魔法の核心
僕は呪文を唱え始めた。
小さな声で、何度も何度も。
「フレア・アース・ストローク…フレア・アース・ストローク…」
指先に小さな炎が灯っては消える。
もっと大きく。もっと強く。
でも、魔力はすぐに尽きてしまう。
「くそ…」
窓の外が白みを帯び始めていた。
*
朝、僕たちは再び東へ向かって歩き始めた。
放棄された村を後にして、丘陵地帯を進む。
僕は荷車の横を歩きながら、ずっと魔法研究ノートを読んでいた。
「ライム」
父さんが声をかけてきた。
「昨夜、お前が魔法の練習をしていたのは知っている」
「…ごめん、起こしちゃった?」
「いや」父さんは首を振った。「ただ…少し心配でな」
父さんは荷車を引きながら、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「お前は、もっと強い魔法を学ぼうとしているんだろう?」
「…うん。みんなを守れるような、本当に役立つ魔法を」
「その気持ちは分かる。でもな、ライム」
父さんは立ち止まった。
「魔法には、お前がまだ知らないことがある」
「知らないこと?」
父さんは周りを見回した。他の避難民たちは少し先を歩いている。
「今夜、落ち着いたら話そう。大事なことだ」
父さんの表情は、いつになく真剣だった。
*
その日の夕方、僕たちは小さな川のほとりで野営することになった。
テントを張り、焚き火を囲む。
母さんは負傷者の手当てをしている。僕は薪を集める手伝いをした。
夕食後、父さんが僕を少し離れた場所へ連れて行った。
川のせせらぎが聞こえる、静かな場所。
「ライム、座れ」
父さんは地面に座り、僕も隣に座った。
星空が広がっている。月明かりが川面を照らしていた。
「さっき話した、魔法についてだが…」
父さんは空を見上げながら言った。
「お前は、天使という存在を知っているか?」
「天使? あの、神話に出てくる…」
「ああ。でも、ただの神話じゃない」
父さんは僕を見た。
「千数百年前、この世界には本当に天使が生息していた」
「え…」
「天使は、生物学的に動物にも、植物にも分類できないそうだ。父さんは生き物についてはよく知らないから詳しいことはわからない。ただ、一つだけ知っている。
彼らは魔法を自由に使うことができた」
父さんの声は、いつもの魔法談義とは違う、重い響きがあった。
「俺たち人間は、何年もかけてやっと小さな炎を灯せるようになる。でも天使は、生まれながらにして強大な魔法を使えた」
「じゃあ、今は…」
「絶滅した。正確には、いつどうやって絶滅したのかは分かっていない。ただ、記録から消えた」
父さんは川を見つめた。
「でもな、ライム。天使の遺伝子は、完全には失われていない」
「どういうこと?」
「人間の中に、わずかに受け継がれている。ほんの僅かだが、天使の血を引く者がいる」
僕の心臓が早く打ち始めた。
「その遺伝子は、普段は眠っている。でも…あるトリガーによって、活性化することがある」
「トリガー…?」
父さんは、僕の目を真っ直ぐ見た。
「死だ」
「…え?」
「魔力を帯びた状態で死ぬと、天使の遺伝子が活性化する。背中から翼が生え、天使の形質を顕現させる」
父さんの声が震えていた。
「その時、死んだ者は蘇る。永遠の命を手にする」
「それって…すごいことじゃ…」
「いや」
父さんは強く首を振った。
「代償がある。天使の形質を発現した者は、道徳性を損なう。人間としての感情の一部を失う。それに、永遠の命と言うものは人間が踏み出すべきでない領域だ。」
「…」
「...大きな翼。頭上を環状に動く光の粒子、光輪。それが天使の特徴だ。」
父さんは僕の肩を掴んだ。
「ライム、聞いてくれ。強い魔法を求める気持ちは分かる。でも、魔法に溺れるな。魔力を高め過ぎるな」
「で、でも…」
「お前が天使の血を引いているかは分からない。多分、引いていないだろう。俺はそう思いたい。でも、もし万が一…」
父さんの目には、恐れがあった。
「お前を失いたくないんだ。人間としてのお前を」
僕は何も言えなかった。
永遠の命。
強大な魔法。
でも、その代償は…
「…分かった」
僕は小さく頷いた。
「気をつける」
「すまんな、ライム。怖がらせて」
父さんは僕の頭を撫でた。
「でも、知っておいてほしかったんだ」
僕たちは野営地に戻った。
焚き火の周りでは、人々が談笑している。
母さんが手を振った。
「二人とも、お茶が入ったわよ」
「ああ、今行く」
父さんは普段の顔に戻った。
でも、僕の心はざわついていた。
天使。
死。
永遠の命。
それは、遠い昔話のはずだった。
でも、父さんの真剣な顔が忘れられない。
*
翌日、僕たちは再び東へ向かった。
道は徐々に険しくなっていく。
午後、僕たちは森の中の開けた場所で休憩した。
「ライム、少し休んだらどうだ?」
母さんが心配そうに言った。
「うん…ちょっと森の奥で、一人になりたい」
「あまり遠くに行かないでね」
「うん」
僕は森の奥へ歩いた。
木々の間を抜けて、小さな空き地を見つけた。
ここなら、誰にも見られない。
鞄から魔法研究ノートを取り出す。
昨夜の父さんの話が、頭から離れない。
でも…
でも、僕は弱いままでいたくない。
「一回だけ。もう一回だけ、試してみよう」
僕は手を前に突き出した。
呪文を唱える。
でも、今度は違う呪文。
ノートに書かれていた、もっと強力な炎の魔法。
「フレア・…ハイ・ストローク…!」
体中の魔力を集中させる。
指先が熱くなる。
…が、炎は出ない。
「(やっぱり僕には...)」
「(...いや、もう一度やってみよう。)」
また、魔力を身体中に駆け巡らせ、指先に集めようとする。
その時。
ズガァン!!
次の瞬間、胸に衝撃。
「…え?」
視線を落とすと、胸から血が止めどなく溢れ出ていた。
「あ…ああ…」
膝が崩れた。
地面に倒れ込む。
遠くで、誰かの足音。
視界が霞んでいく。
痛い。
息ができない。
「た、助け…」
声が出ない。
魔力が、体中を駆け巡っている。
そして…
背中が、熱い。
いや、熱いどころじゃない。
何かが背中を突き破ろうとしている。
「あああああッ!」
絶叫。
背中から、白い光が噴き出した。
そして…翼。
純白の、巨大な翼が背中から生えた。
頭上に、光の粒子が現れる。
環状に、ゆっくりと回転しながら、光輪を作っていく。
痛みが、消えた。
胸の傷が、塞がっていく。
体が、軽い。
力が、溢れてくる。
「これ…は…」
僕は立ち上がった。
翼が、自然に動く。
光輪が、僕の頭上で静かに回っている。
視界がクリアになった。
音がした方に、人はもういない。
「これが…天使…」
小さく呟いた。
遠くから、母さんの声が聞こえた。
「ライム! どこ!?」
僕は翼を畳んだ。
光輪が、少しずつ薄れていく。
でも、完全には消えない。
父さんの言葉が、脳裏に蘇る。
『道徳性を損なう』
『もう人間ではない』
僕は…
僕は、もう…
「ライム!」
母さんが空き地に飛び込んできた。
そして、僕を見て、硬直した。
「ライム…あなた…」
母さんの目には、恐怖があった。




