取引
登場人物
〈漢〉
桓帝…………漢の帝。
梁冀…………漢の大将軍。
唐衡…………漢の小黄門史。桓帝に仕える宦官のひとり。
張奐…………漢の歴戦の将軍。梁冀により安定属国都尉に任じられる。
王衛…………張奐に仕える勇将。
公孫延…………玄菟郡の官吏。
〈南匈奴〉
台耆…………南匈奴の部族の大人(部族長)。張奐により討たれる。
伯徳…………南匈奴の部族の大人。張奐に投降する。
〈鮮卑〉
投鹿侯…………鮮卑の部族の大人。王衛により討たれる。
如羅…………投鹿侯の前妻。檀石槐の母。(投鹿侯と檀石槐に血の繋がりはない)
檀石槐…………鮮卑の部族の青年。如羅の息子。部族より大人に推戴される。
李平…………檀石槐に仕える漢人の使用人。
破多羅…………如羅の母。檀石槐の祖母。
其至鞬…………破多羅の夫。如羅の父。生前は鮮卑の部族の大人。
素利…………鮮卑の部族の大人。檀石槐の同志。
陳正…………北の湖畔で暮らす李平の知人。漢からの亡命者。捕虜となった漢人を収容する施設の監督者。
厥機…………鮮卑の部族の大人。素利の兄的存在。
弥加…………鮮卑の部族の女大人。剣術の手練者。
成律帰…………素利の弟。
数日を費やし、素利に案内され辿り着いたのは、素利の部族の本拠とも云える幽州の遼東郡だった。遠くには、部族の穹廬が幾つも点在しているのが見えた。
春の穏やかな日差しが、中天から降り注ぐ頃合だった。
原野に現れたのは、一騎だった。檀石槐と素利の許へ、ゆっくりと駒を寄せている。次第に近付いて来たのは、口許に髭を携えた、而立の頃の村夫子のような男だった。漢服を纏ってはいるが、これといった特徴がない。
「公孫延さんだ」
下馬して待っていた素利が、檀石槐を一瞥すると、出迎えるように歩を進めた。
素利が使っている胡服の間者たちが、遠くから取り巻くようにして牛や羊を追っている。遠方に見える商人の格好をした者や、旅装をした漢人も間者のようだった。
檀石槐も素利に続くと、公孫延は下馬して柔らかな笑みを二人に向けた。
「足を運ばせて悪かったね。私が出向くより、君たちに来て貰った方が早いと踏んだ」
「公孫延さん、彼こそがこれからの鮮卑族を牽引する大人、檀石槐です」
笑みを浮かせた素利は、檀石槐と公孫延を見比べながら引き合わせた。
公孫延は、まじまじと檀石槐を見遣った。
「素利から話は聞いていたが、想像していた以上の好漢だ。私は公孫延。玄菟郡の官吏だ」
公孫延は、にこりと微笑んだ。
「檀石槐、僕は君に公孫延さんの話を聞いて欲しいんだ。僕たち鮮卑が躍進するためにも、この公孫延さんと手を組むべきだと思うんだ」
「手を組む――?」
檀石槐に怪訝の色が浮いた。
「手を組むという云い方も間違いではないが、私と鮮卑の取引と云った方が正しいだろう」
檀石槐は、公孫延の次の言葉を待った。
瞳を輝かせた素利が、檀石槐を見ながら頷いた。
「君たちの志す処は、素利から聞いている。私も胸に大望を抱いていてね」
公孫延は、相貌に涼やかな笑みを携えると続けた。
「漢とは別の、新たな国を建てようと思っている」
「……漢から独立する、ということですか?」
落ち着き払った檀石槐は、猜疑の眼を以って尋ねた。
「そういうことになるね。遼東以東を漢から切り離し、北は鮮卑や烏丸などの遊牧騎馬民族、西は羌、烏孫、堅昆、東は夫餘、高句麗、濊、東沃沮、交易を主として国を富ませ、汚濁のない政で民を統治する」
「新たな国。……漢人の貴方が、漢を見限った?」
檀石槐の問いに、公孫延はこくりと頷いた。
「漢は、既に腐っている。中枢の高職にある者にとって、民は奴隷のようなものだ」
「漢は、僕たちを人として見ていない。異民族と蔑み、虐げる。けど、公孫延さんは、僕たちを同じ人として共生を望んでいるんだ」
素利の声が大きくなった。翡翠の耳飾りが大きく揺れていた。
「ただし、大望を果たすためには、暫し時を要する。今は、基盤を固めていると云った処だ。そこで、取引になる」
檀石槐は、公孫延の眼を見詰めた。
「穀物や牛馬が北辺の城市に運び込まれる日時、糧食が備蓄されている都市、北辺を守備する漢兵の数と位置、これらの情報を逐次、鮮卑に提供する。私から直接、鮮卑に大量の物資を提供するようなことはないよ。漢の朝廷に怪しまれては困るからね」
「――――⁉」
「その代わり、私の息が掛かった遼東以東への侵攻は、一切控えてほしい」
公孫延が涼やかに笑った。
漢の都、洛陽から遼東郡までは、北辺の漁陽郡、右北平郡、遼西郡を通らなければならない。そこは、烏丸の諸部族が割拠している。異変に気づいた漢が遼東へ遠征しても、公孫延はその地域を緩和剤として利用するつもりのようだった。
烏丸と鮮卑に同じ条件で盟約を交わすことで、遼東以東の地は、遊牧騎馬民族の侵攻に苛まれることなく、独立へ向けての基盤固めができる。
鮮卑にしてみれば、公孫延から情報を得ることにより、より少ない犠牲で、より多くの物資を獲得することができる。
檀石槐は息を飲んだ。悪い話ではないように聞こえた。
「……情報の正確性と頻度は?」
「これでも私は玄菟郡の官吏だ。北辺の情報は具に手に入る。情報が入り次第、間者を使って素利と成律帰に伝える。それ以降の判断は、君たち次第だ」
成律帰とは、素利の二つ下の弟だった。素利より上背があり、膂力もあったが、性格は素利に似て人懐っこい。左に藍玉の耳飾りを着けており、兄弟で部族の大人を務めているようなものだった。
「檀石槐には黙っていたけど、既に遼東の鮮卑族では、五年ほど前から実践している。情報の有無で成果が変わるのは確かだ。それを慕容の居る中央、宴茘游の居る西方にまで広げられれば、鮮卑は大きくなり、僕たちの志にも一歩近づく筈だ」
素利は、真摯な瞳を向けて、檀石槐を諭すように云った。
「素利は、弟の成律帰を連れて、私の邸に来ることも多くなった。二人とも、あっと云う間に読み書きができるようになった。今は兵法書を嗜んでいるよ」
公孫延は、嬉しそうに素利を見遣った。
素利は、照れ臭さそうにした。
「僕は、檀石槐のような剣術は使えない。慕容のような棒術もできない。宴茘游ほどの弓術も持ち合わせていない。だから僕は、知識と知恵、そして、情報を駈使して同志と走ることにしたんだ」
「君たちは、まだ若い。返事は急がない。だが、若さには勢いがある。時にその勢いは、何かをきっかけに大きなうねりとなることがある。私との出会いが、そのきっかけであることを期待しているよ、檀石槐」
公孫延は微笑むと、踵を返した。馬上の人となると、二人には眼もくれず駈け去った。
公孫延が去った後、檀石槐と素利も並走するように馬を走らせた。素利は、何もしゃべらなかった。檀石槐の答えを待っているようだった。
「お前、見えない処で頑張っていたんだな、素利」
風を頬に受けながら、檀石槐が不意に云った。
「頑張っていたのかな? 愉しかったけど」
「騎射や剣術だって、群を抜いた実力者だよ、素利は。無理して、皆と違うことをしなくても良かったじゃないか」
「無理なんかしてないさ。僕は魅せられたんだよ、君が唱えた志に。何年掛かろうとも、成し遂げてみたいんだ。だから、僕に何ができるか考えただけさ」
素利も頬に風を受けていた。笑ったようだった。
「公孫延か。漢人にも面白いことを考える奴が居るんだな」
「で、如何するの?」
「俺たちの勢いが、大きなうねりとなる処を見て貰うとしよう」
檀石槐は、不敵に笑った。
それを見遣った素利は、莞爾とした笑みに優しい風を受けていた。




