ある平日の夜
日は沈み、いつも吸血鬼と会う不思議な時間帯の夜になる。まあ、今夜彼に会えるわけではないから、関係ないのだが。
私は暗くなった部屋の中で、机に向かって座っていた。
どうしよう、これ。
机の上に置かれた香水の瓶を見ながら、深くため息を吐く。
透明のハート型の瓶に、桃色の液体が入っている。そこからは甘い苺のような匂いが漏れ出している。どんな怪しい物なのかはいまいち分からないが、つけるかつけないかは少し迷う。
吸血鬼は気にしないかもしれないけど、他の男の人からもらったものをつけて、メロメロにさせるとは……。なかなかに悪女ではないだろうか。いや、それは自意識過剰なのかもしれない。
「本当、迷惑なものを押し付けてくれたよね」
つんと、指先でその瓶をつつきながら、思いをはせるのはあの綺麗な人のことだ。くそう、乙女チックな思考なんて似合わないのに。そう思いつつも、やっぱり考えてしまうのだ。
彼を自分のものにしたいと、思ってしまう。
人ならざるものに恋をするなんて不毛以外のなにものでもないのに、私は結局その馬鹿げた思考から切り離されることが出来ない。
「ふぅ」
「この馬鹿娘め!」
は? と思った瞬間には、いつものネズミが部屋に侵入していた。
キーキー言っているのは相変わらずだが、彼の主が居ないせいか、いつもより落ち着いているように見える。
「ど、どうやって入ったの?」
そう。それが問題だ。
今日は特に窓も開けてないし、戸締りもしっかりしているはずなのだ。いつものように彼らを出迎える用意なんてしていない。だって、今日は満月ではないのだ。
――僕は吸血鬼だから、満月の夜にしか会えないんだ。
「なんで、ここに居るの?」
「私は使い魔だからな! ゼロ様は眠っておられるが、私は自由に飛びまわれるのだ」
答えが返ってきて、しかし私の疑問を全て解消するものではないことに困る。
「だって、窓が閉まってる」
「だから馬鹿だというんだ。この忌々しい小娘め! 私もゼロ様も霧になって他人の家に侵入することなど容易いことだ。ふん。まあ、初めての家に侵入するには招かれないといけないのだが」
私は招いた覚えなど無いが。いや、招いては居ないけど、ずっと待っていた。
闇に映える月。私の宝物。
だったら、彼が私の家に入ることが出来るのも、おかしくはないのかも知れない。
「でも、いつも窓から入ってきてるじゃない?」
「そんなの、あのお優しくご聡明なゼロ様のご配慮に決まっているではないか! お前のような者であれ、いきなり部屋に男が居たら怖がるだろうという、ご配慮だ。感謝するが良い!」
しかし、いちいちうるさいネズミだなあ。しゃべり方も仰々しいし、どこか高圧的な感はいなめない。あの吸血鬼がぼんやりしているせいだろうか。
「……あの人は?」
「眠っておられるといっただろう! あのお方はお優しいので、満月以外の残虐な性質を押さえ込めない日には外に出歩かないように自制してらっしゃるのだ! まったくもって、心の広い……」
お前の心の狭さは異常だがな。
さすがにいえない言葉を思いながら、すんすん泣いているネズミを冷めた目で見つめた。
「それより、その瓶は何だ!? 悪趣味な」
「え? 悪趣味……?」
この可愛らしい小瓶に悪趣味という言葉は当てはまらないだろう。まあ、ハート型といえば乙女乙女しいから、彼にとっては悪趣味の範囲に入るのかもしれないが。
しかし、そんな考えは見事に破られる。
「そんな淫薬を用いて、ゼロ様に迫ろうというのか!? この不届きものめ!」
「淫薬?」
まさかのお言葉に、私は目をひん剥いて驚いた。
何その、危ない言葉。
「しかし、吸血鬼の情欲を煽る薬品など、よく手に入れたな……。貴様、ゼロ様の事を何だと思ってるのだ!? こんな下品な薬を使って惑わそうなどとは……!」
「は!? いや、そんなつもりは……」
なかったと言い切れないのが、悔しい。恥ずかしい。
「だいたい、ゼロ様の手腕を何だと思ってるのだ!? このような薬を用いなければいけないほど、お前は色狂いなのか?」
手腕? 色狂い?
なんか、妙に怪しい言葉を言われているが、それ以上に私は慌てていた。
「違う! だいたい、これがそんなものだったなんて、知らなかったし……」
「……じゃあ、どこから? 他の吸血鬼に使う予定だったなんて言わないだろうな」
「言わない」
それに対しては即答できる。
この瓶は、知り合いからもらったものだ。そう、彼から。
これで分かってしまった。彼もきっと何かしらの関係者なのだと。
だからといって、何かあるわけでも無いんだけど。でも、一応聞いてみなくちゃいけないよねえ。教えてくれるかわからないけど。
「黙り込むな小娘!」
「で、なんでここに居るの?」
今日は、吸血鬼と一緒じゃないのに。
そんなことを思って、ネズミを見上げれば、ものすごく焦りだした。
なんだ!? やましい事でもする気なのか?
「別にお前の家から変な臭いがしたからとか、そういうわけではないからな!」
どんなツンデレだ。しかも、ネズミ……。
頭を抱えながら、しかし心配してくれていたのだと思い直す。
「ありがとう。フィフ」
名前を呼ぶのも久しぶりかな。そんなことを思いながら彼を見やれば、彼はまたキイキイと喚き散らしていた。
「うるさい! この馬鹿娘が」
どうやら、照れているらしい。傍目には分からないと思うが、多分そうだ。吸血鬼が、フィフを可愛いといった理由が少しだけ分かって嬉しくなった。まあ、少しだけだけど。
「ふん。その中身、早く処分しろよ」
多分、私のために言っているのだろう、その台詞に苦笑する。
どうやら、お帰りのようだ。
「まあ、いつでも来れるんなら来れば良いよ。お茶くらいは出してあげるから」
「ば、ばかめ!」
「じゃあ、またね」
ひらひらと手を振れば、「ふん」と言いながら消えてしまったネズミ。
やっぱり、可愛いかどうかは疑問だな。
それより、この瓶をどうしよう。
結構危険物らしいし、変に捨ててしまって吸血鬼が煽られてしまったりなんかしたら、とても困る。
やっぱり聞くしかないだろう。
「こんなの、心が手にいれられるわけでも無いのにね……」