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推し(負けヒロイン)の為に振り向かせますとも!!!

作者: パリトン
掲載日:2026/10/18

「リディア。僕に何か用かな」


 明日の午後、お茶をご一緒しませんか。

 それだけ。それだけ言えばいいのに、招待状を握る指に力が入る。目の前のアルベルト殿下は返事を待ってくださっているし、お顔だっていつもどおり穏やかだ。

 お忙しかったらどうしよう。子供のころとは違うのだから、私だけでお時間をいただくのは迷惑かもしれない。断られた後、明日からどんな顔をして会えばいいんだろう。


「……いえ。お忙しそうでしたので、また今度」

「そうか では、また後で」


 殿下が軽く手を振る。

引き止めようと一歩踏み出しかけて、結局、その場で足をそろえた。

 殿下の方を見ると、廊下で待っていた栗色の髪の少女が彼に何かを話しかけ、二人が笑い合う。

 その光景を見た瞬間、頭の中に文章が浮かんだ。


 『――リディアは招待状を隠した。彼の隣で笑う資格が自分にあるとは、どうしても思えなかった。』


 知っている。


 この文章、何度も読んだ。どうして呼び止めないの、せっかく手紙まで書いたのに、と歯がゆく思ったところだ。頁をめくる手を止めて、この後の展開を知っているくせに、今度こそ名前を呼んでほしいと願っていた。

 でも今なら、声が出なかった理由が分かる。

 こんなに怖いんだ。好きな人に、少しだけ時間をくださいと言うことが。


◇


 すぐそばの長椅子に腰を下ろした。噴水の音を聞いていると、さっきまで普通だった中庭が、急に知らない場所のように見える。いや、知っている。学院へ入ってから何度も通った場所だし、この長椅子で本を読んだことだってある。

 あるのに、もうひとつ、別の暮らしを覚えている。

 日本の小さな部屋。枕元に置いたスマートフォン。翌朝も早いのに、あと一章だけと恋愛小説を読み続けていた私。

 あの小説には、大好きな女の子がいた。

 王太子の幼なじみで、伯爵家の長女。控えめで、人に頼み事をするのが苦手で、そのくせ誰かに頼まれると断れない。自分の恋のことになると何も言えなくなるのに、侍女が叱られていると震えながらでも間に入る子だった。

 名前は、リディア。

 自分の指先を見つめる。爪の形も、左の人差し指にある小さな刺繍針の痕も、見慣れたものだ。それなのに、挿絵の中でこの手がハンカチを握りしめていたことまで、同じくらい鮮やかに思い出せる。


「……私?」


 声に出してみても、答える人はいない。向かいの廊下を生徒たちが通り過ぎていく。私は招待状を膝に置き、両手でそっと自分の頬を挟んだ。

 リディアになっている。

 違う、十八年間、リディアとして暮らしてきた。その記憶も全部ある。さっき突然別の誰かになったのではなく、忘れていた前世の私が、今の私に追いついてきたみたいだ。

 理解が追いつかないのに、胸の奥から別の感情がこみ上げた。

 推しの頬、やわらかい。

 こんなときに何を考えているんだろう。でも、だって、リディアだ。挿絵を拡大して髪飾りまで眺めた、大好きなあの子なのだ。

 慌てて鞄から小さな手鏡を取り出す。淡い金髪に、青い瞳。泣きそうになったせいで目元が赤くなっているけれど、その顔に覚えがありすぎて、こちらまで本当に泣きそうになった。


「……かわいい」


 通りかかった男子生徒が振り向いた。私は急いで鏡を伏せた。自分の顔を眺めて感想を漏らす令嬢だと思われたかもしれない。リディアの評判を守るためにも、今後こういうことは部屋でやろう。

 深呼吸して、もう一度招待状を見た。

 明日の午後、お時間をいただけますか。ありふれた文面なのに、三枚も書き損じたことを覚えている。親しげすぎないかと直し、よそよそしくなりすぎたと戻し、封をする前に何度も読み返した。

 こんなに準備したのに、渡せなかったんだね。

 小説を読んでいたときは、言えばいいのにと思っていた。でも、相手の返事を想像するだけで手が冷たくなることも、困った顔をさせるくらいなら黙っていたいと思ってしまうことも、今は分かる。

 アルベルト殿下を好きになった日の記憶まで、ちゃんとある。

 王宮の庭で迷子になって、泣いていないと言い張った日。殿下はそれを笑わずに、ただハンカチを貸してくれた。迎えの人が見つかるまでつないでいた手の温かさも、私に合わせてくれた歩く速さも、まだ覚えている。

 リディアは、そのハンカチを今も大切にしまっている。

 私は原作のそのくだりが好きだった。大げさな運命の出会いでも、世界を救う約束でもない。小さな優しさを、何年たっても忘れずにいるところが、好きだった。

 それなのに、あの恋は実らない。

 リディアが遠慮するたび、殿下はヒロインのセシルと過ごす時間を増やす。セシルは明るく、思ったことを言葉にできる子だ。二人の会話が弾むのも分かるし、彼女が悪いわけでもない。

 でも、卒業夜会で二人が結ばれたとき、リディアは誰より先に拍手してしまう。

 ドレスを褒められることも、一曲踊ることもなく、幸せそうな二人を祝福する。その後で一人になって、誰にも聞こえないように泣く。あの章だけは、何度読んでも平気になれなかった。

 感想を書いては消したことを思い出す。好きになってもらう義務なんてないし、告げていない思いに殿下が答えられないのも分かる。それでも、せめてこの子に、伝える機会くらいあげてほしかった。


 ーーだったら、今度は私が作ればいい。


 招待状の角を指で伸ばす。まだ捨てていない。殿下に断られたわけでもない。


「私が頑張るからね、リディア」


 卒業夜会までは、あと三か月。さっきの二人だって、まだ恋人ではない。原作を知っているなら、リディアが言葉を飲み込んだところで、今度は口を開けばいいのだ。

 もちろん、それだけで全部うまくいくとは限らない。でも、本を閉じて泣くしかなかったころより、できることはずっと多い。

 私は招待状を鞄に戻し、手帳を開いた。書きかけの課題の下に、殿下の好きなものを並べていく。甘すぎない菓子、晴れた日の遠乗り、それから最近よく話している領地経営の演習。

 好きなものは、こんなに知っている。

 なのに、こちらから話しかけるとしたら何を言うかと考えると、途端に筆が止まる。なるほど、まずはそこか。聞いてうなずくだけでは、リディアのよさが伝わらない。

 ひとつでいい。私から話せることを作ろう。

 招待状は、その話題と一緒に渡せばいい。好きな人の前で頭が真っ白になっても、準備したものがあれば、少しは助けになるはずだ。

 負けヒロインだからって、今回まで負けると決まったわけじゃない。

 推しの恋をかなえるためなら、勉強くらい、いくらでもしてみせる。


◇


 ……いくらでも、とは言ったけれど。

 翌日の放課後、私は図書室の机に額をつけたくなっていた。借りてきた農政の本は、まだ最初の頁を開いたままだ。三十分も読んでいるのに、そもそも何を分かっていないのかが分からない。

 税を減らすと領主が困る。でも減らさなければ農民が困る。収穫を増やせばいいのではと思ったら、そのための農具を買うお金がないらしい。


「……全員、お金がない」

「そこの表は、本文と単位が違うよ」


 顔を上げると、銀髪の青年が本を片手に立っていた。青い瞳に、襟元の青い石。見覚えのある組み合わせに、危うく椅子から立ち上がりかけた。

 エリアス・ヴァルデン。外交を学ぶために留学している、隣国の若き王弟だ。原作ではアルベルト殿下の政策を厳しく批判する人だったけれど、今の声はずっと穏やかだった。


「こちらは銀貨で、そちらは銅貨。まず、それをそろえてみて」

「えっ……あ、本当だ...」


 数字を書き直してみる。さっきまで途方もない赤字だったものが、どうにか暮らせるくらいの額に落ち着く。よかった。私の読み間違いで、一つの村を破綻させるところだった。


「ありがとうございます」

「どういたしまして。試験勉強?」

「いいえ。その...好きな方と、もっとお話をしたくて」


 言ってから、少し軽い理由に聞こえただろうかと心配になった。でも、ここで立派な目的を作っても仕方がない。アルベルト殿下が北部の不作について考えているので、自分も話を理解したいのだと説明した。

 エリアス様は私の顔を見て、それから本を見た。


「そのために、これを最初から?」

「ひと通り読めば、お話についていけるかなと」

「これは役人向けの資料だよ。知っていることを調べ直すための本で、初めて学ぶ人には向いていない」


 なるほど。私は楽器を習いたいのに、楽譜の保管庫へ入っていたようなものか。道理で、どこから読んでも知っている前提で話が進むはずだ。


「もっと薄い本からにします」

「厚さで選ぶ必要もない。少し待って」


 引き止める間もなく、彼は書棚の間へ入っていった。戻ってきたときには、地図の多い本と、農家の暮らしを例にした本を持っている。机の上に並べてもらうと、こちらは図を見るだけでも何となく意味が分かった。


「この村を君が預かるとしよう」

「私がですか」

「仮に、ね。収穫が減った。何から調べる?」


 私は本を見つめた。正解を探したくなるけれど、せっかく聞かれているのだから、自分で考えなくては。天候、土、種、と指を折って答えると、エリアス様はそのたびにうなずいた。


「農具もでしょうか」

「そうだね」

「では、新しい農具を配れば」

「その費用は?」


 私は黙った。

 さっきから、この問題ばかり出てくる。お金というものは、恋愛小説の脇でも容赦がない。考え込んでいたら、向かいから小さな笑い声がした。


「困らせたいわけじゃないよ。そこは、本職の役人も毎年頭を抱えている」

「はい……身に染みました」

「嫌になった?」

「いいえ。分かったふりをして殿下にお話ししなくて、よかったです」


 農具を配ればいいと思います、と得意げに言って、費用はと聞かれたら固まっていたところだ。しかも殿下は優しいから、きっと困った顔をしながら助け舟を出してくれる。そんな気の遣わせ方をしたら、リディアが後で落ち込んでしまう。


「それに、暮らしている方がいらっしゃる話ですし。会話のきっかけにしたいからって、適当なことは言えません」


 エリアス様の笑みが、少し変わった気がした。からかう感じが薄れて、ちゃんとこちらを見てくれる。私は背筋を伸ばし、ノートの空いているところに小さく村の絵を描いた。


「では、まず、何に困っているかを聞くところからですか」

「うん。その方が、たぶん近道だ」


 そう言われて思い浮かぶのは、お父様の手紙だ。実家の村の橋が、昨年の水害で壊れたままになっている。雨が多かったせいで、修理の準備も遅れているらしい。

 その話をすると、エリアス様が地図の本をこちらへ寄せた。


「市場は、川のどちら側?」

「村とは反対側です」

「ほかに渡れる場所は?」


 地図を指でたどりながら探すと、ずいぶん遠くに別の橋があった。荷車なら何時間かかるだろう。収穫を増やすことばかり考えていたけれど、売りに行くところまで大変なのか。


「……農具より先に、橋を直す方がよさそうです」

「どうして?」

「作物がたくさん取れても、売れなければお金になりません。それなら、今あるものを運べるようにした方が」

「うん」

「でも、橋を直すお金も、必要ですね」


 そこまで言うと、今度ははっきり笑われた。私もつられて笑ってしまう。ようやく分かった気がした途端、また同じところへ戻ってくる。


「村だけで直すと決めずに、道を使う商人にも話を聞けるといい」

「ああ、なるほど……」


 書き留めながら、自分が最初に描いた農具の絵を見た。あんなに簡単に解決するつもりでいたのが恥ずかしい。そっと線を引いて消そうとすると、エリアス様に止められた。


「残しておいたら?」

「でも、的外れでしたから」

「消したら、どうして橋にしたのか、後で自分でも分からなくなるよ」


 私はペンを止めた。

 間違えたことを指摘されると思っていた。なのに、考え直した方を見てくれるんだ。リディアが一生懸命書いたものを、そういうふうに扱ってもらえるのは、何だかとてもうれしい。


「ありがとうございます」

「そんなに礼を言われることじゃない」

「いいえ。うれしかったので」


 そう答えると、彼は一度、視線をノートへ落とした。それから、まだ時間はあるかと尋ねてくる。時計の針は、寮の夕食よりずっと手前を指していた。


「では、橋を直した後のことも考えてみようか」

「よろしいんですか?」

「途中で終わると、私も気になる」


 心強い協力者を見つけてしまった。

 原作の厳しい批評も、嫌がらせではなかったのかもしれない。できていないところに気づいて、どう直すかまで考えてくれる人なのだ。私は新しい頁を開き、今度は橋の先に市場の絵を描いた。


 それからしばらく、地図を見たり、ノートをのぞき合ったりした。私が分からないと顔を上げる前に、エリアス様が説明してくださるようになる。あまりに的確なので不思議に思って尋ねると、眉の動きで分かると言われた。


「私、そんなに分かりやすいですか」

「今も、分からない顔をしている」

「これは、本の内容ではなくてですね」

「うん。私が何を言っているのか、分からないんだろう?」


 そのとおりなので返す言葉がない。こんなに顔に出るなら、殿下の前でも全部伝わってしまうのではないだろうか。リディアの恋心が丸見えだったらどうしようと考えて、いや、そこはむしろ見えてほしいんだったと思い直した。

 ただ、困っている顔ばかりではよくない。楽しいときは、ちゃんと楽しい顔をしよう。そう決めた途端、お腹が鳴った。

 今のは聞こえなかったことにしてほしい。

 黙ってノートへ目を落としたけれど、エリアス様も黙ってしまった。静かな図書室では、ごまかす余地がない。少しして、向かいから笑いをこらえる気配がした。


「休憩しようか」

「……はい」


 図書室の奥には、読書の合間に休める小さな談話室がある。そこへ移ると、窓から差す光が思っていたより傾いていた。こんなに時間がたっていたなんて、付き合わせすぎてしまったかもしれない。


「本当に、申し訳ありません。ご自分のお勉強があったのに」

「私が声をかけたんだから、気にしなくていい」

「でも、お礼はさせてください」


 鞄から小さな包みを取り出す。朝、侍女が持たせてくれた焼き菓子だ。出してから、王弟殿下にこんな包みのまま差し上げてよかったかと気づいたけれど、彼はもう一つ手に取っていた。


「ありがとう。好きな菓子だ」

「本当ですか」


 よかった。こんなことなら、もっとたくさん持ってくればよかった。安心して自分の分をかじる。空腹だったせいか、いつもよりずっとおいしい。


「アルベルト殿下には、話しかけるのが難しい?」  

 菓子の欠片を飲み込んでから、うなずいた。 


「何をお話しすればいいか、分からなくなるんです」

「今は、よく話しているのに」

「今は、教えていただくことが決まっていますから」

「では、彼にも教えてほしいと頼めばいい」


 もっともな意見だった。けれど、リディアの記憶をたどると、それを言うまでにもたくさん迷っている。忙しいのではないか、自分で調べれば分かることではないか、ほかの方の時間を取るのではないか。


「殿下は、お忙しいですから」

「私には、聞けたね」

「あっ」


 失礼だった。別に、エリアス様が暇そうに見えたわけではない。慌てて説明しようとしたら、笑いながら手を振られた。


「責めているんじゃないよ。聞かれるのは、私は嫌じゃない。それだけだ。」

「……ありがとうございます」

「彼も、同じかもしれない」


 私は包みの端を指で折った。確かに、殿下から迷惑だと言われたことはない。いつもこちらが先に考えて、聞く前に遠慮していた。


「リディア……私は、考えすぎてしまうんです」

「うん」

「でも、とてもいい子なんです」


 エリアス様の手が止まった。

 しまった。励ましていただいた流れで、つい推しの説明に入ってしまった。でも、言い始めてしまったものは、もう引っ込みがつかない。


「人の話をちゃんと聞きますし、頼まれたことも忘れません。何でもすぐにできるわけではありませんけれど、できるまで練習しますし」

「……君の話だよね?」

「はい。そうです」

「続けて」


 続けていいのだろうか。少し迷ったけれど、こんな機会はめったにない。私はリディアのいいところを、できるだけ落ち着いて並べた。

 教室の花がしおれていたら水を替えること。人前では言い返せなくても、間違っていると思ったことをそのままにできないこと。料理は得意ではないけれど、相手の好きな菓子を覚えて、贈り物にはそれを選ぶこと。

 話しているうちに、エリアス様が口元を押さえた。笑われている。やはり、自分で言う内容ではなかったかもしれない。


「……申し訳ありません」

「いや。そこまで自分のよいところを知っているのに、話しかけるとなると怖いんだね」

「それは、別なんです」

「そうか」


 からかう調子ではない。私が言いにくいところまで、何となく受け取ってくださったような声だった。ほっとしていると、彼は焼き菓子を持った手を少し上げた。


「今の話なら、ひとつは私も確認できた」

「どれでしょう」

「相手の好みを覚えるところ。さっきから、私が取った菓子を見ている」


 そんなに見ていただろうか。確かに次のお礼のために、どれがお好きかは覚えようとしていた。うなずくと、エリアス様はやわらかく笑った。 


「そういうところは、説明されなくても伝わるよ」


 思わず、包みを持つ手に力が入った。

 そうでしょう。リディアは、話してみればいい子なんです。ちゃんと見てくださる人なら、分かってくださるんです。


「ありがとうございます。きっと、リディアも喜びます」

「……リディア?」

「私です」

「それは、知っているけれど」


 また言ってしまった。

 私は慌てて菓子の包みをたたんだ。推しを褒められると、頭の中と口がつながりやすくなるらしい。自分の顔を褒めるのと合わせて、気をつけることが増えた。

 そろそろ戻ろうと立ち上がると、エリアス様が机の上の本を持ってくれる。図書室の席に戻る短い間に、今日教わったことを頭の中で並べてみる。全部を一度に殿下へ話す必要はない。ひとつ、聞いてみればいい。


「次も、ここで続きをしよう」


 別れ際にそう言われて、私は顔を上げた。


「よろしいんですか? お勉強の邪魔になりません?」

「君と話すのは、楽しいよ」


 私は今度こそ、口を押さえた。

 言ってはいけない。分かります、と答えたら絶対におかしい。それでもうれしくて、結局、何度も頭を下げてしまった。


「では、また質問をまとめて参ります」

「質問がなくても、来ていい」

「それでは、ご迷惑では」

「ないよ」


 返事が早かったので、私はうなずいた。こんなに親切な方が原作にもいたのに、リディアが相談する場面はなかった。思い切って図書室へ来て、本当によかったと思う。


 それから、放課後に図書室へ寄るのが習慣になった。分かったことを書いていくと、次に分からないことが見つかる。ノートには農具も橋も消さずに残して、考えが変わるたび、横へ書き足した。

 エリアス様は同じ席にいることが多かった。私が近づくと本を閉じて、今日は何を持ってきたのかと尋ねてくださる。質問のない日にも立ち寄ってみたら、実家の犬の話で、いつの間にか夕食の時間になっていた。

 殿下にも、少しずつ話しかけるようにした。最初は演習の資料を尋ねるだけ。それでも、次に会ったときに役立ったかと聞かれて、リディアが会話を覚えてもらえていることがうれしかった。

 そんなある日、殿下が友人たちと遠乗りへ行くという話が耳に入った。希望すれば参加できるらしい。私はその場でお願いした。大勢で出かけるなら、気負わず話す機会もあるかもしれない。

 いい返事がもらえて、図書室で報告しようと歩きだしたところで、大事なことを思い出した。

 そういえば...私、馬に乗れない。

 手帳を開き、遠乗りの日の朝に、大きく「練習」と書き込んだ。今回は、厩舎から見送るだけで終わらせたくない。リディアにもこの景色を見せに行くのだ。


◇


「一番おとなしい馬をお願いします」


 遠乗り当日の朝、私は厩舎で深々と頭を下げた。

 今日の行き先は、学院から歩いても行ける郊外の庭園だ。初心者は厩務員に付き添ってもらい、平らな道をゆっくり進むと聞いている。事前に相談しておいたとはいえ、当日の朝に練習するのは少し無謀だったかもしれない。

 でも、無理なら無理と正直に言おう。そのうえで、できるところまではやってみたい。

 連れてきてもらった栗毛の雌馬は、マロンという名前だった。私が近づいても騒がず、大きな目でこちらを見てくる。鼻先へゆっくり手を伸ばし、よろしくお願いしますと挨拶した。


「馬に敬語を使う人、初めて見た」


 振り向くと、柵の向こうに金髪の青年がいた。アルベルト殿下によく似ているけれど、笑うと少し幼く見える。第二王子のフェリクス殿下だった。


「フェリクス殿下。おはようございます」

「兄上の遠乗りに来るんだって?」

「はい。その前に、少し練習を」

「少し?」


 鞍の方を見たまま動けずにいる私を、殿下が見た。次に踏み台を見て、それからまた私を見る。これは正直に申し上げた方がいい。


「最初から、教えていただくところです」

「なるほど」


 笑われるかと思ったのに、フェリクス殿下は厩務員へ何かを確かめた。それから柵を軽々と越えてきて、私の前に立つ。回り道をしなくていい方は、あんなふうに移動できるのか。


「俺も教えるよ。兄上よりは上手い」

「ありがとうございます」


 お兄様と比べた部分は、聞かなかったことにした。まずは、マロンの隣に立って背をなでる。殿下が手綱の持ち方を示してくれたので、私は指の位置を一つずつ確かめた。

 鞍に座るところまでは、どうにかなった。

 問題は、その後だ。

 高い。足が地面から離れている。マロンが体重を移しただけなのに、私まで傾いた気がして、慌てて手綱を握りしめる。


「肩の力、抜いて」

「抜いたら、落ちませんか」

「抜いた方が、揺れについていける」


 言われていることは分かる。でも、体が納得してくれない。恐る恐る指を緩めたところで、マロンが首を横へ向け、私は情けない声を上げた。


「大丈夫。まだ一歩も進んでない」

「はい……」

「一度、下りる?」


 迷ったけれど、うなずいた。支えてもらって地面に戻ると、膝から力が抜ける。地面とはこんなに安心できるものだったのかと、しばらく土を踏みしめてしまった。

 フェリクス殿下は笑わなかった。厩務員から水を受け取り、私に渡してくれる。ひと口飲んで、ようやく息が落ち着いた。


「怖いなら、馬車でも一緒に行けるよ。荷物を運ぶから」


 優しい申し出だった。普段なら、そこで遠慮して、見送るだけで十分ですと言っていたかもしれけれど。今は馬車でもついて行きたいけれど、その前に、もう少しだけ試したかった。


「もう一度、お願いしてもいいですか」

「無理してない?」

「怖いです。でも、まだ、上に座っただけですから」


 マロンの首をなでる。私が急にしがみついても、この子はじっとしていてくれた。今のは痛くなかっただろうかと顔をのぞくと、ゆっくりまばたきが返ってくる。


「ごめんなさい。次は、そんなに引っ張らないようにします」

「……俺より、馬の方を心配するんだ」

「殿下にも、ご迷惑を」

「そういう意味じゃなくて」


 フェリクス殿下が笑った。さっき柵の向こうで見た笑い方より、少しやわらかい。どうしたのだろうと思っていると、もう一度手を差し出された。


「次は俺が引くから。歩いてみて、無理そうならやめよう」

「はい」


 二度目は、顔を上げることだけを考えた。地面を見れば見るほど高く感じると教わったので、柵の向こうの木を見つめる。殿下が横で話しかけてくれるから、何とか返事をしながら進めた。


「マロンは、道草が好きなんだ」

「食べる方の道草ですか」

「そう。だから、草の多いところを通ると、君より先に休憩しようとする」

「それは……相談してからにしていただけると」

「頼んでみれば?」


 私は前を向いたまま、休憩はなるべく一緒にお願いしますと頼んだ。隣で吹き出す音がする。そんなに面白いことを言っただろうか。でも、おかげで手綱を握る指が少しだけゆるんだ。

 気づけば、馬場を半周していた。

 進んだ距離を確かめたくて振り向きかけると、前を見てと声が飛んだ。慌てて戻しながら、それでも頬がゆるむ。

 リディア、できたよ。

 見送るだけじゃなくて、今日は一緒に行けるかもしれない。

 もう半周して下ろしてもらうころには、少し汗をかいていた。脚は疲れたけれど、さっきのように震えてはいない。私は殿下と厩務員に頭を下げ、マロンにもお礼を言った。


「ありがとうございます。急に止まらずに、歩いてくれて」

「馬にばかり丁寧だな」

「殿下にも、本当に感謝しております」

「それなら、休憩に付き合ってくれ。まだ出発まで時間がある」


 断る理由はない。歩けると分かった途端、喉も渇いてきた。

 うなずいたところで、殿下の袖に泥がついているのに気づき、謝るとそれより擦りむいていないかと逆に手首を確かめられた。

 こんなところまで気を配ってくれる人だったのか。原作では、よくお兄様をからかっている印象ばかり残っていた。実際に話してみると、本に書かれていないことがたくさんある。


「彼女、無事に乗れた?」


 厩舎の方から声がして、顔を上げた。エリアス様が馬装を整えた黒い馬を連れている。遠乗りに参加すると図書室で話していたけれど、本を持っていない姿は少し新鮮だった。


「はい! 半周して、それから、もう半周できました」

「一周できたんだね」

「俺が教えたから」

「それは、ありがとう」

「君に礼を言われること?」


 お二人とも笑っているのに、会話に入りにくい。

 私は交互に顔を見た。リディアが馬に乗れた話なのだから、ここは私からお礼を言うべきだろう。そう考えて口を開くと、先にエリアス様が小さな包みを差し出した。


「朝から練習すると言っていたから。何か食べた?」

「朝食はいただきました」

「それなら、後で」


 中身は焼き菓子だった。図書室で私が持っていったものと似ている。思わず顔を上げると、エリアス様は私の手元へ視線を向けた。


「それ、気に入っていたんだろう」

「覚えていてくださったんですか」

「私も、相手の好みは覚えるよ」


 なんて律儀な方なのだろう。お礼に差し上げた菓子が、もっときれいな包みになって返ってくるなんて。リディアの贈り物を気に入っていただけたのもうれしくて、私は包みを大切に鞄へしまった。


「では、皆さんで食べませんか。お茶を頼んで参ります」

「リディアは座ってて。脚が疲れてるだろ」

「そうだね。無理をすると、出発前に疲れ切ってしまう」


 フェリクス殿下とエリアス様の意見が、そこで初めてそろった。私はありがたく長椅子に座り、二人を待った。推しの初めての遠乗りに、こんなに応援してくれる人がいるなんて心強い。


 出発の時間になり、一行が門の前へ集まった。私は厩務員に付き添ってもらいながら、最後尾へ並ぶ。まだ速く走るのは無理だけれど、歩く揺れには少し慣れた。馬車へ移らずに済みそうで、胸をなで下ろした。

 アルベルト殿下がこちらを振り返る。


「リディア、乗れるようになったんだね」

「今朝、教えていただきました」

「そうか。無理はしないで。途中でも馬車へ移れるから」

「はい。ありがとうございます」


 殿下に名前を呼ばれたせいか、マロンが歩き始めたせいか、胸が弾んだ。学院の門を外へ出る。いつも見送っていた背中が、今日は同じ道の先にある。

 馬の上から見る並木は、歩いているときよりずっと近かった。風で葉が揺れるたび、光がぱらぱらと落ちてくる。緊張して前ばかり見ていたけれど、少しずつ周りを見る余裕も出てきた。


「俺と二人なら、君の速さでずっと行けるのに」


 いつの間にか隣へ来ていたフェリクス殿下が言った。私は一行から離れすぎていないかと心配になり、前との距離を確かめた。エリアス様が反対側から、今日はみんな急いでいないと言ってくださる。


「すみません。お待たせしてしまって」

「待たされてるとは言ってないよ」

「はい。あの、でも、本当に楽しいです」


 そう答えると、フェリクス殿下は少し黙り、それならよかったと笑った。エリアス様にも、景色を見る余裕ができたねと言われる。たぶん、最初は相当怖い顔をしていたのだろう。

 道の途中には、新しく直された橋があった。

 荷車が一台通るのを待つ間、私は欄干の向こうを見た。川は穏やかで、対岸には畑が広がっている。お父様の村の橋も直ったら、こんなふうに人が行き来できるのかな。


「これを渡れば、市場へ近いんですね」

「そう。迂回すると、かなり遠い」


 エリアス様の答えを聞き、地図の上で指を動かしていたときのことを思い出した。紙の上では少し遠回りするだけに見えたけれど、馬に乗っていても道は長い。荷車を引いて、作物が傷まないか心配しながらなら、なおさらだ。

 同じ場所を見ながら話せるのは、いいなと思った。図書室で教わったことが、急に身近になる。後で殿下にも聞いてみようと、私は頭の中で言葉を用意した。


 庭園に着くと、馬を下りただけで脚が少し頼りなくなった。フェリクス殿下がすぐに腕を貸してくれたので、転ばずに済む。厩務員から今日はよく乗れたと言われて、私はまたマロンをなでた。


「帰りも、よろしくお願いします」

「今から頼んでおくんだ」

「大事なことですから」


 笑われたけれど、大事だ。マロンが機嫌を損ねたら、私の推し活は進まない。水を飲むのを見届けてから、人の休憩場所へ向かった。

 木陰には椅子とテーブルが用意されていて、皆が飲み物を受け取っていた。私は昨夜、日付を書き直した招待状を鞄の中で確かめる。今日は会話ができたら、その後で渡そうと思っている。


「疲れた?」


 声に振り向くと、アルベルト殿下がいた。今なら話せる。そう思った途端、練習していた言葉が頭から逃げそうになった。


「少し。でも、来てよかったです」

「何が一番楽しかった?」

「途中に、橋がありましたよね」


 殿下がうなずいたので、続けてみる。実家の村の話。農具を配ることばかり考えていたけれど、市場へ行く道も大切だと知ったこと。さっき荷車を見て、地図だけでは分からなかった距離を実感したこと。

 長く話しすぎただろうか。

 不安になったところで、殿下がカップを置いた。それから近くにあった椅子を引き、私にも座るよう勧めてくれた。


「その村のこと、もう少し聞いてもいい?」


 いいんですか。

 聞いてくださるなら、お話しできます。私はうなずき、持ってきたノートを取り出した。緊張で少し頁をめくり損ねたけれど、殿下は急かさず待ってくださった。


「ずいぶん書いたんだね」

「最初は、間違いばかりで」

「この農具の絵は?」

「あっ、それは、最初に考えた案です」


 消さずに残してよかったのか、少し迷った。でも、どうして考えを変えたのか説明してみると、殿下は地図と見比べながら聞いてくれた。笑われることも、退屈そうにされることもない。


「僕も、収穫を増やすことから考えていたよ」

「殿下も?」

「うん。土地を増やせばいいと思った。でも、そうすると人手が足りなくなる」

「また、別のことを考えなくてはいけないんですね」

「そうなんだ」


 二人で少し笑った。

 どうしよう、普通に話せている。リディアが、殿下と同じ地図を見て、一緒に笑っている。前世の私に写真を送れたなら、きっと夜中でも飛び起きる。

 殿下はノートの余白を指し、ここに道を書いてもいいかと尋ねた。私がうなずくと、ペンを借りて細い線を引いていく。リディアの書いた村に、殿下の道がつながった。


「この先の町まで使えるなら、商人にも利点があるかもしれないね」

「エリアス様も、商人に話を聞けるといいとおっしゃっていました」


 殿下のペンが、一瞬止まった。


「彼に教わっていたの?」

「はい。とても分かりやすく教えてくださるんです」

「……そうか」


 何か言いかけたように見えたけれど、殿下はもう一度地図へ目を落とした。勉強の仕方を驚かれたのかもしれない。私は、自分だけでは最初の頁も読めなかったのだと付け加えた。


「今度は、僕にも聞いてくれていいよ」

「よろしいんですか?」

「もちろん。君が何を考えたのか、僕も聞きたい」


 うれしくて、返事をする前にうなずいてしまった。招待状を渡すなら、今だ。私は鞄へ手を伸ばし、丁寧に封筒を取り出した。


「でしたら、あの……お茶をご一緒しませんか」


 言えた。

 殿下は封筒を受け取って、宛名に目を落とす。それから私の顔を見て、柔らかく笑ってくださった。


「中庭で渡そうとしていたのも、これ?」

「はい。日付は、書き直したのですけれど」

「そうだったんだ。あのとき、聞けばよかったね」

「いいえ。私が、お渡しできなくて」

「今日は渡してくれた」


 鼻の奥がつんとした。

 そうなんです。頑張ったんです、リディアは。何度も書き直した手紙を、ようやく受け取っていただけたんです。


「喜んで。明後日の午後なら、空いているよ」

「ありがとうございます」


 声が震えなかったのは、たぶん奇跡だ。ノートに日程を書き込み、間違いがないか二度確かめる。殿下は笑っていたけれど、こちらは真剣だ。こんな大事な約束を、取り違えるわけにはいかない。

 お茶の準備をすると言われて、殿下が席を立つ。私は一人になった途端、膝の上で両手を握った。叫びたい。でも、ここで叫んだらリディアの評判に響く。


「……よかった」


 小さく漏らすだけにしたつもりだったのに、横から返事があった。


「うん。よかったね」


 エリアス様だった。いつから見ていたのだろう。慌てる私に、楽しそうに話しているところは見えたと彼は言う。席を立ちかけると、座っていていいと止められた。


「お茶のお約束ができました」

「聞こえたよ」

「全部、教えていただいたおかげです」

「話しかけたのは、君だろう」


 隣の椅子に腰を下ろし、彼は私のノートをのぞき込む。殿下の書き足した道をしばらく眺めてから、ずいぶん地図が広くなったね、と一言。私は聞かれてもいないのに、何を話したか順番に説明した。

 エリアス様は相づちだけ打って、一度も口を挟まなかった。話し終えてから、いつもより少し長い沈黙があった。


「何か、間違えましたか」

「いいや」

「でも」

「君がうれしそうだから、いいんだ」


 その言い方が少し気になったけれど、彼は笑って、帰りも気をつけて乗るようにと言った。そこへフェリクス殿下が菓子の皿を持ってきて、私の帰りの練習は自分が見ると言い出す。

 私は二人に頭を下げた。こんなに助けてもらってばかりでは、お礼が追いつかない。明後日のお茶会がうまくいったら、今度こそお二人にも喜んでもらえるよう、きちんと報告しようと思った。


◇


 お茶会では、話題が足りなくなる心配はしなくて済んだ。ノートの続きを聞かれ、村から届いた返事を話し、気づけば殿下の子供のころの話までしていた。帰るときに、また誘ってほしいと言われたのだから、きっと成功だと思う。

 その後も、殿下から声をかけられることが増えた。私は図書室で教わったことを話し、遠乗りの練習にも時々参加した。できなかったことが少しずつできるようになって、日記の丸も増えていく。

 そして、気づけば卒業夜会が近づいていた。

 今日は、どうしても先に解決しておきたい問題がある。


「足を見ている」

「申し訳ありません」

「今度は、鏡」

「……申し訳ありません」


 練習室で、エリアス様に二度続けて注意された。私は慌てて顔を上げる。けれど、正面には彼の顔が思っていたより近くにあって、それはそれで落ち着かなかった。

 夜会で踊るなら練習をしておきたいと相談したら、相手を引き受けてくださったのだ。振り付けは知っている。でも、好きな人の足を踏んだらと思うと下ばかり見てしまうので、そこを何とかしたかった。

 ところが、練習には予想外の問題があった。

 鏡の中に、リディアがいる。

 銀髪の青年に手を取られ、少し頬を赤くして立っている。普段の制服なのに、髪が揺れるだけでかわいい。こんな場面を原作で読めていたら、私はそこだけ何度も読み返したと思う。


「どうして、そんなに鏡が気になるの?」


 正直に答えていいものだろうか。あなたと並んでいる推しがかわいすぎて、目を離せません。そう言えたら楽だけれど、説明の手順を考えるだけで日が暮れそうだ。


「……楽しそうだな、と」

「誰が?」

「私が」


 エリアス様が一度黙った。自分のことなのに他人事みたいだと思われたかもしれない。取り繕う言葉を探していると、彼は鏡の方をちらりと見てから、私へ視線を戻した。


「それなら、こちらを見ていても楽しんでもらえるようにしよう」


 そういう問題ではないのだけれど、親切なお申し出だ。

 私はうなずき、今度こそ彼の顔を見た。青い瞳が合う。リディアがこんな距離で見つめられている、と思った瞬間、足の順番が飛んだ。


「すみません!」

「大丈夫」

「今、結構しっかり踏みました」

「知っているよ」


 うっすら残った靴の跡を見て、私は縮こまった。何度も同じところで間違えている。ここまでくると、下を向く心配以前に、練習相手の足を守らなくてはならない。


「今日は、もう」

「疲れた?」

「いいえ。私ばかり間違えて、その」

「足を踏まれるのが嫌なら、最初から引き受けていない」


 手を握り直された。叱られているのではないと分かって、少し肩の力が抜ける。エリアス様は私の足元を一度見て、次は数を取らずに歩いてみようと言った。


「歩くだけですか」

「うん。私が進んだら、ついてきて」


 それなら、できる。

 音楽を止めて、床の上をゆっくり進む。右、左、と考えなくても、相手に合わせて足を動かすだけなら難しくなかった。しばらくしてから同じ動きに振り付けを混ぜられて、ようやく、急いで足を出しすぎていたのだと分かった。


「先に正解の場所へ行こうとしなくていい」

「はい」

「一緒に動けば、間に合うから」


 私は小さく息を吐いた。そういえば、エリアス様がどちらへ動こうとしているのか、さっきまで一度も見ていなかった。

 中庭で招待状を握りしめていたとき、殿下がどんなお顔をしていたのかも、私は思い出せない。

 音楽を流し直す。今度は足の順番より、握られた手の動きに集中した。少し遅れた気がしても待ってもらえると分かると、慌てずに踏み出せた。


「そう。そのまま」


 顔を上げたまま、最後まで踊れた。

 曲が止まっても、しばらくそれに気づかなかった。エリアス様が足を止めて、よくできたと言ってくださる。私は窓を見て、鏡を見て、それから、足元を一度も見なかったことに気づいた。


「できました……!」

「うん」

「今、一回も」

「見ていなかったね」


 思わず、握った手に力を込めてしまった。これならリディアを、不安な顔のまま踊らせずに済む。ちゃんと相手の顔を見て、夜会を楽しんでもらえる。


「ありがとうございます。もう一度、お願いしてもいいですか」

「もちろん」


 エリアス様は笑ってくれた。二度目は、途中で少し話す余裕までできた。自分でも驚いていると、本番もそうやって笑っていればいいと言われる。

 気づけば窓の外は薄紫色だ。練習を始めたときはまだ明るかったのに、また長く付き合わせてしまった。そろそろ休憩をと思ったところで、エリアス様が私の手を見た。


「本番も、私と踊ってほしい」

「本当ですか?」

「もちろん」


 ありがたくて、すぐに返事ができなかった。

 殿下に話しかけられるようにはなった。でも、夜会に誘っていただけるかは分からない。うまくいかなかったとしても、リディアを一人で壁際に立たせずに済むのだ。


「ありがとうございます。これで、安心して夜会に行けます」

「……安心、か」

「はい。どなたにも誘われなかったら、どうしようかと思っていたので」


 エリアス様が大きく息を吐いた。そんなに練習の成果を疑わなくてもいいと言いたいのかもしれない。実際、ここまで面倒を見ていただいて、まだ自信がないというのも失礼な話だ。


「リディア。私は、誰でもいいから誘っているわけではないよ」

「はい!」


 分かっています。リディアが頑張るところを見て、応援してくださっているんですよね。最初から最後まで力を貸してもらえて、推しを見守る側としても、本当にありがたい。


「ご恩は、忘れません」



 天井を見上げられた。お礼が重かったのだろうか。私はもう少し軽い言い方を探したけれど、彼はその前に、小さく笑って手を離した。


「……今日は、ここまでにしよう」


 道具を片づけ、借りていた部屋を出ると、廊下にアルベルト殿下がいた。思いがけなく会って、私は練習用の靴を落としかける。殿下はそれを支えてくださり、邪魔をしたかなと練習室を見た。


「いいえ。今、終わったところです」

「図書室にいなかったから。こちらだと聞いて」


 私を探してくださったのだろうか。

 何のご用でしょうと尋ねる声が、自分でも分かるくらい高くなった。エリアス様が鍵を返してくると言い、廊下の先へ向かう。殿下はその背中を見てから、私へ向き直った。


「ずいぶん練習した?」

「はい。足元を見ずに踊れるようになりました」

「それは、よかった」


 そこで会話が止まった。何か言いかけているように見えたので、私は待った。以前なら、邪魔をしてはいけないと先に頭を下げていたかもしれない。

 少しして、殿下がこちらを見た。


「このごろ、君と話すのが楽しみなんだ」


 靴を持ち直した。落としてはいけない。大事なところで、リディアに慌ただしい動きをさせてはいけない。


「昔は、僕が話すばかりだっただろう。君が何を面白いと思っているのか、よく知らなかった」

「私も、あまりお話しできなくて」

「うん。でも、今は分かる。同じものを見ても、君とだと、新しい話ができる」


 リディアとだと、新しい話ができる。殿下が、そう言った。

 その言葉だけで十分うれしかった。招待状を隠していたころの彼女に、今すぐ教えてあげたい。けれど、殿下の言葉はまだ終わらなかった。


「卒業夜会の最初の一曲を、僕と踊ってくれないかな」


 やった。

 やったよ、リディア。

 最初の一曲だよ。原作では遠くから見つめるしかなかった殿下が、あなたの返事を待っているんだよ。

 ここで泣くのは、まだ早い。大声を上げるのも、もちろん駄目だ。私は一度だけ息を吸い、彼女に似合う笑顔を作ろうとした。


「はい。喜んで」


 殿下の顔が、ほっとゆるんだ。その表情を見ていたら目の奥が熱くなって、私は何度か瞬きをした。こちらが返事をするまで、向こうも緊張してくださっていたらしい。


「ありがとう。当日、迎えに行くよ」

「はい」


 約束を確かめて別れるまで、きちんと立っていられた自分を褒めたい。殿下の姿が角の向こうへ消えたところで、私は廊下の壁に手をついた。深呼吸しても、うれしさが全然収まらない。


「……大丈夫?」


 戻ってきたエリアス様に聞かれ、私は勢いよく振り向いた。


「お誘いいただきました!」

「うん。少し、聞こえた」

「最初の一曲です。卒業夜会の」

「そうだね」


 もう聞いていると言われたのに、順番に報告してしまう。何と言われて、どう返事をしたか。話すほどにうれしくなって、途中、同じことを二度言った気もした。

 同じ話を二度されても、エリアス様は止めなかった。よかったねと笑ったその手の中で、手袋がくしゃりと形を変えた。そこで、ようやく大事なことを思い出す。


「あの、ダンスのお約束なのですが」

「二曲目は、空いている?」

「はい。まだ、どなたとも」

「なら、私に」


 ほとんど間を置かない返事。私がうなずくと、彼は少し身をかがめて、目の高さを合わせてくる。勉強の間違いを直してもらうときより、真剣な顔だった。


「練習だけで、終わらせるつもりはないから」


 もちろんだ。ここまで付き合っていただいたのだから、本番の成果も見てもらわなくては。足を踏まなくなったリディアを、きっと喜んでくださるはずだ。


「ご期待に添えるように、頑張ります!」


 少し困ったような笑み。でも彼はすぐに背筋を伸ばし、私と並んで歩きだしてくれた。玄関へ向かう廊下で、小さな声が聞こえる。


「そうだね。私も、頑張るよ」


 約束をしてからの数日は、あっという間だった。髪飾りを決め、ドレスを確かめ、空いた時間には足の運びを練習する。何度も鏡を見る私に侍女が笑ったけれど、どうしても、一番かわいいリディアを殿下に見ていただきたかった。

 そして夜会の当日、私は鏡の前で動けなくなった。

 かわいい。

 淡い青のドレスが、瞳にぴったり合っている。結い上げた髪に白い小花が飾られていて、首を少し動かすだけで、耳元の飾りが揺れた。どこを見てもかわいい。もう、会場へ行かずにここでずっと眺めていたいくらいだ。


「お嬢様、とてもお似合いです」

「ええ……本当に」


 侍女が笑った。自分で言うのかと思われたかもしれないけれど、仕方がない。三か月頑張った推しが、こんなにきれいになって晴れ舞台へ行くのだ。

 私は手袋をはめ、もう一度だけ鏡を見た。

 大丈夫。招待状は渡せたし、馬にも乗れた。ダンスだって、ちゃんと練習した。

 今日は、あなたが真ん中で笑う番だよ、リディア。


 会場では、アルベルト殿下が迎えてくれた。私を見たまま一瞬黙ったので、裾がどこかに引っかかっていないかと確かめかける。その前に、よく似合っていると、少し低い声で言われた。

 リディア、聞いた?

 今、見とれていたと思う。たぶん、かなり。

 頬がゆるみそうになったところで、少し離れた輪の中にセシルを見つけた。友人たちと話していた彼女は、こちらに気づくと手を振ってくれる。私も振り返し、ようやく肩の力が抜けた。

 誰かを悲しませたかったわけではない。ただ、この子にも一度くらい、真ん中で笑ってほしかった。そのためにここまで来たのだから、今日は堂々と楽しもう。


「リディア。お願いできる?」

「はい」


 音楽が始まり、差し出された手に自分の手を重ねた。最初の一歩は少し震える。下を見そうになったけれど、練習を思い出して顔を上げた。大丈夫、足はちゃんと動いてくれる。


「……よかった」

「何が?」

「いえ。その、ちゃんと踊れて」


 殿下が笑い、手を少し引き寄せた。近くで目が合うと、やっぱり胸がどきどきする。それでも今日は、途中で視線をそらさずにいられた。


「僕も、緊張していたよ」

「殿下が?」

「君は、このごろ忙しそうだから。誘う前に、ほかの誰かと約束してしまったらどうしようと思っていた」


 殿下が、そんな心配を。

 中庭で招待状を隠したリディアも、同じように怖かった。今なら、殿下も断られるのが不安だったんだって、と教えてあげられる。あの日、廊下で手を振った殿下も、本当は何か言いかけていたのかもしれない。


「誘ってくださって、うれしかったです」

「それなら、よかった」


 少しずつ回る景色の中に、ほかの人のドレスや、壁に飾られた花が見えた。原作のリディアが眺めるしかなかった場所を、今は私が踊っている。指先に残る殿下の体温まで、できることなら全部覚えておきたかった。

 曲の終わりが近づいたとき、そっと名前を呼ばれた。


「卒業しても、こうして会いたい。幼なじみだから、だけではなくて」


 今夜一人で泣くはずだった女の子が、こんな言葉をもらえている。あの章を読んで眠れなかった前世の私に、教えてあげたい。

 届いたよ。ちゃんと、届いたよ。


「私も、もっとお話ししたいです」


 まずは、それだけ答えた。この先のことは、ゆっくり考えていけばいい。今はリディアの話をもっと聞きたいと、向こうから望んでもらえたことを喜びたかった。

 拍手が聞こえ、ようやく曲が終わったのだと気づいた。殿下に手を引かれて輪を出ると、エリアス様がこちらへ歩いてくる。顔を見た途端、私は報告したくてたまらなくなった。


「楽しそうだったね」

「はい。足も踏みませんでした」

「そこは、見ていたよ」

「次は君と踊る約束なのかな」


 アルベルト殿下の手は、まだ私の手を取っていた。声の方を向くと、彼はエリアス様を見ている。私からも説明しようとしたけれど、その前に返事があった。


「ええ。以前から、お願いしていました」

「……リディアとは、よく会っているんだね」

「教わることが多くて」


 思わず答えると、エリアス様が首を振った。何か違っただろうか。勉強もダンスも、大変お世話になったと思うのだけれど。


「私も、彼女と話したくて会っているんです」


 握られた手が、ほんの少し動いた。どちらも穏やかな声なのに、二人の間だけ、空気が少しひんやりしている。でも、少なくともリディアと話すのが楽しいという点では、意見が一致しているらしい。

 よかった。隣国の方にも分かっていただけるのだから、推しの魅力に国境はない。


「兄上だけ、ずいぶん長く話してない? リディア、三曲目は空いてる?」

「はい、空いています」


 振り向けば、フェリクス殿下まで来ている。いつもの乗馬服ではなく、きちんとした夜会の装いだ。よくお似合いですねと言おうとしたら、その前に手が差し出された。


「じゃあ、俺と。遠乗りの次は、踊っているところも見てほしいし」

「フェリクス」

「何? 兄上が一曲目、エリアス殿下が二曲目。ちゃんと順番を守ってるだろ」


 三曲目。

 一曲も踊れずに終わるはずだったリディアに、三曲目のお誘いまで来た。原作を読み返した回数なら誰にも負けないつもりだけれど、こんな場面は一度もなかった。どうしよう。お礼を言うだけで、声が裏返りそうだ。


「……あの。ありがとうございます」


 三人が一斉にこちらを見た。注目されすぎて、さすがに声が小さくなる。それでも、これはきちんと伝えたかった。


「今日は、来てよかったです」


 エリアス様が最初に笑った。手を差し出され、もっと楽しんでもらわなくてはと言われる。アルベルト殿下は少ししてから手を離し、フェリクス殿下は三曲目の約束を念押しした。

 忘れませんとも。こんな幸せな予定なら、何度でも確かめたい。

 エリアス様の手を取り、踊りの輪へ向かう。後ろで兄弟が何か話し始めたけれど、音楽に紛れて聞き取れなかった。リディアの話もしてくださっていたら、うれしいなと思った。


「今日は、足元を見ないね」

「はい。練習していただいたので」

「鏡も見ない」

「ここには、ありませんから」


 笑う気配が、つないだ手から伝わってきた。手の引き方も歩幅も、練習のときと同じだ。数えなくても足が動いて、さっきよりさらに落ち着いて踊れる。


「でも、よかったです」

「何が?」

「鏡がなくて。また見てしまいそうなので」


 リディアは今日、特別にかわいい。練習のときでさえ目を奪われていたのだから、今なら一曲まるごと眺めてしまうかもしれない。そう説明するわけにもいかず口を閉じると、エリアス様が少し声を落とした。


「では、今は、こちらを見ていて」


 そんなふうに見つめられると、推しが照れてしまうのですが。

 でも、殿下とも目を合わせて踊れたのだから、ここで下を向くわけにはいかない。うなずいて顔を上げると、彼は満足そうに笑った。これなら、練習の成果はちゃんと見せられたはずだ。

 私は足を踏まずに、二曲目も踊り終えた。


 楽団が小休止に入ったところで、少し外の空気を吸わないかと誘われた。会場に面したテラスへ出ると、風が頬に気持ちいい。開いた扉から人々の話し声が聞こえてくるけれど、熱気から離れただけで、ずいぶん涼しかった。


「本当に、ありがとうございました。勉強も、ダンスも、あんなに付き合っていただいて」

「君は、ずっとお礼を言っているね」

「それだけ、助けていただきましたから」

「では、今日は私の話を聞いてくれる?」


 もちろんだ。

 これだけお世話になったのだから、相談なら真剣に聞かなくては。姿勢を正したところで、まだ手を握られていると気づいたけれど、彼が話し始めたのでそちらへ耳を傾けた。


「君が彼を好きなのは、知っている」


 殿下のことだ。今後の作戦について、ご意見があるのだろうか。卒業後も会いたいと言っていただけたので、その後をどうしたらいいか、相談できるならありがたい。


「それでも、私にも君を振り向かせる機会がほしい」


「...え?」


 ……作戦の相談では、なかった。

 振り向かせるというのは、恋愛の意味で? リディアに、ご自分を好きになってほしいということ?

 そこまで考えて、ようやく分かった。

 エリアス様は、リディアが好きなのだ。

 原作の人物相関図を、頭の中で必死に探す。こんな矢印はなかった。王太子の政策を批判する隣国の王弟が、どうしてここで、リディアに告白しているのか。

 いや、好きになる理由は分かる。リディアだもの。

 魅力に気づいてくださるのは、当然うれしい。でも、まさか私が、その告白を最前列で聞くことになるなんて。

 大きな声を出してはいけない。推しの大切な場面を、自分の歓声で遮るわけにはいかない。


「勉強なら、一人でもできた。君に本を選ぶ必要も、図書室で待っている必要もなかった」


 エリアス様が少し苦笑した。

 私は放課後の図書室を思い浮かべる。いつも同じ席にいてくださったのは、もともとあの場所がお好きだからではなかったのか。質問がない日にも来ていいと言われたことまで、急に違う意味に聞こえてきた。


「君が次に何を持ってくるか、知りたかったんだ。書き直したノートでも、家の犬の話でも、君が話しているなら聞いていたかった」


 私は口を開きかけて、慌てて閉じた。

 分かります、と言いそうになった。そんな細かいところまで好きになっていただけて、本当にありがたい。推しの魅力について、後で改めて語り合いたいくらいだ。


「ダンスを一生懸命練習するところも、好きだった。別の男と踊るためだと分かっていてもね」


 そこで初めて、言葉に詰まった。

 私はいつも、殿下に褒められたことや、殿下に誘われたことを報告していた。応援してくださるから、うれしい話を聞いてほしかったのだ。でも、エリアス様にとっては、そればかりではなかったのかもしれない。


「私、知らなくて」

「うん。分かっている」

「でも」

「謝らなくていい。私が、自分からそばにいたかったんだから」


 握られている手に、少し力が加わった。責められているわけではないらしい。それでも、こんなに真剣な話を、推しが好かれてうれしいというだけで受け取ってはいけない気がした。


「夜会に誘ったのも、君が一人にならないように、ではないよ」

「……違うんですか?」

「私が、一緒に踊りたかった」


 そういうことだったのか。

 二曲目をすぐに約束してくれたのも、練習だけで終わらせないと言ったのも、面倒を見てくださっただけではなかった。私は一つ思い当たるたび、もう一つ前の出来事を思い出した。恋愛作戦に協力してもらいながら、別の恋を進めてしまっていたらしい。


「すぐに返事をしてほしいとは言わない」


 黙り込んでいたら、そっと声をかけられた。


「君が彼を思って頑張ってきたことも、知っているから。ただ、私が何のために隣にいたのかは、分かっていてほしかった」


 私は顔を上げた。

 ふざけていないことは、よく分かる。推しに好意を向けてくれた人の気持ちを、雑に扱うわけにはいかない。なのに、この場でどう返事をすればいいのかは、すぐには決められなかった。


「伝えてくださって、ありがとうございます」


 リディアは殿下が好きだ。その恋をかなえたくて、私はここまで頑張ってきた。でも、原作にない相手だから駄目ですと断るのは、何か違う。

 私が見たかったのは、リディアの幸せな顔だ。殿下に選ばれること以外を、最初から全部なしにしてしまっていいのかな。目の前の方は、間違えたノートを消さなくていいと言ってくれて、何度足を踏んでも練習に付き合ってくれた人なのに。


「すぐには、お返事できません」

「うん」

「でも、もっとお話ししたいです。エリアス様のことを、まだ、あまり存じ上げないので」


 彼が目を見開いた。

 考えてみれば、私は相談してばかりだった。休みの日に何をするのか、どんな場所が好きなのか。お菓子の好みは少し分かるけれど、それだけで推しのお相手を考えるのは早すぎる。


「勉強の話だけではなく?」

「はい。お好きなものとか、ご家族のこととか。私のお話ばかり、聞いていただいていましたから」


 エリアス様は今日いちばんうれしそうに笑った。


「では、次の休みに、二人で出かけない?」

「はい。ぜひ」

「宿題も、練習もなしで」

「分かりました」


 大変な任務になった。リディアが無理をしすぎたら止めてくれそうだけれど、ほかにも確かめたいことはある。食べ物の好みも、仕事が忙しいときの過ごし方も、少しずつ聞いてみよう。

 頭の中で質問を並べていると、握られた手が持ち上がった。

 銀色の髪が近づく。指先に唇が触れたと分かった瞬間、私は息を止めた。

 推しの手に、口づけ。

 そんな場面まで見せてもらえるんですか。しかも、この距離で。


「……顔が赤いね」

「こ、これは、あの、間近で見たので」

「うん。私も、こんな近くで君の顔を見るのは初めてだ」


 違う。近くで推しの恋愛を見てしまったという意味なのだけれど、説明のしようがない。私は空いた手で頬を押さえ、どうにか息を吐いた。見守る側にも、心の準備がほしい。

 エリアス様は楽しそうに笑っている。

 こんな顔、挿絵にはなかった。リディアの新しい恋の可能性を知ったうえに、原作にない表情まで見せてもらえるなんて、今日はもう頭がいっぱいだ。帰ったら日記に何頁使うことになるんだろう。

 次の曲の前奏が聞こえてきた。

 そうだ、フェリクス殿下をお待たせしている。扉へ目を向けると、エリアス様はゆっくり手を離してくれた。部屋へ戻った途端、腕を組んだ第二王子に声をかけられる。


「遅い。何の話?」

「次のお休みに、エリアス様とお出かけすることになりました」

「……へえ」


 笑っていらっしゃる。でも、声が少し低い。

 さらに後ろからアルベルト殿下まで来て、気づけば三人がそばにいる。ほかの方へのご挨拶はいいのだろうか。私ばかり、こんなにお時間をいただいてしまって。


「リディア。僕とのお茶も、忘れていないよね」

「もちろんです」

「なら、俺とも出かけよう。今度は、練習じゃなくて」

「遠乗りですか?」

「君が行きたいところでいい」


 私はフェリクス殿下を見た。

 乗馬を教えてくれて、怖がっても笑わず、私の速さに合わせてくれた人。そういえば、二人でならずっとゆっくり行けると言われた。あれは、遅れないように気を遣ってくださったのだと思っていたけれど。

 まさか、この方まで。

 殿下とエリアス様を見て、それからもう一度フェリクス殿下を見る。三人とも私の返事を待っていた。推しの恋愛事情が、原作から離れすぎている。


「……リディアは、幸せ者ですね」

「君の話だろう?」


 エリアス様に言われ、私は深くうなずいた。

 分かっています。今ここで、リディアに代わってお返事できるのは私だけなのだ。

 幼なじみに振り向いてもらうことはできた。卒業夜会で、一人で泣くこともなくなった。でも、そこでよかったと本を閉じるわけにはいかない。推しには、この先もずっと幸せでいてもらわなくては。


「お一人ずつ、お話を伺ってもよろしいですか」


 三人が、ほとんど同時にうなずいた。

 よし、私もしっかり考えよう。顔と身分がいいから、などという理由だけで、大切な推しを任せるわけにはいかない。今日から手帳に書き込むことが、また増えそうだ。

 負けヒロインなので、私が幼なじみを振り向かせてあげるつもりだった。

 推しの恋がかなうところを、誰より近くで見届けたかっただけなのに。

 結婚相手の選考まで任されるとは、聞いていない。


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