ある回想の日々
隣ですやすやと眠る彼女の髪を撫でる。服を調えながら、咲いた赤い花に軽く口を付けていく。
あの後、疲れてしまったのか、ぐっすり寝てしまった僕の麗。
目元に涙の後が残っていて、とても悲しくなる。
ごめんね、麗。僕の、せいだね。
自分の欲求を叶えるために、彼女を縛り付けるために僕は彼女に触れた。
まだ、人間の言う「繋がる」行為は行ってない。
それは、まだ心のどこかで自制が出来た。っというより、僕は別にそれを必要だと思っていないせいなのかもしれなかった。僕の性欲は、つまり血を吸うことであるから。
彼女を気持ちよくさせる術として、それをするのはまだ早かった。溶けさせて、僕以外受け入れないだけの快楽を与えた後に、することだ。
だから、僕は血を吸い、彼女を快楽の底へと堕としただけに留まった。
「一つになれればいいのに。そうすれば、傷つけないで済む」
むしろ、僕が人間であればよかったのにと何度も思った。
そうすれば、同じものを見て、同じものを食べ、同じように感じることができたはずだ。
きっと彼女もそういう平穏を望んでいるはずだ。
何よりも寂しがりやで、誰よりも優しい。そんな彼女を無理やり手にしてしまおうとする僕は相応しくない。
「僕の、存在がいけない」
君を傷つける僕の存在はいつ頃から成立していたのだろうか。
**
さすがに古過ぎる記憶は劣化して、誕生の瞬間のことを覚えてはいなかった。生物は自分の生まれた瞬間のことなど覚えていないのだから、当然と言われれば当然のことではあるが。
しかし、僕は僕のことをあまり覚えては居なかった。
仲間と言える存在は息絶え、残ったのは僅かな薄い血脈のみだ。
寂しいと感じる心も失い、だが日々に刺激を求めて、僕は知り合いに使い魔を創るように頼んだ。
「貴方に相応しい使い魔を造ってあげるわ」
彼女は僕が出会った中で一番偏屈で、一番美しい存在だ。
腰まで伸びたまっすぐな黒髪は彼女の顔を隠し、しかしその美しさを損なわない。アジアンビューティというのは、彼女のことを言うのだろう。
しかし、彼女はまだ幼さを残していた。一緒に居る使い魔も、彼女を見守っているような温かい笑みをいつも浮かべていた。
「ああ、頼むよ」
僕が喜んでいるのか分からない声を出したら、彼女は真意を分かってくれた。
彼女の黒い瞳は愉しげに瞬かせ、細い手は黒い糸と布を手繰り寄せた。
まるで魔法のように綺麗に縫い合わされていく布と布。何の抵抗も無く通っていく針と糸も芸術のように綺麗だった。
「お茶が入りましたよ」
完璧な執事の格好に動作。彼女の使い魔は彼女をサポートするために、並々ならぬ努力をしたみたいだった。
そんな中で、緑色の髪と同じ色の瞳が彼の異質さを表していた。
「ありがとう、ダン」
「貴女様のためですので」
礼の角度までしっかりしている。よくもここまで、彼女に仕える気になったものだ。
「……」
「ちょっと、その生暖かい目はやめてよ!」
「すまない」
少しムッとした様ではあるが、どちらかといえば照れているのだろう。
彼女は手元に向かってにやりと一度だけ笑い、その後に黒いものを差し出してきた。
「闇を貴方にあげる」
ふっと、微笑んで彼女に渡されたものを抱きしめた。
一見高慢なその少女に似た、だが忠誠心溢れる蝙蝠の縫いぐるみは、今でも僕の隣にある。
「ゼロ様、何を描いてらっしゃるのですか?」
「満月を」
欠けた月も、その光源もほとんど見たことがなかった。
食料を得ようとすれば、満月以外の日の方が簡単だ。だが、気づくと血まみれになっており、本能に呑まれるのを僕は良しとしない。人間に追い立てられるのも面倒だ。
ただ、やはり変化する月を見ていたいという気持ちはある。
狼男は満月に力を得るらしいが、僕は逆だった。満月が僕を捉える。
「満月の絵……風流ですね。流石、ゼロ様です! この満月はまさに……」
「目玉焼きの様?」
羽ばたくのを止めて、床に落ちたフィフに笑いかける。
ちょっと意地悪だったかもしれないな。
「間違ってないよ」
あの綺麗なものが、僕の手の内に留まって居られるとは到底思えなかった。だから、こうやって誤魔化してしか、描くことができない。
僕の周りを再び回り始めた蝙蝠に苦笑を漏らす。
少し不格好な体型だけど、この質感は他の人には造れないんだよね。
そして、遠い昔に決別を果たした友人を思い出した。
あの人は人間だったのだろうか。
大切にしていた使い魔が、自分の力が消えることによって、動かなくなり……
そしてくるった。
「君は、生き続けているのにね」
「は。それはゼロ様のような偉大な吸血鬼の使い魔だからです!」
ある日、いきなりのことだった。
あの人は僕の下へ駆け込んできて、フォフを見た。
フィフはいつものように飛び続けていて、僕の血を混ぜたせいだと思ったのか、僕の血を手に入れるために裂かれそうになった。
でも、彼女はそれをできなかった。
僕が強いということも、それをしても無意味だということも分かっていたのだ。
そして、僅かばかりに彼女は僕に友情を感じていた。だから。
彼女は孤独を抱えて、どこかに消えた。
「生命は有限なのに、どうして僕は無限に続くのだろう」
「……ゼロ様は難しいことをお考えなのですね」
「そうだね。難しいけど、知りたいと思わないかい?」
なぜ生き、なぜ死ぬのか。
通り過ぎてきた生と死を思い、ただ疑問に思う。
――僕の始まりは、いつだったのだろう
そんなこと、無意味だ。
「答えが、分かったんだよ」
初めて彼女に出会った散歩の帰りに彼に告げる。
少し弾んでいた声に、フィフは怪訝そうな顔をしている。
「何のですか?」
僕がここにあるのは……月を手に入れるため。
「僕が存在していたのは、彼女に会うためなんだ」
彼女を傷つけてしまっても、欲しいと思う気持ちを止められることなんてできるのだろうか。
少なくとも、今の僕には無理だと思った。こんなに何かを欲するのも初めてだから、加減することも良く分かっていない。
「欲しい。欲しいんだ」
だから、逃さない。僕の満月。