知られざる過去
登場人物
〈漢〉
霊帝…………漢の帝。
竇武…………漢の大将軍。宦官により自害に追い込まれる。
〈鮮卑〉
檀石槐…………鮮卑の部族の大人。各部族の大人を束ねる鮮卑の魁。
李平…………檀石槐に仕える漢人の使用人。
趙娥…………檀石槐の妻。漢人。捕虜の収容地を統括する。
破多羅…………檀石槐の祖母。巫者のような特性を持つ。
其至鞬…………破多羅の夫。生前は鮮卑の部族の大人。
如羅…………檀石槐の母。其至鞬と破多羅の娘。妖しの雷獣により檀石槐を身籠る。
和連…………檀石槐と趙娥の子。
投鹿侯…………鮮卑の部族の大人。如羅の元夫。漢の王衛により討たれる。
〈独立勢力〉
公孫延…………幽州遼東郡以東から朝鮮半島北部の楽浪郡を本拠に漢から独立する。
漢の新しい帝は、霊帝と云った。第十二代皇帝である章帝の玄孫に当たる者だった。
その霊帝を擁立したのは、大将軍の座に就いた竇武だった。
竇武は、鮮卑の動きを研究していた。明らかに、中央から搬送される物資が多い地にばかり侵攻している。漢の内部に、鮮卑と繋がる者が居ることは確かだった。その者を突き止めようとしていた。
同時に、竇武は、大将軍として政権を磐石にしようと宦官の排除に画策した。
しかし、その計画は宦官に漏れ、竇武は自害に追い遣られた。大将軍の地位に就いて、二年も経っていなかった。鮮卑との繋がりに、嫌疑を掛けられる者は居なくなった。
そして、再び漢の帝は、宦官の傀儡と化した。
竇武の死と、暗愚な霊帝の話は、当然として公孫延の耳にも入った。公孫延は、これを契機と捉えた。
遂に、幽州遼東郡以東から朝鮮半島北部の楽浪郡を本拠とし、実質的に漢からの独立を図った。高らかに王を僭称するようなこともしない。公孫延にしてみれば、漢は、そのようなことをする価値もない国だった。
その公孫延からは、これまでどおり鮮卑へ漢の情報が齎されていた。
北辺に侵攻した檀石槐は、黒雷に跨り、東の空へ眼を凝らした。綿のようなひとつの雲が、西から東へゆっくりと流れている。その果てには、野望を実現し、一国の王のようになった公孫延の地があった。
雲が流れるように、時も流れている。
檀石槐の部族の許では、李平が衰弱していた。一日中、寝床から起きて来ない日が増えていた。無理もない。既に八十を数える老夫だった。北の収容地を含む漢人の捕虜の取り扱いは、既に趙娥が引き継いでいる。
八十を超えていたのは、破多羅も同じだった。穹廬の奥の胡床に腰掛け、編み物をしながら、静かに李平を見守る日々だった。
檀石槐は、李平と破多羅の居る穹廬に顔を出した。
「これは、これは、孫さま」
寝床から上半身を起こし、白湯を飲んでいた。小さく萎んだような李平が、弱々しい笑みを浮かせていた。
檀石槐は、寂しさを覚えた。剣術の師だった。あれほど強かった李平が、今では押しただけで倒れてしまいそうなほど老いていた。
「元気そうだな、李平」
檀石槐は、寂しげに微笑んだ。もう、長くはないだろう――。そう思った途端、無理に笑みを浮かばせていた。李平の側に腰を下ろした。
「何とか、今日まで生きてこられました。これも其至鞬さま、破多羅さま、嬢さま、そして、孫さまのお陰でございます」
「礼など要らぬ。それよりも、躰を労わり、益々長生きして、俺を叱咤してくれ」
「嬢さまが抱いてこられた御子が、随分と御立派になられた」
李平は、檀石槐に眼を細めた。
「私は、充分に生きました。孫さまと出会い、更に充実した人生となりました。私の剣術を、鮮卑の王に紡げたことが、何よりも嬉しいのです」
李平は、破顔した。厳しく剣術を指導した後にいつも見せた、あの優しい笑みだった。
奥の破多羅にも、微笑が浮いたようだった。
「ささ、孫さま、私になどかまっている場合ではありません。次の仕事に向かわれませ」
李平に追い出されるようにして、檀石槐は穹廬を後にした。
明くる日――。李平が、眼を覚ますことはなかった。破多羅に呼び出され、檀石槐は穹廬で伏せる李平に眼を落とした。既に穹廬には、如羅と趙娥、九歳になった和連も居た。
「有り難いことだ。我らによく尽してくれた。孫さんや、李平の背を見てみるがよい」
奥の胡床に座した破多羅が、編み物をしたまま檀石槐に促した。
ゆっくりと李平の躰を起こした。軽かった。少し、着物を開けさせ、その背を見た。檀石槐は、言葉を失った。夥しいほどの傷痕だった。
「昔、鮮卑の子がひとり、北辺の漢人に捕えられた。我が夫の其至鞬は、その子を救いに幾度も北辺に侵攻したが、見付けられなかった。その子は、家畜のように扱われた。それを哀れに思ったある漢人が、その子を逃がした」
「…………」
「鮮卑の子を逃がした漢人は、罪人の咎で刑罰を受けた。鮮卑に戻ったその子は、それを其至鞬に伝えた。我が夫は、鮮卑の子を逃がした漢人を捜しに、一群を引き連れ北辺に侵攻した。そして、見付けて救った」
「婆さま……」
破多羅は、編み物の手を止めると、檀石槐を静かに見遣った。
「そう。鮮卑の子を救ったのは、李平。そして、李平に救われた鮮卑の子は、投鹿侯。如羅の元夫じゃ」
檀石槐は、横たわる李平に眼を遣った。その死面には、少しだけ微笑が浮いているように見えた。
漢人の李平は、鮮卑の子を援けたがために、漢に虐げられた。そして、鮮卑の子に愛を与え続けた。最後は、幸せそうに死んでいった。
何かが、腑に落ちなかった。
檀石槐は、眉間に皺を寄せ瞑目した。憤りを覚えたのは、やはり、漢に対してだった。
檀石槐による漢の北辺への侵攻は、止むことを知らなかった。




