何ひとつ残していないそうなので、何ひとつ残さずに出ます
「アデーレに持たせる支度金はない。クラーラに回す」
収穫祭を十日後に控えた晩の宴で、ローゼンハイム男爵は卓についた十二人の客を前にして、二人の娘にそう言った。
肉を切る手は止まらず、言い終えてから葡萄酒の杯を取り上げている。男爵家の長女の縁談が一つ消えた話を、その日の天気と同じ調子で片づけたのである。
卓についていた十二人は、領内の顔役と近隣の家の当主である。招く人数を決めたのも席の順を決めたのも長女のアデーレだった。
向かいの席で、妹のクラーラが小さく息を呑んだ。
「ローゼンハイム家の宴は、毎年よく整っておられる」
近隣の家の当主の一人が、場をつなぐようにそう言った。男爵は満足そうに頷いた。
「当主が目を配っておればこうなる。家というのは上が締まっておれば、下は勝手に回るものだ」
この卓の献立を決めたのも、酒を選んだのも、給仕を何人立てるか決めたのもアデーレである。
「クラーラは十六だ。今のうちに支度をしてやらねば、良い縁を逃してしまう」
男爵は杯を置いてから、末席の長女のほうへ顎を向けた。
「アデーレには家のことがある。台所の勘定を数えていられるなら、嫁がずとも困るまい」
卓のどこかで笑いが起きて、二つ三つに増えてから、また静かになった。笑ったのは近隣の家の当主たちで、領内の顔役は一人も笑っていない。
「かしこまりました」
アデーレは膝の上で手を重ねると、父に向かって浅く頭を下げた。動揺していない。驚いてもいないし、悔しがってもいなかった。
驚かなかったのは、六日前にこの家を出ると自分で決めていたからである。王都のヴェルナー商会から、抱えている領地の差配を任せたいという申し出があり、受けると返事を出したのが六日前だった。縁談があってもなくても、アデーレは収穫祭の翌朝にこの家を出る。父の宣告は、十一日後にはもういない娘に向けられたものだった。
宴が退けたあと、男爵はアデーレを書斎へ呼んだ。
「不服そうな顔をされては困る」
「不服はございません」
「クラーラは器量がよい。おまえは器量で勝負ができんのだから、家に置いておくのが一番よい使い道だ」
男爵は椅子の背にもたれて、机の上の紙を指先で寄せながら話している。紙は宴の礼状で、近隣の家から届いた分だった。
机の後ろには棚がある。棚には領地の年貢の控えが、六年ぶん並べて入れてあった。
年貢の控えというのは、どの村からいくら納められたかを一行ずつ書き写した帳面で、翌年に村ごとの割り当てを決めるときの土台になる。前の年に麦が採れなかった村へ同じ額を割り当てれば、その村は畑を捨てて出て行く。だから控えは毎年捲って、村ごとの上下を見なければならない。
ローゼンハイム男爵がこの控えを自分で捲ったのは、六年前に妻が亡くなるまでのことである。それから六年、棚から出して捲っていたのは長女のアデーレだった。
「家の中のことは女がやることだ。わしは口を出さん。出さんかわりに、口も利かせん」
「承知しております」
「おまえは十二の年からこの家におって、この家に何ひとつ残しておらん」
アデーレは顔を上げた。
「何ひとつ、でございますか」
「そうだ。嫁いで家の名を広げたわけでもなければ、子を産んで血を継いだわけでもない。クラーラはこれから両方をやる。おまえは何ひとつ残しておらん」
アデーレは机の端の燭台へ目をやった。
「お父様。その燭台の脚は、去年の秋に割れております」
男爵は手元へ目を落とした。燭台の脚はまっすぐで、どこも欠けていない。
「割れておらん」
「六日後に鋳掛屋を呼んで直させました。割れたことも直ったことも、お父様はいまお知りになりました」
「……それがどうした」
「なんでもございません。何ひとつ残していないとおっしゃいましたので、一つだけ挙げました」
男爵は燭台を机の端へ押しやった。
十二の年から六年のあいだにアデーレがやってきたのは、次のようなことである。屋敷の使用人十九人の給金を決めて毎月渡し、台所と洗濯と厩の入り用を月ごとに割り振り、領内の四つの村から上がる年貢を確かめる。屋根と塀と水路の修繕の順を決め、王都の商会への支払いを期日どおりに済ませ、収穫祭と年始の宴の支度をひととおり整える。
どれも一つずつでは名前のつかない仕事で、まとめて呼ぶときは家政という。家政をいくら上手にこなしても、他家へ見せて回れるものは何も残らない。屋敷の外の人間には、アデーレが六年のあいだ何をしていたのかが分からない。
「話は以上だ。下がれ」
「かしこまりました。お父様、十日後の収穫祭のことでございますが」
「祭りのことはおまえに任せてある。いちいち持ってくるな」
「承知いたしました」
一礼して書斎を出ると、廊下で家令のハインツが待っていて、燭台を持ち上げて足元を照らしてくれた。六十二になる男で、この屋敷に四十年勤めている。
「お聞きになりましたか」
「聞こえておりました」
前を向いたまま、ハインツが答えた。
「旦那様は、お嬢様が十二の年に何をなさったかをご存じないのです」
「知らずに済んだのなら、それでよろしいのです」
「お嬢様は、悔しくはございませんか」
「悔しいです」
アデーレは足を止めなかった。
「悔しいのと、困るのとは違います。わたくしは困っておりません」
翌朝、アデーレは自室の衣裳箱を空にしていた。
入っていたのは冬の外套が一枚と、擦り切れた室内履きが二足である。十八の娘の衣裳箱としては軽すぎたが、六年ぶんの中身はそれで全部だった。
扉が細く開いて、クラーラが顔を覗かせた。
「お姉様」
「お入りなさい」
「昨夜のこと、わたくしは何も聞かされておりませんでした」
「存じております。あなたが頼んだのではないことも存じております」
妹は部屋の中ほどまで来て、空の衣裳箱を見下ろしてから、自分の袖を握った。
「お姉様は、十五の年に社交界へお出になるはずでした」
「あの年はあなたの家庭教師の月謝と重なりましたから、翌年に回しました」
「翌年にもお出になっておりません」
「翌年は屋根の葺き替えがありました」
「このドレス」
クラーラがドレスの袖を持ち上げた。
「お母様のものだと、侍女が申しておりました」
「仕立て直してあります。あなたの丈に合わせて直したのはわたくしです」
「……二年前、お姉様に来た縁談を、お父様が断られたと聞きました」
「家政を任せる者がいなくなるから、と」
妹の目が赤くなっている。妹が並べた三つは、いずれも姉が自分から口にしたことのないものだった。
アデーレは箱の蓋を閉じてから、妹の肩に手を置いた。
「クラーラ。いまの三つを口にしたのはあなたで、わたくしではありません。そこは覚えておきなさい」
「どういう意味でございますか」
「わたくしが自分で言えば、恨み言になります。あなたが言ったのですから、事実になります」
妹は何か言いかけて、やめた。
「お姉様は、どちらへ行かれるのですか」
「王都です。ヴェルナー商会が、預かっている領地の差配をする者を探しておりました」
「商会……お姉様が、商人の下でお働きになるのですか」
「下で働くのではありません。八つの領地の勘定と人の采配を、まとめて預かります」
「……お姉様は、それをなさりたいのですか」
「はい。クラーラ、あなたはどうしたいの」
「わたくしは」
「考えたことがないのなら、今日から考えなさい。十日あります」
ヴェルナー商会は、借金の抵当に取った領地を八つ抱えている。抵当の領地というのは持ち主が代わっただけの土地で、村も畑も職人もそのまま残っているから、誰かが年ごとの割り当てを決めて村を回さなければ、翌年には人が出て行って値が下がる。商会には金を勘定する者が何十人もいるが、村を回して割り当てを決められる者はわずかしかおらず、八つの領地には手が足りていなかった。
クラーラは口を開けたまま、しばらく黙っていた。
三日後の朝、男爵は玄関の間でアデーレを呼び止めた。
「出て行くと言うたそうだな」
「七日後の収穫祭が済みましたら、その翌朝に、と申し上げるつもりでおりました」
「馬車は出さんぞ」
男爵は腕を組んだ。
「男爵家の馬車を、家を捨てる娘のために出す道理がない。歩いて行くというならそれもよかろう」
「馬車は結構でございます」
「強がりを言うな。歩けば二十日かかる」
「門の内に、ヴェルナー商会の荷馬車が二台停まっております。ご覧になりますか」
父が動かないので、アデーレのほうから玄関の扉を押し開けた。前庭には幌をかけた荷馬車が二台並んでいて、御者が二人と荷を下ろす男が三人ついている。
「昨日、祭りの樽と幕を運んでまいりました。昨夜のうちに納屋へ下ろし終えております」
「祭りの荷か」
「はい。樽と幕は毎年、王都の商会から取り寄せております。この車は明日、空で帰ります」
「では、おまえは乗らんではないか」
「祭りが済みますと、今年の麦を積みに同じ車が戻ってまいります。わたくしはその車に乗せていただきます」
「……男爵家の娘が、麦と一緒に王都へ行くと言うか」
「どのみち王都へ向かう車でございますから、運賃はかかりません」
男爵は前庭の荷馬車をしばらく見ていた。
「誰の許しを得た」
アデーレは扉を押さえたまま、父のほうへ向き直った。
「樽と幕の注文でございましたら、家の中のことは女がやることだ、口を出さぬ、とおっしゃいました。三日前の晩でございます」
「そうではない。家を出る話だ」
「お父様の許しは要りません」
父の眉が動いた。
「娘の行き先をお決めになれるのは、支度をなさる方でございます。支度金は出さぬとお決めになりました。三日前の晩、十二人の前で」
男爵の顔が赤くなった。アデーレは扉を閉めて、続けた。
「商会からの申し出は先月にございました。返事は九日前に出しております」
「九日前だと」
「はい。お父様が支度金の話をなさる、六日前でございます」
男爵は言葉を探しているようだった。宴の席の一言は、長女の縁談を潰すつもりで放たれたものである。潰す縁談は、六日前から一つも残っていなかった。
男爵は玄関の間を出て、書斎へ戻った。アデーレとハインツもついていく。
「収穫祭はどうする」
「今年は例年どおりに行われます。支度はもう済んでおりますので」
「来年もだ。祭りはローゼンハイム家の行事だぞ。おまえがおらんでも回る」
「来年のことは、これをご覧になってからお決めくださいませ」
ハインツがいったん廊下へ出て、紙の束を抱えて戻ってきた。麻紐で括った束を、机の端のアデーレの前に置く。
「祭りの返事が揃いましてございます。四十一通」
「宛名を読み上げてちょうだい」
「『アデーレ・ローゼンハイム様』。四十一通、すべて同じでございます」
アデーレは束の上に手を置いた。
「男爵家宛は」
「ございません」
束をひったくった男爵が上から三通ほど改めたが、三通とも宛名は同じだった。
「そんなはずがあるか。招待状はわしの名で出しておる」
「招待状はローゼンハイム男爵の名で出ております。返事だけが、わたくしの名に来ております」
アデーレは束を父の手から受け取って、麻紐を結び直した。
収穫祭の返事というのは、出欠を知らせるだけの紙ではない。桟敷をいくつ組むか、幕を何反借りるか、樽をいくつ運ぶか、当日に何人出せるか、そうした細かい数がそこに書いてある。書いた者は、数の話が通じる相手に宛てて書く。
「石工のヨナスに桟敷を頼めば、ヨナスは寸法を書いた紙を持ってまいります。その紙は男爵家ではなく、わたくしのところへ届きます」
「わしのところへ持ってこさせればよい」
「昨年、ヨナスは寸法の紙を三度お届けしております」
男爵は口を閉じた。
「三度とも、お父様の机の上に置かれたままでございました。三度目のあと、ヨナスはわたくしのところへ来ました。今年は、最初からわたくしのところへ来ております」
紙が机の上で待たされた回数を、村の男は覚えている。覚えたうえで、次の年からは持って行く先を変える。
「ハインツ」
男爵は家令を振り返った。
「おまえに任せる。祭りも、家の勘定も、来月からおまえがやれ。四十年おるのだ、できぬとは言わせん」
ハインツは上着の内から折った紙を出して、両手で差し出した。
「旦那様。お暇をいただきたく存じます」
男爵が受け取らないので、ハインツは紙を机に置いた。
「六年前、奥様がお亡くなりになったとき、私は暇を願い出るつもりでおりました。書付も一度したためております」
「聞いておらん」
「申し上げておりません。台所で十二のお嬢様が帳面を開いておられるのを見て、その書付を破りましたので」
ハインツは背を伸ばしたまま話している。声は低いが、震えてはいなかった。
「私が四十年で覚えましたのは、どの村の誰に言えば話が通るかということだけでございます。決めるのはお嬢様、村を回って伝えるのが私。三年前の凶作は、その二つが揃っておりましたので越えられました」
「では、おまえが残れば来年も越えられよう」
「越えられません。伝える者だけがおりましても、伝える中身がございません」
「わしのために残ったのではないと言うか」
「はい。十二のお嬢様が台所で帳面を開いておられたから残りました。お嬢様が出られるのでしたら、私が残る理由はございません」
ハインツは机の上の紙を指で押さえて、男爵のほうへ少し寄せた。
「王都に部屋を一つ用意していただいております」
アデーレのほうを見てから、男爵に向き直る。
「六十二の家令を雇う商会など、本来はございません。お嬢様が、ローゼンハイム家の家令は数字を読めると先方に書いてくださいました」
「三年前の凶作を越えたとは、どういうことだ。麦が採れなかっただけの年だろう」
男爵が言った。その年のことなら知っている、という顔をしている。麦が三割しか採れず冬を越すのに苦労した年だというのが、男爵の記憶の全部だった。
「あの年、この家は払うべき金の四割しか持っておりませんでした」
十五の秋のことである。麦が三割なら、入る金も三割になる。前の年の残りを足して手元にあったのが、払うべき金の四割だった。四つの払い先を全部は払えない。
払う先の一つ目は、日雇いの賃金と小作の種籾である。二つ目は領内の職人への手間賃、三つ目は王都の商会への支払い、四つ目は男爵家の格を保つための出費だった。
アデーレは順を決めた。
一つ目の日雇いの賃金と種籾は、全額を期日どおりに払った。日雇いはその金がなければ翌週に食べるものがなく、種籾がなければ翌年の畑が空になる。待たせようのない金である。
二つ目の職人の手間賃は半分だけ払って、残りは翌年の春に利をつけて払うと書き、一軒ずつ回って承知を取った。
三つ目の王都の商会には、一年待ってほしいと願い出た。次に金が入るのは翌年の秋の収穫のあとだからである。
四つ目の男爵家の格を保つための出費は、その年をゼロにした。葡萄酒の等級を落とし、社交を止め、厩の馬を二頭売った。男爵が自分の馬が減ったことに気づいたのは翌年の春である。
金は、待てる者から待たせる。待てない者に先に払う。順を決める基準はそれだけだった。
石工のヨナスの家は、その年に手間賃が入らなければ一家で領を出ることになっていた。半分だけでも入ったので、出ずに済んだ。同じ理由で領を出ずに済んだ家が、四つの村に四十七軒ある。手間賃を待ってもらった職人が二十九軒、賃金と種籾を先に受け取った日雇いと小作が十八軒である。
王都の商会への願い出だけは、手紙では足りなかった。一年待てと書いた紙を送りつけるだけの家は、翌年から取引を断られる。断られれば塩も鉄も油も入らなくなって、村は凶作の翌年に干上がる。
十五のアデーレは、供もつけずに乗合馬車で八日かけて王都へ出て、ヴェルナー商会の帳場に自分で立った。
帳場の男は、子どもの遣いだと思って追い返そうとした。アデーレは紙を一枚だけ台の上に置いた。四つの払い先と、それぞれにいくら払うか、どれを待たせるかを順に並べた紙である。
「三つ目がお宅でございます。一年、遅れます」
「遅れると言いに来る家は初めてだ。それで、こちらに何の得がある」
「四つ目をゼロにいたしました。男爵家が体面に使う金を止めて、その分をお宅より先の二つに回します。二つが立てば、村が残ります。村が残れば、来年の秋にお宅への支払いが立ちます」
「来年の秋まで待てと」
「来年の秋に一度で払える家と、今年のうちに半分だけ払って村が消える家と、どちらがお宅の得になりますか」
帳場の男は紙を持って奥へ入り、しばらくして別の者を連れて戻ってきた。
エルザベート・ヴェルナーが屋敷に着いたのは、その三年後の秋、収穫祭を六日後に控えた日の昼だった。
ヴェルナー商会の使者で、商会主の妹にあたる。四十がらみの女で、三年前に帳場の奥から出てきたのがこの人である。玄関の間で男爵に会釈をしてから、まっすぐアデーレのほうへ歩いてきた。
「三年ぶりですね、アデーレさん。王都ではよろしく」
「こちらこそお願いいたします」
「男爵様」
エルザベートは男爵に向き直った。
「三年前、アデーレさんは十五でした。うちの帳場に、供もつけずにお見えになりました。どこから払うか順に並べた紙をお持ちで、うちは四つのうち三つ目、一年遅れると書いてありました」
「……娘が、王都へ」
男爵は帳場という言葉の意味を掴みかねている顔をしている。
「うちへの支払いは、翌年の秋に一度でいただきました。書いてあったとおりの月に、書いてあったとおりの額です。遅れると先に書いてよこした家は、その三年でこの一軒だけでした」
エルザベートは手袋を外して卓に置いた。
「払えない家は珍しくありません。黙って払わない家も珍しくありません。順を決めて、決めた順をこちらに見せる家がないのです。あれは十五の娘の仕事ではありませんでした」
「わしは知らされておらんかった」
「いいえ」
答えたのはアデーレだった。
「三年前の控えは、六年ぶんの年貢の控えと同じ棚に入れてございます。お父様の書斎の、机の後ろの棚でございます」
「……見ておらん」
「はい。一度もお捲りになっておりません。捲らないとお決めになったのはお父様でございます。家の中のことは女がやることだ、口は出さぬ、とおっしゃいました」
男爵は棚のほうを見ようとして、ここが玄関の間であることを思い出したように顔を戻した。アデーレは続けた。
「石工のヨナスをご存じですか。この領で三十年、石を切っております」
「……知らん」
三年前にあの控えを一度でも開いていれば、男爵は娘が何を決めたのかを知ることができた。決めるのは任された者の仕事で、それを承知するのが当主の仕事である。承知したと一言あれば、四十七軒が残ったのはローゼンハイム男爵家の差配になっていた。同じ紙が同じ棚に三年入っていて、開けば読める場所にあった。
「では、わしは何をすればよかったのだ」
「捲るだけでございました」
アデーレは一度だけ、言葉を切った。
「お父様が何かをお失いになるわけではございません。屋敷も村も畑も、そのままそこにございます。変わりますのは、村の者が困ったときに誰の名前を出すか、その一点だけでございます」
「名前など、当主の名前に決まっておろう」
「六年、そうではございませんでした。明日からそうなることも、ございません」
「アデーレ」
収穫祭の翌朝、麦を積み終えた荷馬車が門の内で向きを変えているとき、男爵が呼び止めた。
「この家に、何か残していけ」
十日前の晩に同じ人が言った言葉と、順序がちょうど逆になっている。
「この家に残すものは、もうございません」
アデーレは父に向かって、宴の夜と同じ深さで頭を下げた。
「六年のあいだに置けるものは、全部この家に置いてまいりました。ただ、置いてまいりましたものはどれも物ではございませんので、この家には残りません」
「まだクラーラがおる。クラーラは残る」
「クラーラの支度金のことを、申し上げてよろしゅうございますか」
男爵は答えなかった。
「今年の秋に手元へ残ります金は、金貨十八枚でございます。男爵家の娘の支度に要りますのは、少なく見て百二十枚でございます」
「……百二十」
「作る道は二つしかございません。一つはヴェルナー商会への支払いを一年延ばしていただくこと。もう一つは四つの村の手間賃を半分にして、残りを来年の春に利をつけて払うと承知させることでございます。三年前は、両方いたしました」
「では、今年もやればよかろう」
「どなたがなさいますか」
開いた口から、何も出てこない。
「商会の帳場は王都にございます。乗合馬車で八日、行って戻って十六日。帳場に立って一年待ってくださいと申し上げる方が要ります。村は一軒ずつ回って承知を取ります。三年前は二十九軒で十一日かかりました」
荷馬車の脇に立っているハインツへ、男爵は目を移した。
「ハインツ。残れ」
「旦那様。お暇の書付は、八日前にお渡ししております」
「受け取っておらん」
「机にお置きいたしました。八日、そのままでございます」
ハインツは帽子を取り、それきり口を閉じた。男爵はアデーレへ向き直る。
「アデーレ。おまえが残れ」
「お断りいたします」
父の顔が上がった。
「残れとおっしゃるのは、嫁がずにこの家の勘定をしろということでございます。二年前もそうでございました。家政を任せる者がいなくなるからと、お父様がわたくしの縁談をお断りになりました」
「……」
「十日前の晩、十二人の前で、嫁がずとも困るまいとおっしゃいました。そのとおりでございました。わたくしは嫁がずとも困りません。この家を出ますので」
アデーレは荷馬車のほうへ体を向けた。二台目の窓に、クラーラが座っている。
「クラーラ」
「お父様。わたくし、お姉様と王都へまいります」
妹は窓の内から一礼した。宴の夜に姉がしたのと同じ、浅い一礼である。
「クラーラの支度は、わたくしがいたします。差配役の給金を三年ためれば、百二十枚になります」
「……男爵家の娘の支度を、商人がするのか」
「男爵家がお出しになるのでしたら、そのほうがようございます。金貨百二十枚をご用意くださいませ。クラーラは、それまで王都で待ちます」
男爵は答えなかった。十日前の晩、この人は十二人の客の前でクラーラに支度金を回すと言った。十二人はいずれも領内の顔役と近隣の家の当主である。そのうちの何人かは、昨日の収穫祭の席でも、クラーラの縁組はこれから良い話が来ると男爵が語るのを聞いていた。
馬車が門を出るとき、道の端に石工のヨナスが立って帽子を取った。その後ろに村の男が十人ほど並んで、同じように帽子を取った。三年前に領を出ずに済んだ家の者たちである。
アデーレは窓を下ろして会釈を返し、クラーラも隣から手を振った。向かいの席でハインツが同じように頭を下げている。
「あの者たちは、これからどうなりますか」
窓を上げてから、ハインツが訊いた。
「ヨナスは来年もこの領で石を切ります。この領を出る気はないし、わたくしも連れて行きません。ただ来年の秋、桟敷の寸法を書いたあとで、あの人はその紙を誰に宛てればいいのか分からなくなります」
「旦那様がおいででございます」
「三度届けて、三度とも机の上に置かれたままでした。あなたの書付も、同じ机の上です」
膝の上に帽子を置いて、ハインツは背を伸ばした。アデーレは窓の外へ目を向けたまま言った。
「ローゼンハイム男爵家は、来年の秋にヴェルナー商会への支払いが立ちません。今年の麦であと一年は保ちますが、それだけです」
「……そのあとは」
「うちが抵当に取ります。持ち主が代わるだけで、村も畑も職人もそのまま残ります。ヨナスは石を切りますし、寸法の紙を出す先もできます」
「では、ローゼンハイム領が、商会の九つ目になるのでございますか」
「はい。わたくしが預かる九つ目の領地になります」
しばらく、車輪の音だけが続いた。
「止められませんか」
アデーレは膝の上で手を重ねた。
「お父様が棚を開けて、四つの村を回って、王都の帳場に立てば止まります。三つとも、明日からでもおできになります。六年のあいだ、一度もなさいませんでした」
馬車が坂を下りて、屋敷の屋根が木の向こうに隠れた。
「お父様は、わたくしがこの家に何ひとつ残していないとおっしゃいました。そのとおりです。置いてきたものは、物ではありませんでした。村の者が困ったときに誰のところへ行くか、それだけです。物でないものは、置いていけません」
隣でクラーラが身じろぎをした。
「お姉様。わたくしも、十日で決めました」
「そう。それでいいのです」
王都までは八日の道のりだった。




