ある月を見る夜
部屋のベランダからは、月が良く見えた。私はこの場所が好きだし、他の窓から月を見上げるのも好きだ。
今も欠けて行く月を見上げ、温かいお茶を啜っている。
次に月が満ちるまで、私はこんな思いで居なければいけないのだろうか。
熱い息を吐くと、目の前が白くなる。
「出てきたら?」
虚空に声をかけると、気配もなく隣に人が現れる。
びっくりすることは無い。ただ、呆れる。
「モンスターらしさに磨きがかかってきたね」
私は事実を述べただけだ。涼しげな顔をして、もう一口お茶を啜った。
「ゼロ様の前で、そういうことを言うなよ……」
僅かに顔を青ざめながら、嫌そうな声を出すネズミ、いや人間もどき。
「何で?」
「少しは自分で考えるんだな」
何を偉そうに。私の用意したフライパンにぶつかる癖に、勝手な奴!
「はいはい」
「私の忠告を流すなっ! だから痛い目を見るのだ! この馬鹿娘が!」
怒り狂うネズミ、いや人間もどきを横目に見る。
美貌の長身の男と共にベランダで半月を見上げるなんて危険なことが出来るのは、現代人が夜に空を見上げたりしないから。
あんなに綺麗なのに、残念だ。
そして、あんなに綺麗な月を見ながら、カッカとしているネズミ、いや人間もどきが残念でならない。
「緑茶でも淹れてあげようか?」
温かい飲み物でも口に含んでいれば、いくらか静かになるだろう。そう思って問えば。
「クッキーもな」
この図々しい要求。さすがネズミ。意地汚さは真似できない。
無視してやろうと思ったのだが、私が甘い物を食べたかったから用意してやるか。あくまで私のために。
私はキッチンに行き、お茶筒を取り出した。急須に緑茶を入れ、さらにポットからお湯を注ぐ。
少し蒸らす間に、クッキーを取り出し、皿に乗せた。
一切合切、お盆に乗せてベランダに向かう。
椅子を持ち出し、ベランダに出した。そして、お盆をその上に、置く前にクッキーを盗られた。
「少しは待ちなよ……。出して貰う前に食べたりしないでしょ、普通。本当に失礼なネズミだよね」
「わ、私はネズミではない! 私は高貴で高尚なゼロ様の使い魔の蝙蝠だっ!」
「高貴で高尚な生き物は、摘み食いをしないでしょ」
「ぬきぃ! ぬきぃ!」
言い訳出来ないからって、五月蠅いな。
だいたい、大きな人間型でキイキイ言うなんて、滑稽でしかないのに。
せっかくお茶を淹れてやったのに、あまり効果は無いらしい。非常に残念だ。
月に視線を戻す。右手には丸いクッキー、左手にはあっついお茶を持っている。
「早く満ちないかな?」
私の期待に、呆れたように答えられた。
「まだ欠けきって無いだろうに」
「そうだけど、さ」
やっと三日月だ。これから、月は隠れて太る。満ちるまでにはしばらくかかるだろう。
でも、会いたいんだもん。
フィフだって、同じ事を考えているでしょうに。
「月か。小娘、お前は星には興味は無いのか?」
「ない」
すっぱり答えを返すと、フィフが少し口の端を上げた。どこか優しい目をしている気がする。
彼の考えはいまいち分からない。興味がないと言ったのに、何を嬉しそうにしているのやら。
星は確かに綺麗だけど、私に安心をくれるものではない。遠く、今もまだ燃えているのか分からないたどたどしい光は、どちらかというと儚く思う。
月の温かい光。強すぎない、光。
自分が輝いている訳ではないものの、闇に慣れてしまった私には彼のような孤独が好ましく思うのだ。
「お前は月を何故追い続けるのだ?」
「欲しい……から?」
月を見上げるのは当たり前のこと過ぎて、答えに自信が持てない。
追い続ける理由?
私は月を追い続けているだろうか?
イカロスは太陽を目指したという。私は月を目指している訳ではない……だろう。
それは遠過ぎる、と。手に入らないと理解している。
「有り得ない……」
手に入らないのに、欲しいと思ってしまうなんて、私の思考として成立してはいけない。
「おい……?」
「……それは駄目だ。だって、だって……」
「小娘?」
目を向けてはいけない。焼き切れてしまうでしょう?
目を背けてはいけない。見失ってしまうでしょう?
「麗!」
フィフの声に、はっとする。
「何?」
少し震えた声を問わないで。
私の近くには月が在れば良い。
星は要らない。
「何でもない。私はもう姿を消そう」
「好きにすれば」
それが気遣いだと気づきながら、そっけなく返した。
「クッキーは戴いていく!」
調子の良いフィフに冷たい視線を浴びせかける。
「好きにすれば」
こんなんだから、手に入らないのかもしれない。
元々、求めていた者が手に入った事など無かった。
欠けた月。どうしてこうも私とシンクロするのだろう。
「フィフ、お休みなさい」
「うむ。お休み」
そう言うと、彼は黒い闇に溶けた。