人か天使か
「ライム…あなた…」
母さんの目には、恐怖があった。
僕は何も言えなかった。
背中の翼が、微かに震えている。頭上の光輪が、静かに回り続けている。
「母さん…僕…僕は…」
「動かないで!」
母さんの声が、厳しい。
看護師としての、冷静な声。
「今、みんなを呼ぶから」
「待って! 母さん、僕は…」
でも、母さんはもう走り去っていた。
僕は、その場に立ち尽くすしかなかった。
翼を消そうとする。でも、消えない。
光輪も、消えない。
「どうして…」
数分後、足音が聞こえた。
たくさんの。
父さん、母さん、そして町長のマイヤーさん。トーマスとその父親。ミラーさん夫婦。
十人以上の大人たちが、僕を取り囲んだ。
緊張と恐怖で体が強張る。
みんな、武器を持っている。
鍬、ナイフ、斧。
「ライム…」
父さんが一歩前に出た。その目には、悲しみがあった。
「本当に…なってしまったのか」
「父さん…ごめん。僕、魔法の練習をしてて…そしたら、何かに撃たれて…」
「誰かいたのか?」
「音がした。でも、姿は見えなかった。気づいたら、胸に穴が開いてて…」
父さんは唇を噛んだ。
「バルディン帝国の偵察兵だろうな。この辺りを監視していたんだろう。」
町長さんが前に出た。
「ライム君。申し訳ないが、君を拘束させてもらう」
「え…」
「君が今、何者なのか。我々には分からない。だから、安全のために」
「でも、僕は…僕はみんなを傷つけたりしない!」
「それを、どうやって証明するんだ?」
町長さんの声は冷たかった。
「君は天使になった。人間としての道徳を失ったかもしれない。我々の命が危険に晒されるかもしれない」
「ライムを縛れ」
誰かが言った。
トーマスの父親が、ロープを持って近づいてくる。
「すまんな、ライム。でも、これは仕方ないんだ」
僕は抵抗しなかった。
抵抗したら、もっと怖がられる。
ロープが、手首に巻かれた。きつく、締められた。
「翼は?」
「…消せない。消し方が分からない」
「なら、そのままだ」
僕は木に縛り付けられた。
翼が邪魔で、背中を木につけることができない。横向きに縛られる形になった。
「今夜、みんなで話し合う。それまで、ここで待て」
町長さんが言った。
見張りが二人、残された。ミラーさんと、トーマスの父親。
他のみんなは、野営地へ戻っていった。
父さんと母さんも。
僕は一人、木に縛られて。
夕日が、森を赤く染めていた。
*
夜になった。
焚き火の光が、遠くに見える。
そこで、みんなが話し合っているんだろう。
僕の、処遇を。
見張りの二人は、少し離れた場所に座っている。
時々、こちらを見る。
その目には、恐れと警戒。
「…寒くないか?」
ミラーさんが声をかけてきた。
「大丈夫、です…」
実際、寒くなかった。
天使の体は、気温の変化を感じないのかもしれない。
「すまんな。こんな形になって」
「…いえ」
「でも、分かってくれ。みんな、怖いんだ。天使なんて、伝説の存在だ。それが目の前に現れて…」
「分かって、ます」
僕は俯いた。
「僕も、怖いんです。自分が何になったのか。これから、どうなるのか」
ミラーさんは何も言わなかった。
時間が過ぎた。
どれくらい経ったか分からない。
やがて、足音が近づいてきた。
父さんだった。
「交代する。俺が見張る」
「…分かった」
ミラーさんとトーマスの父親は、野営地へ戻っていった。
父さんは僕の前に座った。
しばらく、沈黙。
「…父さん」
「ああ」
「みんな、何て?」
父さんは深く息を吐いた。
「意見は、二つに割れている」
「二つ?」
「一つは、お前を…殺すべきだという意見」
僕の心臓が、止まりそうになった。
「もう一つは、お前を追放すべきだという意見」
「…そっか」
どちらにしても、僕はもうみんなとは一緒にいられない。
「でも、俺は違う意見を言った」
父さんは僕を見た。
「お前は、まだ人間の心を持っている」
「え…」
「天使になったからといって、完全に道徳性を失うわけじゃない。少なくとも、今のお前はまだ、人としての感情を持っている」
父さんは立ち上がった。
「俺は、みんなを説得する。お前を生かす。そして、一緒に東へ行く」
「父さん…」
「ただし、条件がある」
父さんの目は、真剣だった。
「もしお前が、人に危害を加えたら。その時は、即刻お前を敵とみなす」
「…」
「それでいいか?」
僕は頷いた。
「うん。もし僕が…人を傷つけたら、殺して」
「そんなことは言うな」
父さんは僕の頭に手を置いた。
「お前は、俺の息子だ。天使になっても、それは変わらない」
涙が出そうになった。
でも、出なかった。
泣くことができない。
これも、天使の体の影響なのか。
「待ってろ。必ず、説得してくる」
父さんは野営地へ向かった。
僕は一人、残された。
頭上の光輪が、静かに回っている。
背中の翼が、夜風に揺れている。
僕は、まだ人間なのか。
それとも、もう違うのか。
分からない。
でも、一つだけ確かなことがある。
父さんは、僕を信じてくれている。
それだけで、十分だった。
*
数時間後、みんなが戻ってきた。
松明の光が、森を照らす。
町長さんが前に出た。
「ライム君。我々は、長い時間話し合った」
僕は息を呑んだ。
「結論を言う」
町長さんは深く息を吸った。
「君を、生かす」
「…え」
「ただし、条件がある。エルヴィンさんから聞いているだろう?」
「は、はい…」
「もし君が、我々の誰かに危害を加えたら。その瞬間、君は敵だ。即刻、排除する」
町長さんの目は、厳しかった。
「それでいいか?」
「…はい」
「では、解放する」
ロープが解かれた。
僕は立ち上がった。翼が広がる。
周りの人たちが、一歩後ずさった。
「…ありがとう、ございます」
僕は深く頭を下げた。
「お礼を言うのは早い」
町長さんが言った。
「これから、君は我々と行動を共にする。でも、常に監視される。夜は、必ず見張りがつく」
「分かり、ました」
「それと」
町長さんは周りを見回した。
「君の天使としての力。それを、我々のために使ってもらう」
「え?」
「バルディン帝国の兵士が来たら、君が戦うんだ。我々を守るために」
僕は言葉を失った。
「嫌だとは言わせない。それが、君が生きるための条件だ」
町長さんの言葉は、冷徹だった。
父さんが前に出た。
「マイヤーさん、それは…」
「エルヴィンさん。あなたが息子さんを庇う気持ちは分かる。でも、我々だって生き延びなければならない」
町長さんは僕を見た。
「天使の力があれば、我々は生き延びられる。そうだろう?」
僕は、ゆっくりと頷いた。
「…分かりました。僕は、みんなを守ります」
「よろしい」
町長さんは踵を返した。
「では、野営地に戻る。ライム君も来なさい」
みんなが歩き出す。
僕も、その後に続いた。
父さんと母さんが、横に並んだ。
「ライム…」
母さんが小さく呟いた。
「大丈夫、母さん」
僕は微笑もうとした。でも、うまく笑えなかった。
顔の筋肉が、思うように動かない。
「僕は、まだ僕だから」
でも、本当にそうなのか。
自分でも、分からなかった。
野営地に戻ると、人々の視線が刺さった。
恐れ、警戒、嫌悪。
そして、少しの期待。
天使の力への、期待。
エマちゃんが、母親の後ろに隠れていた。
あの、僕の魔法を見て喜んでくれたエマちゃん。
でも今は、怖がっている。
「ライム君のテントはあちらです」
町長さんが指差した。
野営地の端。みんなから離れた場所。
「そこで休んでください。見張りが二人、常に近くにいます」
「…はい」
僕は、指定されたテントに向かった。
小さな、簡素なテント。
中に入ると、翼が邪魔で窮屈だった。
「畳めないのか、これ…」
何度か試してみる。
少しずつ、小さくなった。でも、完全には消えない。
光輪も同じ。薄くはなるけど、消えない。
僕は座り込んだ。
鞄から、ウサギのぬいぐるみを取り出す。
「ただいま…」
小さく呟く。
でも、何も感じない。
このぬいぐるみを抱きしめて、いつも安心していたのに。
今は、何も。
「僕は…まだ、人間なのかな」
ウサギのぬいぐるみは、答えてくれなかった。
外では、焚き火の光が揺れている。
人々の話し声。笑い声。
でも、僕はもう、その輪の中にはいない。
僕は、天使?
それとも、人間?
「これから、どうなるんだろう…」
小さく呟いた。
テントの外では、見張りの二人が立っている。
その手には、武器。
僕を守るためじゃない。
僕を監視するため。
そして、もし僕が暴走したら、殺すため。
僕は目を閉じた。
眠れるのか、分からなかった。
天使は、眠る必要があるのか。
試してみるしかない。
暗闇の中、光輪だけが淡く光っていた。




