漢と云う国
登場人物
元緒…………異国の方士。
如羅…………鮮卑の部族の娘子。
投鹿侯…………鮮卑の部族の大人(部族長)。如羅の夫。
李平…………如羅の父が連れて来た漢人の使用人。
破多羅…………如羅の母。
檀石槐…………如羅が産んだ男児。
「不思議なこともあるものねえ。あなたの父が夢の中で騒ぐのも無理ないわ」
胡床に座り、編み物をしている破多羅の側で、床に腰を下ろした如羅が、赤子に乳を与えている。如羅は、これまでの経緯を伝えていた。
李平は、母娘の会話を聞きながら、慣れた手つきで夕餉の後片付けをしている。
「それで、投鹿侯とはしっかり離別してきたの?」
「頼まれても戻らないと、啖呵を切ってきたわ」
破多羅は、手許から貌を上げると破顔した。
「ならば良し。流石は我が娘」
破多羅は、再び視線を手許に戻すと、編み物に精を出しながら続けた。
「その子に名は付けたの?」
鮮卑では姓がない。これまでの大人や勇者の名を一部貰い、子に名付けていた。
「良い弓主、強い意志、偉大な領主、そういう願いを込め、檀石槐――。如何かな?」
如羅は、赤子に乳を与えながら、澄んだ瞳で破多羅を仰ぎ見た。
破多羅は、眼を細めて如羅を見返した。
「檀石槐――。良い名ね」
「嬢さま、素晴らしい名を思い付きましたな」
李平も満面の笑みを如羅へ向けた。
「じゃあ、決まり。立派な戦士に育て上げるわよ。ね、檀石槐」
如羅は、懸命に乳を吸う赤子の檀石槐に、愛おしげな笑みを向けた。檀石槐が、微笑したようだった。
移り往く季節に合わせたように、鮮卑の部族は遊牧しながら、獲物を狩り暮らした。その間、檀石槐はすくすくと成長した。
檀石槐が歩けるようになると、如羅は弓の玩具を渡した。檀石槐を前に座らせ、騎馬で原野を疾駈することも繰り返した。
李平は手頃な棒を与えると、剣術を仕込んだ。李平は漢にいた頃、千人を超える弟子を抱えた剣術師範だったと云う。如羅も幼い頃に李平から剣術を教え込まれていた。
破多羅は手芸に勤しむ傍ら、甘え来る檀石槐に鮮卑の英雄たちの話を聞かせた。
檀石槐が八歳になる頃には、騎射ができるようになっていた。それも裸馬を疾駈させながら、左右どちらからでも矢を放つことができた。
剣術は、無駄な動作が多かったが、李平が息を飲むほどの一閃を見せることがあった。
いつ頃からか、破多羅は愛くるしい孫の檀石槐を「孫さん」と呼ぶようになり、李平もそれに倣って、「孫さま」と云うようになっていた。
そのようなある日、夕餉の後に編み物をしている破多羅に檀石槐が尋ねた。
「婆さま、南から鮮卑の地へ来る者には、二種あるのですか?」
「ん? 孫さんは、如何してそう思うのかい?」
穹廬の中で種の仕分け作業をしていた如羅と李平も、二人の会話に耳を傾けた。
「亡命者と呼ばれる者たちは、慈悲を請うような眼をしておりますが、戦士たちが捕らえてきた者は、蔑むような眼で我らを見るからです」
如羅と李平の動きが止まった。
破多羅は、編み物の手を止めると、檀石槐に向き直り、涼しげな眼差しを向けた。
「孫さんや、南には、漢という大きな国があるのを知っているね?」
檀石槐は、こくりと頷いた。
「漢は、帝という偉大な統治者が統べる国だった。でも、今ではその帝だけではなく、中枢にある者も私利私欲に塗れ、権力を専横し、善良の者を屠り、民から財を貪り取る国となってしまった。その難を避け、一縷の望みを抱き、北の大地へ逃れ来るのが亡命者。鮮卑に慈悲を請うのも当然ね」
「…………」
「そして、漢の民族は、自分たちをこの世で一番の民族と考えている。だから、漢から長城の外にある私たち鮮卑族は、人の形をした人でないもの、下等の種族として見ている。捕虜となった漢の者が、野蛮なものでも見るような眼付きで私たちを見るのも当然」
檀石槐は、考え込むようにしながら云った。
「鮮卑の民も、漢の民も、同じ人ではないのですか?」
破多羅は、微笑んだ。
「孫さんの云うとおり、同じ人だね。けれど、住んでいる処の違いだけで、同じではないと思っている人も居るの」
「人は、平等ではない、ということでしょうか?」
破多羅は、瞑目して微笑を湛えた貌を左右に振った。眼を開けた破多羅は、真摯な瞳で檀石槐を見遣ってから続けた。
「何処に住んでいようと、人は平等。けれど、住んでいる処を統治する者にその考えがなければ、人は平等にならない」
檀石槐の貌に、ぱっと明かりが燈ったようだった。
「ああ、なるほど。漢の帝は、漢の民族と鮮卑の民族を同じ人だと思っていない。だから、いつも漢人は、鮮卑に不利な条件で交易しようとするんだね。それに怒った戦士たちが長城を越え、漢に侵攻するのも当たり前か」
「私は漢人ですが、鮮卑の部族も、孫さまのことも大好きですぞ。孫さまに嫌われてしまっては困りますなあ」
種の仕分け作業で屈んでいた李平が、身を起こして檀石槐にとぼけた貌をしてみせた。
「李平のことは大好きだよ。全ての漢人が、李平のようだと良いのに」
「これはこれは、有り難き幸せ」
李平は、檀石槐に向かって慇懃に頭を垂れてみせた。
慈しみを込めた細い眼で、破多羅は檀石槐を見遣った。
「良いか、孫さん。勇敢なだけでは立派と云えないよ。勇敢で、部族の民には平等、公平。このような者が、やがて大人に推戴される」
澄んだ瞳でこくりと頷く檀石槐に、破多羅は破顔となってその頭を撫でた。
それを見ていた如羅と李平は、笑みを浮かべると、再び種の仕分け作業に精を出した。




