ある吸血鬼の夢
軽度の残酷表現に注意
夢というものは、意外と夢だと分かる時もある。
しかし、私の長い眠りの中では、それは繰りかえり行われる事実のような気もするのだ。私は毎回同じ動作を繰り返し、そして同じ結末を迎え、現在に至る。
それを疎ましく思うこともあったが、今はそうでもない。
何故なら、麗に出会ってから、私は同じ夢を見続けることになるからだ。
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酷くすえた臭いがして、眉間に皺を寄せた。
鼻を摘み、息を止める。しかし、その臭いは決して薄れない。奥底までこびり付いて、侵されていくようだ。
目を閉じ、開ければ、凄惨な現状が入ってきた。明けなければ、夜のまま闇に溶けてしまえたのに。だが、逃げられない。
今宵の満月は優しくないからだ。優しく照らす光は、私に罪を認めろと告げる、断罪の使者のようだ。
「これが私だ」
満月に告げる。
「これが私なんだ」
無数に落ちた紅い破片は、絨毯のように広がっていた。そこに散らばる物が何なのか知っている。この据えた匂いの正体も私には慣れた物となってしまっている。だから、分かってしまう。
しかし、私は見ない振りをして、その場を後にした。
私のせいではないと、何度も言い聞かせる。しかし、私のせいだと心が言う。
「私のせいではないと、言ってくれ!」
満月に向かって吠えると、遠くで狼の吠える声がした。それがだんだんと広がり、森を騒がしくする。
泣いてはいけない。それは私に赦された行為ではない。
だから、仮面を被ったように表情を動かさず、ただ足だけを進める。だんだんと早まる足に、風景が滲んで行く。
私は音を立てずに歩み、闇へと身体を滑り込ませた。
だが、今宵は満月。この明るい光の中、隠すことなど出来ようか。
近くに湖があることを記憶していた。風の早さでその場まで行き、息を止めた、入水する。そのまま、一番深い場所へ侵入っていく。
冷たい、と純粋に思った。身体の汚れが少しずつ剥ぎ取られ、流されて行くのを肌で感じる。
恐る恐る目を開ければ、やはり見られている。水面より遠い満月。揺らめいているのに、決して消えず、私を許さない光。太陽光だけでは意味を成さない。満月だけが、私を諫める。
何故、何故なんだ……。
口から、洩れていく疑問という名の泡に、応えなど無い。期待もしていない。
私は独りだ。それはきっと不変だ。
だから、寂しさなど知らない。だから、誘いにも乗らない。
瞳から流れているかもしれない液体は湖と同化して、還る。しばらく、このまま動きたくない。
「おい」
動きたくはないが、人の声がしたのを聞いた。
水面へ浮上すれば、女が湖の端に居るのが見えた。彼女は私を恐れる事無く、仁王立ちをして待っていた。
闇の女王か。そんな非現実的な考えを打ち消すように、彼女は私へ言葉を投げた。
「そうだ。お前だ! 何故この地に居る? この清廉な湖を汚すな、化け物め!」
強い視線に困り、憎しみを向けられるのに慣れているはずなのに、居心地が異常に悪い。
彼女は何者か。
私の前に佇み、罵るなど自殺行為だと分からないのか。
言葉を交わす事に慣れていない私は、目を瞬かせた。
「化け物は喋れないらしいわね」
「いや、口はある」
「なにぃっ!?」
その言葉に過剰に反応される。何もおかしなことなど言っていないはずなのだが、人間は本当に良く分からない。
「ふふ。その口、血を吸うためだけにあると思ったのだけどね」
「まさか。空気も吸うし、言葉も存在する」
「それにしては、不自由しているようだけど?」
それは間違っていないので、上下に頭を振った。やはり、過剰に反応され、困り果てる。何故怒り狂うのか。
首を傾げれば、一歩下がられ、怯んだ様子で忌々しそうに睨まれる。
私はそんなに何かをしたのだろうか。
それが、彼女との出会いだった。
長い黒髪はまっすぐに伸び、とても未熟な身体はまだ彼女を12、3才に見せた。実際の年齢など分からない。
私にとって年齢は、たいした意味をなさないので、聞く必要は無いことを知っていた。
「……魔女、か?」
結局、私の想像力などそんな物だ。吸血鬼だって人間にとっては、非現実的なものかもしれないと思いながら、彼女を見ていれば、後ろから駆けてくる男があった。
「メテルフィーユ!」
その顔こそ、私を見たときに普通の人間の反応に相応しい。しかし、どうやら普通の人間ではないようだ。この男に生命を感じない。
「中身は空か」
「違う! 違うわっ!」
いきなり泣きそうな顔になり、彼女は私へ向ける気配を荒げた。
男に至っては、細身の剣を構えている。
正直、訳が分からない。
「湖を汚したことについては謝罪しよう。もう、あの場で血を流したりはしない。それと、もう行っても良いだろうか? 満月の夜は短い。お前たちを殺したいとも思っていないから……」
あの満月が消えてしまえば、私の理性は消える。そして、どのような生物であろうと渇きを癒すために八つ裂きにする。特に、本能は人間に反応するのだ。
「……貴方、本当にあの吸血鬼? 血染めを好むんじゃないの?」
「血か。それは本能だ。そして、その衝動は止まらないだけ」
「おかしな吸血鬼ね。まあ、いいわ。ダン」
「はい」
「薬を持ってきて。15番目の棚の上から2番目の1番左の薬よ。透明で無臭のやつ」
「は……はい」
ダンと呼ばれた男は、一度こちらを伺ってから、一瞬で消えた。
どうやら、本当に人間ではないらしい。
「私はメテルフィーユ。確かに魔女と呼ばれているわ。貴方のその本能、抑えてあげる」
「……そのような事が可能なのか?」
「まずは薬。そして、身体を慣らしましょう。血など好まないように、少しずつ改良していくわ」
「そうか……」
改善できるものであると考えたことも無かったので、その提案には頭をガツンとやられたような気持ちになった。私は自分を失う時間が長すぎて、それ以外の時間をほとんど満月を見てすごしていただけだった。
「私は天才よ。まかせなさい」
「……分かった」
初対面の相手を信じるなど、おかしな話なのかもしれない。
しかし、私には死の不安は全く無かったし、彼女には特別が存在した。それは、他の生物にはないことだ。
「メテルフィーユ!」
先程と同じように駆けてくるダンに、私は視線を向ける。
手には確かに透明の瓶を持っていた。
「あら、ダン。違うわ。それじゃない」
「そうでしたか。すみません……」
「これって劇薬よ。もう、危ないじゃない」
それは、間違えたわけではないだろう。鈍い私にもそれは分かった。しかし、無色無臭の薬なのに、良く違いが分かるものだ……。
そして、何と甘い生物なのだと思った。その薬を試してみればいいだろう。死んでしまえばそこまでなのに、何故か彼女は私の生命を害すのを避けた。理解できない。
「もういいわ。吸血鬼さん、家に来て」
「いいのか?」
「いいわ。ああ、それとお願いがあるのだけど」
「なんだ?」
「名前を教えて。あと、そのしゃべり方の改善を要求するわ。なんだか高圧的で不愉快だもの」
私はその言葉に首を一度だけ縦に振った。
「私はゼロ」
言葉遣いを改めるにしても、どうやって直していいのか。