語りだった。俺の好きな歌だった。あの曲を、どんな気持ちで選んで歌ったのだろう。俺が好きだから、喜ぶだろうなと少しでも考えただろうか。俺のいない場所で俺の事を考える瞬間は確かにあっただろうか。ほんの少しでも俺は、はるの心に居られたのだろうか。ほんの一瞬、だけでも。
気付けば瞼は落ちていた。
今朝の夢のような空間で、俺とはるだけが佇んでいる。背景は白と言うよりは何も無い空白に近かった。今朝と違うことといえば、視点が第三者でなく自身だと言うことだ。
夢にしては珍しく自由に体を動かせるようだ。動くことの確認として両の手を見下ろしたところで、自分の服装が高校の制服だということに気がつく。
あぁ、じゃあまんま今朝の俺の視点なんだな、と理解したところではるから投げかけられてきたのは、今朝とは違う余裕のない声だった。
『お前のこと要らないなんて思ったことない、』
怒鳴ってはいない。しかしながら語尾に強い意志を込めた声色は普段のはるとは随分と対極なものに思えた。
なんか、これ。
直後、その言葉の既視感がメッセージ上でのやり取りから来るものだと分かった。
はるから離れようと苦しんだ半年間、距離を取った俺を数度引き留めたはるの決まり文句だった。直接的な言葉はくれないくせに、俺の悲観を否定的に口にすることで何度も俺の手首を掴んだ。後ろ髪を引いた。
『勝手に判断して離れてくなよ、』
いつかもそれ、言われた覚えがあるなぁ。あれは確か端末内のメッセージ上だったが、もし口にしたとしてこうも縋るような響きは持っていなかったと思う。
一度だってこんなふうに、必死をぶつけられたことは無かったよ。この都合の良い妄想が記憶なんかじゃないことは明確だった。せめて記憶であれば良かったのにと思うが、もしこんな記憶があったとしても同じ道を辿るのならなんの救いにもならなかった。
『、』
夢の中の俺は、今度は声を出せるようだった。
真冬の風に吹き付けられた指先みたいに、自分の一部とは思えないほど悴んだ唇をゆっくりと開く。酸素がないような心地だった。少し息を吐くだけで崩れ落ちそうな意識の脆さで、確かにその丸い目を捉える。今度は崩れていきそうにない。
『それを解って、なんだって言うんだよ』
はるが本当に俺を必要としていたとして、俺がそれを解っていて、だからなんだと言うのだ。心の奥ではそんな気持ちをぶら下げていたとしても、それが俺をこっぴどく嬲る言葉の温度を優しくするとでも思ったのか。伝えられなかった本心ごときが人の心を守るとでも思うのか。
俺だけを受け入れてくれないなんて被害者ぶったつもりはない。俺がはるの心に立ち入れなかったように、誰も踏むことのできない影をはるはその心に抱えていた。そんなことは痛いほどに分かっている。
一人でいることに怯えるはるが一人でいないための手段となることでさえも本望だった。本心だ。利用であっても繋がりたいと思った。俺がはるを好いている気持ちに偽りはないのだから、どんな形であれ一緒にいて笑っている事実があれば十分だと心から思っていたさ。だからと言って、手段にすることと胡座をかくことをイコールで結ぶことを受け入れたつもりはなかった。
『解るだけで全部受け入れろって言ってんのか』
言葉にして欲しかった。嘘でも良かった。ただ、たまに吸い込む優しい温度が欲しかった。
はるは俺の言葉に丸い目を細めて、口角を少しだけ緩ませた。気が付かなかったが、声だけじゃなく表情まで燻げだったんだな。
朗らかに、優しく、笑顔みたいにその眉尻は下がる。
俺はなはる、お前を全部心にいれてやる覚悟くらいあったんだよ。俺はな、はる、なぁ、はる。
今こそ砕けてしまえばよかった。はるだけじゃなく、俺も。散って舞って混ざって、どれが自分か分からないように、一つになってしまいたかった。
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クラスは一緒にならなかった。なってもきっと絶妙な距離感で突き放しきれないまま、くだらない交流を続けていただろうから、そんなこと望んでもいなかったが。
2つ隣のクラスで新しい面々と交友関係を築くはるは、いつすれ違っても似たような仏頂面だった。
俺も出会ったばっかはずっとあんな顔されてたな。今となってはあれが、多少の気まずさに耐えるはるなりのポーカーフェイスだったと分かる。楽しい時にはあの目は不思議なところに小さなシワを作って笑うのだ。
時間が流れると共に確実に開いていく俺とはるとの距離を、呆然と眺めるように過ごす日々だった。
話さない。関わらない。目すらも合わない。段々とそれが普通になっていく。普通というのが気に止めることもない背景のことを指すならば、俺にとってそれが本当の意味の普通になることは一瞬も無かったけれど、それが平静であるかのようにカレンダーは何枚も捲られた。
彼女を作ってみたり女の子と関わってみたりもした。いよいよ異性に性的興奮を覚えることも心からの恋愛的好意を抱くこともなかったが、よくある数カ月別れの交際には落ち着いていたと思う。
はるのことを考えなくて済む時間がとにかく必要だったのだ。
思春期をたった一人の友人に惚れ込むだけで終わらせるのは惜しくも思えたが、どれだけ最低な薄情者だと理解はしていても、そうするに足ると言い張れるほどの泥酔の中にずっと居たから。
言ってしまえば救いようもない馬鹿だった。自分が一番よく分かっているさ。
高校生活最後の体育祭が終わり、重みの違う考査を程よく乗り越えて、最後のイベントである文化祭はなんの胸の高鳴りも期待できないまま幕を開けた。
三年の出し物はクラスごとの任意なのでうちのクラスは辞めておくことにした。クラスの陽キャ女子がほぼほぼ勝手に決めたことだが、反論はないので別に良い。出し物のシフトがあろうとなかろうと、少し気の合うだけのクラスメイトと行動を共にすることには変わりなかったし。
後輩の演奏を聞いたりフランクフルトの屋台に何度も並んだり劇を覗きに行ったりしていれば、文化祭は呆気なく終わった。後夜祭なんてない子供心に欠けた高校だ。終わってしまえば掃除が猛烈に煩わしいだけのただの放課後だった。
そうして、風が冷たくなって、前髪を攫う突風に身を震わせて、雪が降って年が明けた。
一月が終われば俺たち3年はほとんど登校する必要がなく、入試を控えている組ももうとっくに進路を決めた組も思い思いに自由な時間を過ごしていた。
俺はと言うと、11月に決まった大学のサークルを調べ漁る日々を過ごしている。ヤリサーに興味は無いが飲みサーならまじで入るだけ入っときたい。大学生の勲章のようなものだ。
たまにある登校日ではあまりはると顔を合わせなかった。同じ空間に居たとして向かい合うことなどないので顔を合わせるという表現が正しいのかも伺わしいが、どっちにしろ関わらないことには変わりがないのでこの際どちらでも良い。
俺の世界にその残像を残したまま、はるの世界から俺は完全に消えた。すれ違う度いちいち目で追う俺にほんの数瞬もその瞳を流さなかったことが何よりもの証明だろう。意識の範疇に居ない。分かりきっていた事実はいつまでたってもあの日確かに俺を捉えた丸い目との対比を脳に強いた。
空気が凍てついて、マフラーの隙間からもこの身を蝕む冷気に雀の涙ほどの慈悲が滲んだ頃、校門の裾で身を潜めていた桜は芽吹き始めた。
桜前線は例年通りの足の速さで、寒さに怯える人間を置いてけぼりに実を結んでは開いた。
出会ってから三年が経とうとしている。教室での髪を何度も思い出していた。入学式なんてつい先週のことのように覚えていたはずなのに、気付けば自分がどの辺りの席に座っていたのかも思い出せない。
どの環境を巣立つ時にも、そこのお偉いさんは長々と演説じみた話をする。皆が面倒だと口を揃えるそれが、俺はそこまで嫌いじゃない。欠伸をしないと言い切れはしないけれど、その顔に浮かんだ皺の数だけ、未来へ進もうとする若者に伝えたい言葉はあるのだろうと思うから。
開け放たれた体育館の扉からはまだ少し冷たい風が舞い込んできた。風に乗った桜の香りは感じたことない。一度調べてみたが、顔を近付けてもわかる人にはわかると言った程度のものらしい。それでもその香りがどんなものか想像がつくのは、覚えていないだけで幼い頃鼻をこすりつけて嗅いだことがあるからなのだろうか。
歌は歌わないらしい。高校生の卒業式というものは実に質素で、形式じみたもののように思えた。世の季節ごとに則っただけのレプリカみたいだ。
少し期待していた。別れを惜しみ未来へ羽ばたくような定番の歌を皆で歌って、その中で微かにあの声が聞こえてきたりしないものかと。授業の音読でもボリュームを最小に抑える奴だ。ちゃんと歌うとは思えないが、そんなこと考えていられないほどに、最後の機会に淡い願いを託していた。それもまぁ、機会すら訪れなかったが。
校長の話も、締めに差し掛かったような気がする。在学中の俺たちへの思いから、今まさに飛び立とうとしている俺たちへ宛先が移り変わるのを感じた。
もう、式も終わる。教室へ戻って終業のチャイムがなれば、俺たちはこの学校にとってイレギュラーな存在となる。いてしかるべきものではなくなる。俺たちの居場所では、無くなる。
あぁ、いよいよ俺たちを繋ぐ最後は時間とともにこの場所へ置いていかれるんだな。
「本日、この学校を巣立つ貴方達の未来が、可能性に満ち溢れ、限りなく明るいものであることを、私は信じています」
直接口を聞いた事の無いご老人の言葉に、長い話で背筋の曲がった生徒はようやくかとその居住まい正した。
今日の日付が読み上げられる。入学してから三年まで、あと少し残っていた。高校の名前がスピーカーから流れる。今夜には母校となる名前だ。校長は涙ぐんだままの声で最後に貫禄のある字列を名乗った。
話さなかった。一言も。皆が最後の思い出作りにとカメラに笑顔を残す中で、はるには声をかけなかった。とっくに終わってしまった俺たちに俺の手で本当の終止符を打つなんて、出来るわけがなかった。中途半端で終わらないままにしておきたかった。はるにとっては記憶の隅で意味もなく離れて行っただけのかつての級友に成り果てても、俺の中ではいつまでも終わらないままの未完全な思いをここに放ったらかしにしておきたかった。
春が来た。俺の願望で塗り固められた幻想を除いて、全ては穏やかに終わりを告げた。
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死んだ人は大抵、葬式までの数日を暮らした家に安置されて過ごすらしい。季節にもよるが、腐敗しない適温を保つ術の取れる環境であれば、遺体は安置所などに連れられることなく最後までの時間慣れ親しんだ我が家に居られる。
昼前に家を出て、なんだかんだ実家についたのは夕飯時だった。
音沙汰のなかった息子が突然帰還して喜んだ母さんだったが、あまりにも顔色の悪い俺に何かを察したらしくとりあえずは風呂に入るよう促してくれた。
父は仕事で遅くなるらしく、母さんと二人の夕食で高校時代の友人が事故で死んだことを話す。随分とショックを受けていた。仲が良かった頃はよく話にも出ていたから、それも覚えていたからだろう。
もう夜も遅いので今日は早くに寝て、はるの家に行くのは明日にすることにした。そういえばはるの家に出向いたのは一度だけだったし、その時も家に忘れたというギターのシールドを取りに帰ったのに同行しただけでお邪魔までしたことはなかった。
明日ははるの家までの記憶を辿ることから始めなきゃだな、なんて思いながら、板張りに布団を敷いただけのベッドで天井を見上げる。
久々に横になる実家の寝床は相変わらず優しさのない硬さだけれど、長年熟睡してきただけあって妙な安心感がある。マットレスが欲しいと思い続けた22年だったが、結局あの憧れの入眠が叶うことはなかったな。
妙に目が冴えてしまって、はるがこの部屋に来たことを思い出した。あの頃俺はまだギターが弾けなくて、はるの持ってきたエレキギターを見様見真似で弾いてはその指の迷いのない動きに何度も感心したものだった。俺が好きな曲を続けて奏で、合わせて歌うように促す目は優しく弧を描いていた。
おそらくは誰もが好く訳では無い見た目で、おそらくは誰にも好まれることの無い本性で、ありのままを俺だけに晒していたと思う。そんな、どうしようも無い詰めの甘さと自分は特別になれるのだと思い込んだ俺の幼さが、愛らしいくらいに恥ずかしかった。まだ終わったつもりで居ない自分が、なによりも哀れで、明日の今頃にははるの遺体をこの寝床で思い出しているであろう事が信じられない。
今もどこかで飄々と生きている気がしてならなかった。だって、あいつだ。のらりくらりと大切なものを定められずに、自分を大切に思う人を傷付けては加害者になり続けて、被害者みたいな顔をして、下手くそに生きているものだと、思うじゃないか。
死ぬって、なんなんだろう。はるが死んだって、どういうことなんだろう。俺のあいつに対する持って行き場のない苛立ちも嫌悪感も、胸が締め付けられる懐かしさも、何一つ変わらないというのに、はるだけがそんな俺と世界を置いて変わってしまった。思い出すはるの仏頂面も笑顔は、輝きもくすみもしないと言うのに、今この世界にいるはるの表情はもう二度と笑みを浮かべることがないと言うのか。
分からなかった。はるが死んだということが。どういう事なのか。何か変わるのだろうか。
高校時代のはるは、終わりを迎えさせないまま俺が時間を止めた。変化を終えることを死と言うなら、俺はもうとっくに高校生のはるを殺したのだ。
それなら、尚更、何が変わったと言うんだろう。
泣けるんだろうか。俺は。目の前で空っぽの体だけになったはるを見て、何か正しい感情を掴めるのだろうか。
分からなかったけれど、それはきっとどれだけ考えても分からないことだろうから、目を閉じた。目の前に広がる暗闇には、いつだって願望が映し出される。
何も終わっていない最後の夜に見た夢は、いつかのカラオケボックスの中だった。他愛もない会話をしながら、順番に流れる演奏に合わせて歌った。はるの歌声はやっぱり綺麗だった。あの日の俺たちがいかにも選びそうな選曲で、薄暗い部屋の中は満たされていく。
何でもない日だった。ずっと続いていくはずの、くだらない時間だった。
テレビの画面を見つめるはるの瞳は反射できらきらと輝いていて、そこに飛び込んでしまえるような心地がする。
「あなたと私がいて、それ以上望まないよ」
きっと忘れられそうもないフレーズが口遊まれる。
ふと気がつけば、君のいない部屋に一人だった。
日当たりの良い部屋。瞼の向こう側から照りつける暴力的な朝日に煽られ、乾ききった瞼を持ち上げた。
数え切れないほど起きたこの部屋で起床するのは随分と久しぶりだが、長年染み付いたルーティンというものは簡単には抜け落ちないようで、体は自然な流れで掛け布団を整えるために起き上がった。
気持ちの良い朝だ。カーテンの向こうに広がる青空はいかにも誰かの背中を押しそうな迷惑な色をしている。
布団をある程度整えて部屋を出る。階段を降りればリビングではジュージューと何かが焼けるがしているので、大方母さんが自分の朝ごはんでも作成しているのだろうか。考えながらリビングの扉を開けると、想像通り寝巻きのままキッチンに立つ母さんが「おはよう」と声をかけてきた。
「おはよ、何作ってるの」
「スクランブルエッグ。いる?味ないけど」
「いる」
スクランブルエッグはあまり好きでないが、なにか腹に入れておこうと思う。今日することはもう決まっているのだから、朝食は手短に。
料理ができる前に着替えを済ませようともう一度二階へあがり、タンスから無難な黒のスウェットとジーパンを引っ張り出した。身長は高1で既に止まっていたし家を出てから体型も大して変わっていないので、問題なく着ることが出来そうだ。寒さに耐えながら寝間着を脱いで袖を通すと、やはりすんなりと入った。
昨日肩にかけてきた鞄には必要なものが入ったままなのでそのまま掴んでリビングへ戻る。腰を下ろした椅子の背に掛けておけば食後に歯を磨いてスムーズに家を出られるだろう。
丁度いいタイミングで運ばれてきたケチャップの添えられたスクランブルエッグにいただきますと一声かけてからかぶりついた。久々に口にする母さんの料理は簡易的な卵のぐちゃぐちゃ炒めでも十分におふくろの味が感じられる。
有難く最後まで頂いて、手を合わせてご馳走様を口にした後ゆっくりすることなく席を立つ。洗面台で家を出たっきりおそらく二年置きっぱの歯ブラシを手にし歯磨き粉を探していれば、母は後ろからどこへ出かけるのか尋ねてきた。はるの家、と答えながらやっと発見した歯磨き粉を手に母の方へ振り返る。母は昨日の俺の報告を思い出したのか少し悲しそうな顔で頷いて見せる。変に勇気づけたりしない優しさが暖かかった。
歯を磨き終え、鞄を肩にさげてリビングを出る。玄関の隅に目をやると、高校への通学と大学時代駅まで通うのに使っていた電動自転車のバッテリーが邪魔にならない隙間へ収納されているのが目に入る。充電があることの確認として側面のボタンを押してみれば、残量を表す5つあるうちのライトが4つまで点灯した。20分ほどの距離のはるの家くらいなら難なくたどり着けるだろう。
「いってくる」
キッチンで追加のソーセージを焼き始めた母さんに声をかけと、いつかみたいに「気をつけて!」と返ってきた。学生時代の朝を思い出す。
自転車に乗るのは実に二年ぶりだ。小野はバイクに乗るし俺は主に交通機関での移動だったのであっちに越してからは自転車に触れる機会もなかった。
流れていく景色をぼーっと眺める。登下校のように遅刻や私用に急かされることはないので緩やかにペダルを漕いだ。
坂道。公園。階段上の公園。古びた住宅街。飲食店を抜けて母校の前を通り抜ける。金木犀の香りがしたが、そちらに目は向けないでおく。ぎゅうと胸が締め付けられるのはもう懲り懲りなのだ。
坂道を登って踏切を抜けて、さらに登る。ここからは記憶を掘り起こすしかない。
確かここは、おそらくここを、もしかしてこっちに。当てずっぽうも甚だしい感覚頼りの走行は自信の無さからか歩行者と肩を並べる速度で続く。
しばらく並木道を進めばなんだか見覚えのある団地に開けて、ほっと胸をなでおろした。あっていたらしい。
棟の番号は覚えている。住民用の駐輪場は専用のラベルを貼らずに置きっぱなしにしておくと撤去されてしまうそうだが、少しの間なら大丈夫だろうとそこに停めた。鍵を引き抜くのを忘れずに、無くさないよう鞄のポケットに入れておく。ここならふとした拍子に落ちることもなさそうだ。
数年で色褪せることはない団地の壁はあの日のままクリーム色をしている。立ち止まってしまうともう歩き始められない気がして、無駄な動きは最小に階段を昇った。三階の左の部屋。覚えている。部屋番号で覚えていなくてよかった。端の棟から数える羽目になっていたと思う。
一段ずつ踏み締めてあがり、扉の前で足を止めた。扉の隅は錆びて所々剥がれている。新しい団地でもないので昔からこんな感じだった。
インターフォンに、人差し指を伸ばす。震えていることには気付かないふりをした。
軽い感触と共に音が鳴って、中から足音が近付いてくる。ややあって扉が押し開けられた。
「喪中にすみません。お久しぶりです」
俺の声に、窶れた顔を出したはるの母は困憊した様子の目を少し驚いたように見開いた。
「夏樹、くん?」
「そうです」
「しばらく名前聞かなかったから。まだ連絡取り合ってたのね」
「いえ、高校以来一度も」
今回ははるの友達から連絡が来て、帰ってきました。と付け加える。はるの母はあらそうなの、なんて小さく言ってから、どうぞ上がってと家へ入れてくれた。
初めて入るはるの家ははるの匂いがする。当たり前だ。どちらかと言えばはるがこの家の匂いだったという方が正しいのだから。
入ってすぐの和室を通って洗面台のある部屋の前の廊下を抜ければ、奥まったところに開き戸式の扉がひとつある。そのまま開けるのかと思いきや、はるの母はドアノブに手をかけたまま固まってしまった。
「はるのお友達が来てくれたの、夏樹くんが最初なの」
声が震えている。子供が死んでまだ二つしか夜を明かしていないのだ。たった一人の子を失って、まともに寝られたとも思えない。彼女は今、どう考えても真っ暗な絶望の中にいた。絶望なんて言葉ではまだ足りないくらいの、きっとこの世界の一番くらいところに。
「貴方が来てくれてよかった」
てっきり、生前のはるを語ってくれるのだと思った。短かったはるの人生の中で最も多くの時間を過ごした家族なのだから、俺の知らない普通に暮らしていた日々のはるを尊ぶように見せてくれるのかと。そうしたいのかと。
けれどはるの母はそれだけ言うと、その表情を見せないまま扉を開けて俺を置いて廊下の向こうへ帰っていってしまった。
部屋ははるのセーターの匂いがした。それに混ざって思い出に霧をかける線香の香りに、思わず眉を顰める。本棚などはなく、簡易的な勉強机に椅子、ラックにはスーツとコートなんかが掛かっていた。
その部屋の真ん中に、はるは有った。
ついに終わった。ようやく終わった。長いようであっという間な感覚はあの日々と何も変わらない。
やっと解放されるんだろうか。はると共に、俺のこの意味の無い感情も、死んでゆけるんだろうか。綺麗な姿で転がるはるはどう見たって生きてはいなかった。何か声をかけようと、もうこの薄い唇から何か答えが返ってくることはないのだと痛い位に分かった。
布団から少し出た小指が見えて、ゆっくりとそれに触れてみる。季節や室温もあってかその手は想像よりもずっと冷たかった。
一緒に行ったライブの日の夜を思い出した。逸れないようにはるの手をここぞとばかりに握った人混みの中。そんなことする必要ないだろうに、はるは指を絡めて貝殻みたいに形作り直してみせた。人混みを抜けてしまえば離されるであろうその温もりが、永遠みたいだと思った。永遠であって欲しいと願った。
たった今、全てが手遅れになったのだと気付く。触れて始めて、終わって初めて、今まで何も終わっていなかったと知った。いつだって間に合った。話さなくなった季節でも、目が合わなくなった季節でも、この地を離れてからのいつだって、きっとまだ手遅れじゃなかった。口を開けば、目を合わせれば、ここに帰って来れば、何かを変えられた。そうすることが正しかったなんて思わない。きっと自傷行為以外の何でもなかった。それでも、ずっと手遅れなんかじゃなかったことだけは確かだった。
俺はな、はる。何も終わらせたくなかったんだ。終わらないまま、俺だけがずっと苦しんでいたかったんだ。出来もしないのに、ずっと俺たちの時間を止めておけると信じようとしていたんだよ。そうしていれば、ずっとかつてのお前を思って立ち止まっていられるって。
目の前が大きく歪んだ。すっかり黒髪になったはるの姿がぼゆける。いつから茶髪じゃなくなったんだろうか。窓からさしこむ光だけがはっきりと捉えられる全てだった。
どうして離れることを選んだのだろう。けれど離れなかったとしてどうにかなったというのか。どうしてきちんと話をしようとしなかったのだろう。何をだ。お前が好きだって、自ら好奇の目に晒されにいけばよかったのか。どうして勝手に全て諦めていたんだろう。いいや、何を望めたというのだ。
混在する思考の中で、ぼんやりと有り続けるのは、ただ一片の脆い恋だった。
喉が切り刻まれた様に熱い。胸が、無くなってしまえばいい程に苦しい。涙なんて止められるはずもなかった。拭う余裕もないほどに、果てしなく流れる。痛い。痛い。
「すきだ」
今も。と、多分声にならなかった。でももう、どちらでも変わらないから、別に良かった。
今、はるの手を握って、体に縋りついて、声を上げて泣いたって、長いまつ毛に閉ざされた瞳が俺を映すことなどもう絶対にないのだ。好きだったと言っても好きだと言っても、この気持ちが届く時は永久に来ないのだ。
俺は自分で、届かない言葉を本当に届かないものにしてしまった。あの日のまま二つ穴のあいた左耳にいくら告白をしたって、これはもう飾りでしかないのだ。
なぁ、はる。ちょっとでいいから起きてくれよ。ほんの少しでいいから。俺がこの9年、抱えて隠して塗りつぶした全部を伝える言葉が、やっと見つかったんだよ。とうの昔に破り捨てたたった二文字に、やっと気付けたんだよ。もう黙って逃げたりしないから。もう置き去りになんてしないから。あの日の手をはるが離そうとしたって、無理にでも強く握って逸れないように歩くから。
好きだよはる。今も、ずっと好きだ。俺を思ってくれないお前が好きだよ。誰か一人に特別をあげられないお前が、本当に好きだ。
丸く幼げだった頬はあの頃より少し大人びていたけれど、優しげなラインはそのままだった。
白く血の巡らない肌はそれでも綺麗だ。夢の中の感覚が蘇る。そこにいるはずのはるは、有る以上の何でもなかった。遺体、だった。
息がおかしくなって嗚咽が洩れる。何度もしゃくりをあげた。冷え切った小指をぎゅっと握りしめても、もう握り返してくれる人は居ない。
やっぱり、置いていったのはお前の方だよ。
"君がいない部屋に、一人だった。"
いくらかその彩度を落とした歌声が頭の中に響いた。俺がいない世界で、はるは俺を思い出したかな。目障り以外の感情は俺に向いていただろうか。
「はる」
情けない声でなぞったことが悔やまれるほどに美しい名前だ。きっともう、呼ぶことは無いから、ありったけの思いを詰め込んで。
お前の幸せを、心から願っていたよ。普通に誰かと付き合って普通に結婚して普通に命を育てて、どこかでそうやって生きていてくれればいいと思っていた。俺の知らないところで、俺に見えないところで、正しい幸せに浸かって欲しかった。
例え時間が戻せたって、俺は何も伝えないと思う。そうすることが正しいとはやはり思わないから。
忘れるなんて出来るはずがないから、俺はその温度を指先に焼きつけるみたいに目閉じた。
はるはもうすぐ灰になる。今日この場を去れば、俺はもう形のあるはるに会えることは無い。きっと今が、触れられる最後だから。
「そっちで、幸せになれよ」
少しも動かない口角が愛おしかった。微笑んで欲しかったけれど、それもはるらしかった。こいつが灰になっても、俺はその灰にすら恋をし続けるんだろう。
愛なんて大それたもの分からない子供が、精一杯に抱いた大切がこれだった。
好きだよ。きっと、ずっと、褪せていく思いを磨き直しては一人傷ついていくのだ。それでいい。それがいい。
灰になったはると、風を舞う夢が見たいと思った。




