ある満月の夜 2
「フィフ」
「ふぎゅあああああん」
鼻水でべちょべちょになりながら、その丸っこい生物は吸血鬼に飛びついた。
っていうか、これは泣いているのか? だとしたら、何という泣き声だろうか。
飛びついたその速さもさることながら、キイキイと鳴く声の五月蝿さったら……。
衝突された可哀想なフライパンもまだ揺れているし。
「ゼロ様! また置いていかれて、フィフは悲しくてたまりません。しかし、今日こそはこの小娘を倒し、2人で夜の散歩を満喫しましょう!」
どこまでも勝手な物言いに、カチンとくる。
「さっさと、散歩に行けばいいでしょ。どこぞの美人さんにでも、血をもらってくればいいよ」
「麗……」
明らかに傷ついた表情をする彼に、胸が痛くなる。
そんな顔しなくていいじゃん。まるで私が悪いみたいじゃない。
ずるい。こんなに苦しいのは、私だけなんて、ずるいよ。
「ぜ、ゼロ様になんという口の聞き方を!? この小娘め」
そして邪魔だ、ネズミ……。
「ネズミのくせにうるさい」
「ぬきぃ! 私はネズミなどではない! 高貴で高潔な蝙蝠だ」
蝙蝠が高貴で高潔かは、いまいち謎だと思うが。
だいたい、まるまると肥えた肉体は灰色で、申し訳程度に羽根のような物がついているだけなのだ。
ちまっとした耳に、八重歯は生えているのかすら分からないし。
うん、結構つぶらな瞳をしてはいる。黒くていまいち分からないかもしれないけれど。
やっぱり、どこをどう見てもネズミだよね。
どうやって飛んでいるのか謎なくらいのボディに毎度呆れる。
「何を見ているのだ、小娘っ! どうせ、失礼なことでも考えているのだろう」
お前以上に失礼なやつがどこに居るというんだ……。
呆れている視線を無視し、いやこれは気づいてすら居ないのかもしれないけど。ネズミさんは、興奮しながらしゃべり続ける。
ねえ、吸血鬼さん。貴方の使い魔なんでしょ。静かにさせて……。
っていうか、優雅にお茶飲んでいるんじゃねえ!
「私のような高貴な使い魔を見られるなどとは、お前も運がいいな。確かに吸血鬼の使い魔として、蝙蝠とは一般的では在るが、私の主人のゼロ様はこのように素敵なお方なのだ! それに私にはゼロ様より承った素敵な名前もあるしだな、こむす」
「わかったから……」
この使い魔と話をすると、めちゃくちゃ疲れるのだ。
そんな使い魔は、話を遮られてぶすっとしている。
「ゼロ様。こんな品のない小娘より、まだましな女もおりましょう」
やっぱり、いるんじゃない。
だから嫌なんだ。私のこと、食料みたいにしか思えないくせに。
そんなこと初めて会ったときから分かってるんだから、放っておいてよ。
「フィフ。適当なことを言うと、僕も怒るよ? 麗がいいんだ」
適当なのは、貴方でしょう?
「貴方が美食家なのは分かったから。もういいでしょ。早くクッキーでも食べて帰ってよ」
「うん。ごめんね、麗」
否定すらしないじゃないか。
本当に腹立たしい。
なにより、こんな最悪な吸血鬼にほだされてしまっている自分自身に、腹が立つ。
ゆっくりと、美味しそうにそのクッキーを口に収めていく様に、どうしようもない気持ちになる。
「クッキーだけでいいじゃない」
「うん?」
「な、なんでもない……」
私は彼にとって、食料なのだ。それ以外の理由で、彼が私に会いに来てくれるわけが無い。
租借し終わると紅茶を飲み、それも終わると彼は立ち上がった。
「美味しかったよ、麗。いつもありがとう」
「どういたしまして」
「じゃあ、僕はもう帰るね。ねえ、麗」
彼は一旦話を区切ると、私の方に向き直した。
彼の赤い瞳が私を見つめて、離さない。
この鋭い視線に弱いんだと、思う。
「本当に君が食べたいんだ」
この赤い瞳は、どうしてこうも魅力的なのだろうか。
「麗、聞いてる? さすがに、ちょっと一人でこんなこと言い続けるのは悲しいんだけど……」
「うん、ごめん。考え事してた」
彼はため息を吐き、私に微笑んだ。
「何を考えてたの?」
「ゼロの眼のこと。なんでそんなに綺麗なんだろうって、考えてた」
「え?」
見開かれた瞳に、ちょっと嬉しくなる。彼がこんな表情をするなんて、なかなかレアなのだ。基本的に、彼は穏やかに微笑んでいる。私の血以外の時には、特に害はなく、静かにおしゃべりを楽しんでくれるのだ。
「宝石みたいなんだね」
彼は私の月でもあり、宝石でもあるのだ。私はそう気づいて、少し嬉しくなった。
宝物が動いて、こんなに近くに居てくれるなんて、なかなか無いだろう。
「ん? どうしたの?」
私の言葉が気に入らなかったのか、彼は下を向いてしまっている。
一応、褒め言葉だったんだけど!
だいたい、私の瞳は真っ黒で、あまり宝石の様だと例えるのは難しいだろう。
余計に羨ましく、特別な言葉なのに!
「れい……ズルイよ」
下を向いたまま搾り出された言葉に、背筋がゾクッとする。
何? この色気は!?
「僕、ずっと我慢してるのにね……」
「ゼロ様、お時間です」
「分かってる。じゃあね、麗」
疲れきってしまったらしい彼に、どうしていいのか分からず、じろっとネズミを見てやれば。
「馬鹿娘」
そんなことを言われてしまい。
ムカッとして、フライパンを投げつけてしまった。
うん、良い音がする。
「こら、フィフ。遊んでないで、もう行くよ」
「い、いえ……ゼロさま……あそんでなど……」
息も絶え絶えにしゃべるネズミに少しだけ同情しつつ、窓まで見送る。
「また来るよ。僕の麗」
窓に足をかけ、後ろを軽く振り返る。
どこか寂しげな表情に、表情は変えなかったが、こっそり嬉しくなる。
彼が前のめりになったと思った瞬間にカーテンが翻り、強い風が抜けていった。
次の瞬間には、私の月は消えていた。
「満月も雲で隠れてる……」
そのまま、私はしばらく真っ黒な空を見続けた。