ある悩ましき夕
やっと午後の授業が終わった。そう思ったのに、結局私は肩の力を抜くことが出来そうに無かった。
面倒だから、このまま帰ってしまいたいという気持ちをやり込め、なんとか立ち上がる。
「やっぱ羨ましいー!」
キャーキャー言っている友人に、ため息を吐きながら答えを返す。
「じゃあ、代わってよ」
「ほら、それは無理だよ! うん。ごめんね、麗」
はあ、と大きなため息を吐き出せば、困ったように微笑まれ、どうしたものかと思う。
彼女が悪いんじゃないのに、責めたくなる。それだけ、この後の事が憂鬱だった。
「……行ってきます」
「いってらっしゃーい! 報告楽しみにしてるから!」
後ろで「何の報告?」と噂好きなクラスメートたちが楽しそうに話し始めのをちらりと視界に入れた。変な噂をされなければいいんだけど。耀はあんまり心配していないんだけど、他の子が面白おかしく騒ぎたてたら……。
考えるのはもうよそう。
数学の準備室だっけ。早く、終わるといいのだけれど……なんか、嫌な予感がするけど。
重たい足取りで準備室までの道のりを歩く。最近、人と関わる機会が増えてきて、気疲れが増えた気がする。
「ここ、か」
「ここですよ。どうぞ」
うわっ、と声を上げてしまったのは仕方のないことだと思う。
だって、すぐ後ろに居たんだもの。雁野先生が。
片手で軽々と教科書と参考書を持ち上げて、いささか不満げな顔をしている。
「月島さん。ドアの前に立たれると私も入れませんし、君も入れないでしょう?」
「あ、すみません!」
焦ってドアを開けたせいで、ガダンと大きな音をさせてしまった。
「落ち着きがありませんね」
辛口な言葉に、「はい」としか言えないのは相手が先生だからだ。もしフィフだったら、死ぬほど言い返してやるところなのに! 非常に残念だ。
とはいえ、雁野先生の仕草はとても清廉されていて、静かで確かに周りを惹き込んでしまうのも仕方がないと思わせる。一つ一つが絵になるなんて、羨ましい限りだ。
準備室には、私と先生の二人きりだった。独特の古臭くて埃っぽい匂いがするが、そのレトロさがこの先生には合っているような気がした。とても静かで、夕日が綺麗だ。
どうやら、取り巻きもここまでは出入りしていないらしい。何故だかは分からないけど。
「では、このプリントを150部コピーしてもらえますか?」
「分かりました」
仕事が終われば解放される!
私は素直に受け取り、早速作業にかかった。元々、こういう地味な作業は嫌いではないので、ちょっとだけ楽しくなってきた。
部屋の隅にある、古びたコピー機の電源を入れ起動させた。
しっかし、古いな。起動音も雑音が混じっている気がする。
珍しげに眺めていたのが目に入ったのか、先生が声をかけてきてくれた。
「それ、職員室ではもう使えないだろうというのを貰ってきたんですよ」
「そうなんですか」
意外と、物を大事にするタイプなのだろうか。まあ、コピー機なんて高いもの、なかなか買うことはできないだろうし。っていうか、数学ではない準備室にコピー機はなかった気がする……。何かの権力でも働いているんだろうか。考えるのはよそう。なんか怖い。
やっとコピーができる状態になったところで、原稿をセットした。枚数指定を行い簡単な設定を終え、コピー用紙をセットし、印刷ボタンを押した。うん、とりあえず紙が切れるまではこのままで平気だな。
顔を上げたら、先生と目が合った。
「ふう。君は無防備過ぎるようですね」
「はい?」
先生相手に無防備もあったものじゃないと思いますが。
っていうか、何かされるんですか? 淫行教師ですか?
いや、それはない。彼から受ける印象はどちらかというと――。
「別にあのお方の趣味をどうこう言うつもりはありませんが、こんなののどこが良いんだか……」
「はあ?」
さっきから、ボソボソつぶやかれている言葉は、非常に失礼なことを言っているように聞こえるのですが! 気のせいではないようですね!?
ギロッと睨みつければ、薄く笑われた。
「これが終わったら、帰ってもいいですよ。しかし、そんなに嫌そうにされるのも珍しいですね」
どんなナルシストですか!? 人間が10人いたら1人は自分の事を嫌っていてもおかしくなはないとか、そんな謙虚、いやマイナスなことは考えないのでしょうか?
胸の内に全部溜め込みつつ、「やっぱりこの先生とは合わない」と思った。
ガシャーンガシャーンとコピー機がコピーしていく音だけが聞こえている。先生が何をしているのか見る気はないし、見ても楽しいとは思えない。
150部はそんなに多くはないのだが、このコピー機はそんなに早く動けないようで、壊れそうな気配を醸し出しながらコピーを続けている。
最後の一枚が出てきて、やっと終わった。そう思って顔をあげたら、雁野先生がこちらを見ていた。
逆光で、表情が見えない。
「月島さん。もういいですよ。今日はありがとうございました」
感情がこもっていんだか、いないんだか。
「はい。それでは失礼します」
コピーが終わったプリントを机の上に置き、私はその場を退出した。
まあ、そんなに大変なことがあったわけではないし。良かった……のかな?