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魁の紡ぎ  作者: 熊谷 柿
第2幕 蠢動の列国
25/42

弔いの黒矢と青天の霹靂

登場人物

〈漢〉

桓帝かんてい…………漢のみかど

梁冀りょうき…………漢の大将軍。

唐衡とうこう…………漢の小黄門史しょうこうもんり。桓帝に仕える宦官かんがんのひとり。

張奐ちょうかん…………漢の歴戦の将軍。使匈奴中郎将しきょうどちゅうろうしょう

王衛おうえい…………張奐に仕える勇将。

公孫延こうそんえん…………玄菟げんと郡の官吏かんり

南匈奴みなみきょうど

台耆だいき…………南匈奴の部族の大人たいじん(部族長)。張奐により討たれる。

伯徳はくとく…………南匈奴の部族の大人。張奐に投降する。

居車児きょしゃじ…………南匈奴の単于。

屠特ととく…………十にも満たない居車児の子息。

鮮卑せんぴ

投鹿侯とうろくこう…………鮮卑の部族の大人。王衛により討たれる。

如羅じょら…………投鹿侯の前妻。檀石槐だんせきかいの母。(投鹿侯と檀石槐に血の繋がりはない)

檀石槐…………鮮卑の部族の青年。如羅の息子。部族より大人に推戴される。滅魂の剣の使い手。

李平りへい…………檀石槐に仕える漢人の使用人。

破多羅はたら…………如羅の母。檀石槐の祖母。

其至鞬きしけん…………破多羅の夫。如羅の父。生前は鮮卑の部族の大人。

素利そり…………鮮卑の部族の大人。檀石槐の同志。点魂の剣の使い手。

陳正ちんせい…………北の湖畔で暮らす李平の知人。漢からの亡命者。捕虜となった漢人を収容する施設の監督者。

厥機けつき…………鮮卑の部族の大人。素利の兄的存在。

弥加びか…………鮮卑の部族の女大人。剣術の手練者てだれ

成律帰せいりつき…………素利の弟。

慕容ぼよう…………鮮卑の部族の大人。檀石槐の同志。朱矛の使い手。

宴茘游えんれいゆう…………鮮卑の部族の大人。檀石槐の同志。大弓の使い手。

置鞬落羅ちけんらくら…………鮮卑の部族の大人。宴茘游の副官。年長の歴戦の戦士。

闕居けつきょ…………鮮卑の部族の大人。慕容の副官。年長の歴戦の戦士。居車児により討たれる。

趙娥ちょうが…………漢の議郎ぎろう趙彦ちょうげんの次女。檀石槐に拉致されるが伴侶となる。

 翡翠ひすいの耳飾りが揺れた。素利そりの耳に、馬群の駈ける音がかすかに聞こえた。辺りを見回した。東南の方角、三百間(五百五十m)ほど先に、本陣を目指して駈ける南匈奴みなみきょうどの一群があった。先頭を駈けているのが、居車児きょしゃじだろう。

檀石槐だんせきかい!」

 素利は、指差した。それを見て取った檀石槐は、馬腹を蹴って疾駈しっくした。

弥加びか! 厥機けつき! 檀石槐を援護して!」

 素利の掛け声に、弥加と厥機も檀石槐を追った。

 それに鮮卑せんぴの戦士たちも後続する。

 檀石槐は、我を失ったように居車児に迫った。その距離、二百間。馬も疲れが見えている。それでも馬腹を蹴った。百間。居車児の背を追う形になった。接近に気付いた南匈奴の兵が騎射で応戦する。弥加と厥機に続き、戦士も騎射の雨を降らせる。居車児の背まで四十間に迫った。

 馬も限界に近い。檀石槐は、弓嚢きゅうのうから弓を手に取った。胡禄ころくから一矢を抜き取り弓につがえる。黒矢こくし。一連の動きに一切の無駄がない、流麗な動作だった。居車児を穿うがつ。黒矢に己の意思を乗せた。虚空こくうを走ったのは、黒い閃光だった。

「がっ!」

 突き立った。居車児の右肩、肩甲骨の辺りだった。振り返った居車児の眼は、弓主を探していた。檀石槐と眼が合った。居車児はそのまま張奐ちょうかんの本陣へ駈け続けた。

 檀石槐は、馬の速度を緩めると、馬首を慕容ぼよう宴茘游えんれいゆうの許へ巡らせた。

 いつの間にか、張奐は、胡床こしょうから腰を上げていた。てのひらが汗で濡れていることに気付いた。前方には、歩兵が壁のように隊列を組み、張奐の周りでは、盾兵がその身を警護していた。

「居車児が鍛えた兵も、鮮卑を前にすればかすんで見えるな」

 誰人だれにということもなく、張奐は云った。其処そこへ、重騎兵を率いた王衛おうえいが帰還した。全身斬り傷だらけだった。此処ここまで追い込まれた王衛を見るのは初めてだった。加えて、帰還した重騎兵も半数に満たなかった。

「どうだった、王衛?」

 張奐は、微笑みながら尋ねた。

「奴等には兵法などありません。ですが、一人ひとりが、率いる大人たいじんの背を見て、呼吸を計るように動いています。そして、卑怯ひきょうな手も恥としない」

「お前を其処そこまで追い詰めるほどの者が、鮮卑に居たとはな」

「九死に一生を得た心地です。死んでいてもおかしくはありませんでした」

 張奐は、労いの笑みを王衛に向けた。南匈奴も帰還した。張奐の前に姿を現したのは、兵に左肩を担がれた居車児だった。右肩に黒い矢を突き立てている。

「お前も九死に一生を得たようだな、居車児。それにしても、突き立っているのが黒い矢とは、珍しいな」

 たちまち居車児の顔色が変わった。力任せに突き立った黒矢を引き抜くと、居車児は驚愕きょうがくした。

「鮮卑の……黒矢だと? かつての鮮卑の大人たいじん、鬼神と恐れられた其至鞬きしけんが多用したと聞く、必中必殺を意味する矢だぞ。俺は、そんな奴を相手にしていたのか……」

 居車児は、苦々しい顔で張奐をにらみ付けた。

 それを気にも留めず、張奐は、涼しげな面持ちだった。

「早く手当してやれ。弓が引けなくなるぞ」


 檀石槐と素利は、慕容と宴茘游の一群と合流した。

 全身が斬り傷だらけの慕容は、疲弊ひへいしていた。それでも、馬から降りることなく涕泣ていきゅうしている。慕容にとって闕居けつきょは、二人とない副官だった。

 依然として、張奐の漢軍と檀石槐の鮮卑は、六十間(約百十m)ほどの距離でにらみ合っていた。

 檀石槐は、泣き止みそうもない慕容を見遣ってから云った。

「宴茘游」

「何だ?」

 宴茘游も、疲労が浮いたかおで駒を寄せた。

「腹の虫が治まらない。本陣に矢を放ってくれ。続け様に俺もつ」

「やっとお前に、この大弓の威力を見せる時が来たようだな」

 宴茘游は、不敵な笑みを浮かべると、背から朱色の大弓を取り出した。胡禄ころくから引き出した長い矢をつがえる。弓を握る位置が、中央よりやや下だった。弓が大きくしなる。

 檀石槐も黒矢を取り出し、矢に番えた。くつわを並べた二人は、狙いを定めた。

「射て!」

 宴茘游は、放った。

 閃光が走ったようだった。放たれた宴茘游の矢は、虚空こくうを裂いて飛んだ。

「矢だ! 矢が来るぞ!」

 張奐の前で、整然と隊列を組んだ歩兵たちが、波のように割れた。

 ダンッ――と、音を立て、張奐の周りを囲んだ兵の盾を貫いた。矢の半分ほどのところで止まっている。

「お、おお……」

 驚嘆の声を上げた盾兵たちが、その矢を見ようと身を傾けた刹那せつなだった。

 ドッ――。

 王衛と居車児は、眼をいて息を飲んだ。

 張奐は、思わずからだが硬直していた。血が流れている。左の頬と耳が切れていた。ゆっくりと振り返った。ひとりの盾兵の眼に矢が突き立ち、頭を貫いている。その兵は、ゆっくりとるようにしてたおれた。突き立った矢は、黒かった。

 慌てた盾兵たちが、張奐を守るように盾をかざした。

 張奐は、怒りで面を朱にした。

「漢将、張奐! 何故なぜ、腐った国に仕えている?」

 大音声だいおんじょうが聞こえた。若者の声だった。

 張奐は、盾兵を退かせた。歩を進めると、割れた歩兵の間を歩き、前へ出た。遠くてよく見えなかったが、精悍せいかんかんばせの持ち主のようだった。鮮卑のかい、檀石槐だとすぐにわかった。

「外敵を蹴散らし、民を安寧あんねいに導くのが我が使命!」

「民を安寧に導くというのであれば、お前の本当の敵は塞内さいないにあるぞ、張奐!」

「…………」

 先ほどまでの怒りは、何処どこかに消えていた。今度は、的を射抜かれたような気がした。張奐の血に塗れた貌が、皮肉な笑みとなった。

「……慕容」

 檀石槐は、赤い眼をした慕容を見遣みやった。遠くに見える張奐に眼を凝らしている。

「あん?」

闕居けつきょを失ったのは、大きい。すまない。俺のせいだ」

「何云ってやがる。誰人のせいでもねえ。戦士たるもの、死は覚悟の上だ。闕居の想いは、俺がつむぐ」

 慕容は、前方から視線をらさずに続けた。

「闕居が、いつも笑顔で云っていた。俺たち四人の後ろを駈けていると、鮮卑の未来は明るい気がするってよ。その期待に応えてやろうぜ、檀石槐」

 檀石槐は、慕容の肩に手を置いた。檀石槐も、同じ気持ちでいることが慕容にはわかった。言葉など要らなかった。それで充分だった。

 檀石槐は、馬首をひるがえした。駈けることはしなかった。戦士も皆、それに従った。張奐が率いる漢兵に、鮮卑は背を向けた。

「追い討ちますか?」

 覚束ない足取りで、後方から身を寄せた王衛が、張奐に尋ねた。

「これは、罠だ。追い撃てば、北の奥地に引きり込まれることになる。退路を断たれ、全滅も免れまい」

 張奐は、ゆっくりと遠ざかる鮮卑の一群を眺めた。涼やかな眼をしていた。

「鮮卑の檀石槐か。芽を摘むのが遅かったな。わしの前で悠然と背を見せるとは、既に王者の風格さえある。漢にとって、これ以上の脅威にならねば良いが……」

 張奐の眼は、いつまでも檀石槐の背を追っていた。


 血に塗れてはいたが、安らかな貌をしている。

「俺たちで、若い奴等をたすけてやろうって、云ってたじゃねえかよ! 何で先にっちまうんだよ!」

 闕居の屍骸しがいを揺すりながら、慟哭どうこくしている者が居た。置鞬落羅ちけんらくらだった。闕居と置鞬落羅は、同世代の大人だった。檀石槐を初めとする台頭してきた若い大人に期待し、その補佐役に徹していた二人だった。

 宴茘游は、馬から飛び降りると、置鞬落羅に歩を寄せた。

「さあ、帰ろう、置鞬落羅。闕居と共に」

 側にしゃがみ込んだ宴茘游は、置鞬落羅の肩に優しく手を乗せた。

 慕容も馬から降りると、覚束ない足取りで闕居の屍骸に身を寄せた。軽々と担ぎ上げると、自分の馬へ乗せた。

「世話になったな、闕居。さあ、一緒に帰ろうぜ」

 静かに云った慕容は、むくろとなった闕居と共に馬上の人となった。

 翡翠の耳飾りが風に揺れていた。檀石槐に駒を並べた素利は、その光景を前に云った。

「……公孫延こうそんえんさんの情報を、もっと精査すべきだった」

やむな、素利。相手は張奐だった。俺たちが抱いた志は、血を流さずに遂げられるものではない。張奐が出てくれば、また血は流れる。志にけ、果てた者の思いも紡いでいく。それが生きている俺たちにできることだ」

 鮮卑の死者は、二百に達していた。

 一方、漢兵のそれは、七千に上った。

 戦場となった原野では、乗り手を失った馬が彷徨さまよっている。鮮卑はそれを捕獲した。まだ使えそうな馬が百頭ほどあった。戦果と云えば、戦果だった。

 檀石槐は、前を向いた。ゆっくりと進む先には、鮮卑の部族が住まう地が待っていた。趙娥ちょうがが恋しく思えた。


 翌年の一五九年――。

 檀石槐の許に、素利がひとつのしらせをもたらした。青天の霹靂へきれきだった。

 張奐が、罷免ひめんされた。

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