母の正夢
登場人物
元緒…………異国の方士。
如羅…………鮮卑の部族の娘子。
投鹿侯…………鮮卑の部族の大人(部族長)。如羅の夫。
李平…………如羅の父が連れて来た漢人の使用人。
破多羅…………如羅の母。
草原に吹く風は、渇いている。
如羅の部族は、緩緩と南方へ移動していた。
それと共に、如羅の腹は日増しに大きくなった。妖しの雷獣をその身に宿してから十月もすると、方士の元緒が云っていたとおり、如羅はひとりの男児を生んだ。
穹廬の中で、生まれて間もないその児に乳を与えていた折だった。
突如、その扉を乱雑に開け放ち、ひとりの壮健な男が入って来た。被った幘の下から鋭い眼付きを覗かせ、胡服の上から狼の毛皮を纏い、大きな荷を背負っている。
その粗野な男は、背負った荷を放り投げると、当前のように奥の胡床に腰掛け、ひとつ大きな溜息をした。表情には疲労の色が浮いている。
「お帰りなさいませ、投鹿侯さま」
微笑を浮かべ、赤子を抱きながら云った如羅に、無骨な投鹿侯の視線が向けられると、その眼は大きく引き剥かれた。
投鹿侯は、この部族の大人(部族長)であり、如羅の夫だった。南方にある漢の国の北辺、長城の内側に勢力を広げる南匈奴との盟約により、三年の兵役を終えて帰還したところだった。
戦の匂いを沁み込ませた胡服の投鹿侯は、如羅との再会の喜びも忘れ、赤子を凝視した。
「……何だ、其れは?」
赤子を抱えた如羅は、投鹿侯に向き直ると、嬉嬉とした。
「聞いてくだされ、投鹿侯さま。ある日、牛の搾乳に外へ出ると、雷鳴が轟いたのです」
如羅は、投鹿侯に身を寄せて続けた。
「天を見上げると稲妻が口に入り、思わず飲み込んでしまいました。すると、どういう訳か身重となり、十月でこの子が生まれたのです……」
投鹿侯は、冷ややかな眼差しで如羅を見遣ったが、それにも構わず如羅は語気を強めた。
「この子は、きっと、非凡な力を持っているに相違ございません」
如羅は、穏やかな笑みを赤子に向けた。
「変事はなかったかと、問うのも無駄なようだな」
投鹿侯は、胡床から腰を上げると、佩びていた剣を抜き放った。
「――――⁉」
「戯言は止せ。主が不在の折に、姦通しおって」
投鹿侯は、貫くような鋭い視線を如羅へ放った。
「誰人のかもわからぬ赤子を育てる気はない。別の男に阿ったお前にも用はない。さっさと此処から出て往け。然もなくば二人諸共、斬る!」
如羅から笑みが消えていた。如羅は、投鹿侯から視線を逸らさず、赤子を守るように背を向けた。
「私は、姦通などしておりませぬ! この子は、天より授かりし御子」
如羅は、凛とした態度だった。
「戯言は止せと云っている」
投鹿侯は、ゆっくりと剣を振り被った。
南匈奴と共に戦場を駈け巡り、数多の命に手を掛けてきた投鹿侯に、如羅は本気の色を見て取った。
「怒りが頂点に達する前に、元の部族へ還れ。大人たる者が妻を手に掛けては、聞こえが悪い」
「……わかりました」
強い意志を込めた眼付きで、如羅は投鹿侯に一礼した。すぐさま荷物を纏め、赤子と共に穹廬を出た。その荷物の中には、滅魂の剣もあった。
投鹿侯は剣を鞘へ収めると、鉛のような躰を胡床へ預けた。
「頼まれても、戻って来てやんねえかんな――‼」
外から聞こえてきたのは、如羅の怒声だった。
投鹿侯は、生気のない顔を上げると、穹廬の中を見遣った。眼に入るもの全てが整理、整頓されている。考えてみれば、家畜の牛や馬もしっかりと飼育されていたようだった。
投鹿侯は、肩を落とした。更なる疲労が襲ってきたのを覚えた。
如羅がその足で向かったのは、自分が生まれた部族の邑落だった。
鮮卑の部族は幾つかあったが、どの部族も冬が近付くにつれ南下する。
如羅が育った部族は、この時期、幽州代郡高柳県の北三百余里に位置する弾汗山の麓に穹廬を展開するのを常としていた。
如羅にとって、生家とも云える穹廬を探すのは容易だった。それは、部族の中でも一際大きな穹廬だった。
その穹廬の側で、放牧された羊を騎馬で追っていたのは、知命の頃の男だった。黒髪を白い巾で結い、顎先に一寸ほどの髯を蓄えている。
赤子を抱き、穹廬に歩を寄せる如羅に気付いたその男は、馬を寄せて下馬した。
「嬢さまではありませぬか。如何なされた?」
驚きの表情を晒した胡服を纏った細身の男に、如羅は微笑を湛えた。
「久しぶりね、李平。元気にしていた?」
「私も奥さまも元気にしてございますが……その赤子は?」
眼を剥いたままの李平は、如羅と赤子を見比べた。
李平は、如羅が生まれる前から仕える漢人の使用人だった。いつぞや、如羅の父が漢から連れて来た者で、今や鮮卑の暮らし振りにも馴染んでいた。
如羅は、満悦の笑みで云った。
「私の子よ。天より授かったの」
「……天から……でございますか。なるほど、道理で健やかな寝顔でございますな」
如羅の人となりを知る李平は、妙に納得した様子になると、優しげな笑みを浮かせた。
「ささ、奥さまも中に居ります。ゆっくりされるが宜しい」
李平の笑みに、如羅は懐かしさと安堵を覚えると、促されるまま抱いた赤子と穹廬の中へ身を移した。
「奥さま、嬢さまがお見えですぞ」
広い穹廬の中には、胡床に腰を下ろし、編み物をしている淑女の姿があった。李平と同じほどの年齢に見える。如羅の母親、破多羅だった。
「只今帰りました、母さま」
如羅の声に破多羅は顔を上げると、にことした笑みを向け、すぐさま手許へ視線を戻した。
「夢の中で、我が夫が騒いでいたとおりになったわ」
「父さまが……?」
如羅の顔に怪訝の色が浮いた。
如羅の父は部族の大人だったが、如羅が生まれて間もなく世を去っていた。
「近頃、頻繁に夢に出てきてね。如羅が赤子と共に還ってくると騒ぎ立てるのよ」
破多羅は、編み物を置くと腰を上げ、如羅へその身を寄せた。微笑を浮かべ、眠る赤子に細い眼を向けている。
「夢の中で貴女の父は、懇願するように云っていたわ」
「な、何て……?」
如羅の眉間の皺が、一層濃くなった。
「孫を大切に育てて欲しい――って」
如羅の貌には、再び安堵の色が浮かんだ。
「あれほど戦に明け暮れ、私たちにも厳しかった人が、縋るようにお願いするんですもの。随分と滑稽だったわ」
破多羅は、如羅から赤子を慎重に抱き寄せた。
「どうやら、夢のお告げは本当だったみたいね。大丈夫。この子は、此処で育てましょう」
「母さま……」
笑顔となった如羅は、膝から崩れ落ちると、よよと涕泣した。
「ささ、嬢さま。此方へお座りなさい。今、温かい酪を入れましょう」
如羅の後方で佇立していた李平が、泣き崩れた如羅の肩に手を寄せ、ゆっくりと胡床へ誘った。
「詳しい話は後ほど聞きましょう。それにしても、懐かしい重さねえ。李平も見てみなさい。私の孫の寝顔ときたら、驚くほど可愛らしいわ」
屈託のない笑顔の破多羅は、何やら自慢げだった。
「奥さま、私にも嬢さまのお子を抱かせてくだされ」
温かな酪の準備で、忙しそうにした李平にも笑みが浮いていた。




