北の湖畔
登場人物
元緒…………異国の方士。
如羅…………鮮卑の部族の娘子。
投鹿侯…………鮮卑の部族の大人(部族長)。如羅の夫。
李平…………如羅の父が連れて来た漢人の使用人。
破多羅…………如羅の母。
檀石槐…………如羅が産んだ男児。
陳正…………北の湖畔で暮らす李平の知人。
季節は、冬に入ろうとしていた。
北へ向かう李平に、檀石槐が付いて往くことになった。
檀石槐は、李平が定期的に不在になる期間があるのを知っていたが、今回はそれに伴うことを許されたようだった。
「道中は李平の指示に従い、冬の大地をしっかり見聞しておいで」
屈んで目線を合わせた如羅は、獣毛で覆った幘を檀石槐に被せた。
「間に合った、間に合った。孫さんや、これを羽織ってお往き」
破多羅が持ってきたのは、獣毛を編み込んだ外套だった。胡服の上からそれを着せると、如羅と破多羅は満足げに笑った。
「随分と勇敢な戦士に見えるわね」
「ちょっと大きいけれど、来年も使えそうだ」
檀石槐は照れ笑いを浮かべたが、獣毛の幘と外套を纏った躰は、芯から温まるようだった。その姿で穹廬を出た檀石槐を待っていたのは、二頭の馬と李平だった。李平も檀石槐と同じような格好をしている。
「これはこれは、孫さま。立派な戦士の出で立ちですな。では、そろそろ参りますぞ」
李平も檀石槐も、裸馬に跨った。必要な荷は馬体に括ってある。
「宜しくね、李平」
寒そうにしている如羅の声に、李平は頷き返すと、掛け声と共に馬を走らせた。
「往って参ります。母さま、婆さま」
手を振る如羅と破多羅に、檀石槐は笑みを返すと、李平を追うように馬を駈った。
空は、澄んでいる。
檀石槐は、李平と並ぶようにして茶色の草原を駈けた。幾つもの集落を通過した。点在する穹廬の周辺では、牛や羊が放たれている。
「孫さまと同じくらいのお子ですな」
隣で馬を駈けさせながら、周囲に眼を遣っていた李平に促されるように、檀石槐も広大な草原に眼を凝らした。
成年者に混ざり、牛や羊を追う檀石槐と同じような年頃の姿があった。長い棒のような物を両手で持ち、両膝のみで馬を繰りながら追う子や、矢の先に重しを付け、家畜が向かう先へ騎射を試み、進む方向を自在に操るような子も居た。
「世は空のように広いのだね、李平」
同年代の働きっぷりに、檀石槐は瞳を輝かせた。
「そうですな。世は空のように広いですな。そして、大地も広い。私はこの大地を自由に駈けるのが大好きなのですよ、孫さま」
「僕も、大好きだ」
馬上の李平は、檀石槐に破顔した。
そのような李平も、剣術の指南となると厳しかった。
陽が高いうちに穹廬を張った。檀石槐は、暗くなるまで棒を片手に李平へ挑んだ。同じような棒を持った李平に足元を掬われ、檀石槐は宙を旋回し、何度も地に背を打ち付けた。それでも、檀石槐は繰り返し李平に挑んだ。
寒さを凌ぎ、穹廬の中でその日に狩った獲物や、酪を干したものを食しながら、檀石槐は剣術の極意のようなものを李平から聞かされた。
最初はよくわからなかったが、聞かされたことを意識しながら、何日も李平との対峙を繰り返した。檀石槐は、剣術の機微が身に備わっていく手応えを感じていた。
「孫さまは、もっともっと強くなりますぞ」
李平は就寝の前に、必ず檀石槐にそう云った。
辺りに穹廬を見ることはなくなっていた。
昼間は晴れていても、夜になると吹雪くこともあった。朝に目覚めると、草原が銀世界になっていることもあった。薄っすらと敷かれたような雪でさえ、一日中溶けないような日が多くなってきた。
辿り着いたのは、大きな湖の畔だった。
「こんな景色があったんだね」
檀石槐は、沈む夕日に照らされた、湖畔の雄大な景色に心を奪われた。
檀石槐の後方に馬を寄せた満足げな李平も、斜陽へ眼を凝らしていた。
瞳を輝かせた檀石槐は、辺りを一望した。
近くに集落があるようだった。穹廬ではなく、石を積み上げた作りの建物に見えた。数は少ないようだったが、牛や馬の鳴き声も聞こえていた。
「さあ、孫さま、此処が目的の地です。彼方の集落で、暫く厄介になりましょう」
李平が檀石槐を促した折、近くの一棟から姿を現し、此方へ歩み寄る者があった。獣毛に覆われた幘を被り、胡服の上から毛皮を纏っている。貌の半分が黒い髭で覆われているが、笑みを浮かべていることが見て取れた。
「そろそろお見えになる頃と思っておりましたぞ、李平どの」
此方に歩を寄せながら云った男は、李平を知っているような口振りだった。李平と同じほどの年齢に見える。
「おお、陳生どのも元気そうで何より」
云った李平は、下馬して陳正と呼んだ男の許へ歩を進めた。
檀石槐も倣ったように下馬すると、大人しく佇立した。
何やら李平と陳正が話し込んでいるようだった。不意に二人が檀石槐に眼を遣った。李平が戻って来ると、また馬上の人となった。
「さあ、孫さま、すぐ其処まで参りましょう」
「ささ、檀石槐どの、此方ですぞ」
陳正が檀石槐に手招きすると、踵を返して建物の方へ向かって往った。
陽が沈み掛けている。間もなく、暗くなりそうだった。
李平と檀石槐は、石積みの建物の側にある小屋に馬を繋ぐと、陳正に建物の中へと招かれた。
中は温かかった。壁際のひとつを石で囲い、火が焚かれている。上に登る煙は、屋根から外へ出ているようだった。外から見るより広い室内には、複数の寝台のほか、中央に配された卓を四つの胡床が囲っていた。火が焚かれている脇には、料理をするような場所が確保されている。
陳正は、室内に入ってきた檀石槐を興味深げに見遣った。
「はあ、何とまあ、如羅さまのお子ですか。眉などそっくりですな。見たところ、既に剣術を学ばれておりますな。いやはや、頼もしい限り。私のことは、湖畔の陳正とでもお呼びくだされ」
幘と毛皮を脱ぎながら、陳正は驚いた様子で笑みを浮かべていた。
「初めて嬢さまを此処へお連れした年齢より大分早いが、これも奥さまと嬢さまの御指示。それだけ、孫さまを可愛がっていらっしゃる」
李平も外套を脱ぎながら、満足げな笑みを陳正に返した。
檀石槐は、畏まった様子で幘と外套を脱ぐと、李平に倣って壁際の杭にそれを掛けた。
「ささ、檀石槐どの、長旅お疲れでございましょう。どうぞ、ゆっくりお寛ぎくだされ」
檀石槐は、許可を得るように李平に眼を向けた。
李平は笑顔で頷くと、檀石槐を室の中央にある胡床へと誘った。
陳正は、夕餉を振舞おうと仕度に入っていた。
檀石槐には、ゆっくり寛ぐ暇などなかった。
その間、近隣に住まう者たちが代わる代わる訪れ、李平に挨拶すると、檀石槐を見ては陳正と似たようなことを云っていた。どれも陳正に手土産のような物を渡して帰る。
室内に充満した香ばしい匂いが、檀石槐の食欲をそそっていた。
「皆、変わりないようで良かった。俺も歳を取った。北の寒さが身に沁みるようになったよ、陳正どの」
来訪者が一段落すると、李平は陳正に出された白湯を啜った。
檀石槐は、李平の髪と髯に白いものが多くなっていることに気付いた。考えてみれば、もう少しで耳順(六十歳)に達する年齢だった。
「何を云われる、李平どの。自然の厳しさが身に沁みてこそ生きている証。漢に居っては、自然の厳しさが身に沁みる前に、税の取り立ての厳しさに心が折れる」
そう云いながら、陳正が運んで来たのは、骨が付いたまま焼かれた肉と、丸焼きにされた魚だった。次には、干した野菜を水で戻し、酪で煮込んだ汁物も運ばれてきた。




