ある悩ましき朝
目が覚めると、彼は居なくなっていた。
そりゃそうだろう。
窓から光が漏れているのが目に入ってくる。もう太陽が顔を出している時間だ。
寂しいと思うのは筋違いだし、酷いことをしたし、されたのは忘れてはいけないと思った。
でも、やっぱり……。
いつの間にか清められた身体に、少しの違和感を持ちつつ、首筋へと手を伸ばした。
痛みも何も感じない。指に血もついてないので、特に心配は要らないだろう。しかし、昨日は確か首筋に噛み付かれたはずで……。
思い出して顔が真っ赤に染まる。初心者に! 初心者にあんなことする!? 普通っ。
しかも、なんかイケナイ世界を知ってしまったような気もする。
ぬあああ。もうお嫁にいけない!
「とりあえず、用意しなくちゃ」
お風呂に入り、鏡を見る。点々と痣が赤く散り、また顔が熱くなった。
嬉しい、と少し喜んでしまう自分がとても嫌だ。
吸血鬼……ゼロが昨日つらそうな顔をしていたのを思い出しながら、お湯で身体を流した。
やっぱり、卑怯だったよね。そりゃ、怒るよ。
悲しいというよりは、自分が汚すぎて痛い。
「ほんと、ばか……」
ネズミがどうのこうの言っていたことも気になる。
なんで、こんなことになったのだろうか。
分かりきっているのに、答えを明確にしたくない。
私が悪いと、分かっていた。
お湯を水に変えて身体を流せば、少し頭がすっきりした。
しばらく、彼には会えないのだ。その間に、考えよう。
朝食を用意し、身体に流し込む。この行為が、吸血鬼にとって……ゼロにとって、昨晩のような事なのだ。
食事として見られたはずなのに、気持ちよかったことしか思い出せなかった。
あの綺麗な瞳が細められ、三日月を見ているような錯覚に陥った。声が指が、私の中を浸食していく。
って、朝っぱらから、私は何を考えてるんだ!?
頭を抱え、軽く時計に目を移す。そろそろ家を出ないと間に合わなくなってしまう。急がねば!
立ち上がろうとした瞬間、チャイムが鳴った。
こんな朝っぱらから誰だろうと思って、ドアを開けた。
「おはよう、麗」
「浅間さん!?」
「いきなりドア開けるのは感心しないな。ちゃんと確認しないと駄目だ」
「はい……すみません」
浅間さんは、お隣のお兄さんだ。長身切れ長の瞳で、最初会ったときはひどく怖い思いをしたのを覚えている。実際は割と面倒見が良い人で、仲良くなった今では本当のお兄さんみたいに思っている。
そんな浅間さんはたまに顔を出して、夕飯を分けてくれたり、回覧板を回してくれたりと僅かながらにご近所付き合いというものをしている。
手に持った物を見るに、今日は回覧板を回すために来てくれたらしい。
無言のまま、回覧板を渡される。珍しく不機嫌なようだ。
「ありがとうございます。でも、髭ぐらい剃ってから来て下さいよ」
「まあ、いいだろ」
少し気にしたのか、何気なく顎に手を持っていった。浅間さんは乱雑な中に大人の色気を持っている。
羨ましい……。私にもう少し色気とか、美しさとかがあれば! ゼロまでとは言わないけど、そういう要素が欲しかった。
首をコキコキ回しながら、天を仰ぎ、目を逸らされる。
そして、目が合う。
「ここ」
「え?」
浅間さんは自分の鎖骨の上あたりを指しながら、驚きの言葉を発した。
「ここ、キスマークついてるから隠しとけよ」
ニタリと笑われて、はっとした。そういえば、ゼロが昨日……。
「うわっ」
とっさに示された場所を隠した。
「エロイなあ。麗ちゃんは」
「どっちが!?」
ニヤニヤ笑われ、恥ずかしさでいっぱいになる。
「昨晩、激しかったみたいですねえ」
「なっ、ばっ、そんなんじゃないもん」
こんな動揺しながら言っても、女慣れしまくってる浅間さんにはバレバレだとわかっているのだが、否定せずにいられない。
「ちっ、どこのどいつだよ」
ボソッと呟かれた言葉は聞き取れないし、目つきが鋭くなった浅間さんに困惑する。
「あ、あの?」
「学校、遅刻すんなよ」
ふと力の抜けた笑顔を見て油断した。無防備にも口を開けてポカンとしていた私は、次の瞬間、オデコにデコピンを受けた。この衝撃ったら無い。人間というのは、不意打ちに弱いのだ。そんな痛みに震えている最中に、浅間さんは消えていた。
やっぱり、何かおかしい気がする。
「……痛い」