大人への推戴
登場人物
〈漢〉
桓帝…………漢の帝。
梁冀…………漢の大将軍。
唐衡…………漢の小黄門史。桓帝に仕える宦官のひとり。
張奐…………漢の歴戦の将軍。梁冀により安定属国都尉に任じられる。
王衛…………張奐に仕える勇将。
〈南匈奴〉
台耆…………南匈奴の部族の大人(部族長)。張奐により討たれる。
伯徳…………南匈奴の部族の大人。張奐に投降する。
〈鮮卑〉
投鹿侯…………鮮卑の部族の大人。王衛により討たれる。
如羅…………投鹿侯の前妻。檀石槐の母。(投鹿侯と檀石槐に血の繋がりはない)
檀石槐…………鮮卑の部族の青年。如羅の息子。
李平…………檀石槐に仕える漢人の使用人。
破多羅…………如羅の母。檀石槐の祖母。
其至鞬…………破多羅の夫。如羅の父。生前は鮮卑の部族の大人。
如羅が、穹廬の隅で泣いていた。
家畜の放牧から帰った檀石槐が、何の気なしに穹廬に入った折だった。
如羅は平静を装ったが、檀石槐は気付かない振りをした。
「今、戻ったよ。どれも元気だ」
「あら、そう。そうしたら、私が秣を与えてきましょう」
赤い眼をした如羅は、無理に作った笑みを返すと、そそくさと穹廬から出て往った。
近隣の部族の大人、投鹿侯が討たれた。その報せを受けてからというもの、如羅の様子はおかしかった。李平も投鹿侯の訃報を受け、どういう訳か肩を落としていた。
十九歳の檀石槐は、過去は詮索しないものと決めていた。誰人にでも知られたくない過去のひとつや二つはあるものだった。
突如、穹廬の扉が開いた。杖を突いた破多羅だった。後ろに李平を伴っている。
「これは都合が良い。孫さんや、外へ出ておいで」
破多羅に促されるまま、穹廬の外へ出た檀石槐を待っていたのは、部族の古老が二十人ほどだった。どれも腰は曲がり、破多羅のような杖を突いている。何事かと慌てた様子で駈けつけた如羅も、李平により檀石槐の側に誘われた。
「見てのとおり、部族の古老たちだよ。孫さんに話があるそうだ」
檀石槐の左に立った破多羅が、春の日差しに眼を細めた。
古老のひとりが、それに反応したように一歩進み出た。
「其至鞬と破多羅の孫、そして、如羅の子、檀石槐。お主をこの部族の大人に推戴したい。古老と呼ばれる我らの総意じゃ」
驚きの表情となった如羅が、口許を両手で覆っている。
破多羅の後方で、李平はひとつ大きく頷くと、莞爾として笑った。
卜賁邑の死後、部族の大人は不在となっていた。隣の部族でも、投鹿侯の死により大人が不在だった。近隣の部族でも大人の高齢化が進み、指導力が失われつつあった。
「お主の指示、禁令、裁き、全ては公平、平等。部族間の争い、訴訟を裁く能力も著しい。加えて、勇敢、壮健、軍事統率能力も抜きん出ていると評価する。どうか引き受けてくれ、檀石槐」
「…………」
檀石槐は視線を地に落とし、何か思案しているような面持ちだった。
四年前、檀石槐は部族の大人、卜賁邑を斬った。その折、檀石槐は己の牛馬を取り返したのみならず、卜賁邑に奪われた牛馬を部族の民に全て返還していた。
そして、残された卜賁邑の妻子に部族からの報復を懸念した檀石槐は、その妻と子を僅かな牛馬と共に西の生家へ帰した。その妻子でさえ、卜賁邑に虐げられていたようだった。
檀石槐の措置に、卜賁邑の妻と子は感謝した。
生産力の低い遊牧民族が、統率能力を欠いた者を大人に選べば、忽ち自分たちの命に関わる大問題となる。部族民を食べさせるには、他国に侵攻すれば必ず戦果を上げ、奪った穀物や家畜を公平に分配する。大人の資質には、それが問われた。
「我らは見誤った。卜賁邑は大人に相応しくなかった。それどころか、卜賁邑の専横に息を潜め、身を隠しておった。その過ちを断ち切り、我らを目覚めさせてくれたのも檀石槐、お主だ」
「…………」
檀石槐には、素利、慕容、宴茘游の顔が浮かんだ。機は熟したような気がした。
檀石槐の名が諸部族に轟くと同時に、檀石槐の部族は尚武の気風を帯びた。若者は好んで剣を使うようになり、騎射にも更に力を入れるようになった。
遂には、檀石槐の許を訪れ、指南を請う者まで現れた。それを檀石槐と李平が丁寧に指導した。その噂は広まり、他の部族から足を運ぶ者まであった。
「どうか、大人となって、この部族を、鮮卑を導きたもれ」
古老たちは、挙って深々と頭を下げた。
「孫さんや、己に問い、しっかり答申せねば」
檀石槐の左で、杖を突いた破多羅が、頭を下げる古老たちを見渡した。
檀石槐は、精悍な顔付きを古老たちに向けると、高らかに宣言した。
「この檀石槐、今よりこの部族の大人となり、民が幸福な生涯を全うできるよう尽力する」
威風堂々たるものだった。
「お、おお……」
その返答に、古老たちの中には感涙する者まであった。
檀石槐は、直ちに同志と練っていた試案どおり実行した。
まずは、鮮卑としての本拠地を、幽州代郡高柳県の北三百余里にある弾汗山の麓、啜仇水の畔として提唱した。今後、大人たちの会議の地として活用することを想定していた。四人で語り合った、言わば始まりの地だった。
鮮卑の諸部族に、檀石槐が大人となった報せが届くと、これを契機としたように続々と若い大人が誕生した。勿論、素利、慕容、宴茘游も大人に推戴された。
檀石槐が大人となってから、破多羅と如羅は忙しなかった。矢を拵えているようだった。それも、黒い矢だった。
「婆さま、母さま、それは何に使う矢か?」
檀石槐は、尋ねた。
破多羅は、笑みを携えて返した。
「黒矢じゃ」
「黒矢……?」
檀石槐は、怪訝な面持ちとなって首を傾げた。
「近頃、頻繁にお主の爺さまが夢に出てきおる。それも、急げ急げと捲くし立ててならん」
「爺さまが?」
檀石槐は眼を剥いた。それを見遣って微笑を浮かべた如羅が、作業をしながら云った。
「曾て、この部族では、大人だけが黒い矢を使うことができたの。貴方の爺さま、其至鞬も好んで黒矢を使っていたものだわ」
「それには、どのような効果がある?」
破多羅と如羅に近付き、作業を見ながら檀石槐が質した。
破多羅は、檀石槐に不気味な笑みを返した。
「標的を外し、地に落ちていることなどあってはならぬ。常に狙った獲物を仕留め、突き立った矢に敵は戦意を失い、味方は勇躍する。大人が放つ矢は、常にそうでなければならぬ。それが黒矢」
「誰人見ても、貴方が放った矢だとわかるでしょ、檀石槐。我が父、其至鞬は、黒矢を敵将に突き立て、戦士を鼓舞し、士気を上げていた」
如羅は手許の作業を続けながら、懐かしそうに眼を細めた。
「孫さんや、それだけ大人の矢は重さが違うということじゃ。戦勝を祈願し拵える故、しっかりと肝に銘じなされ」
破多羅は、厳しい眼付きを檀石槐に向けた。すぐに顔を綻ばせると、作業に没頭した。
「婆さま、母さま、しっかりと肝に銘じる」
檀石槐は頭を垂れた。その折だった。




