灰色の日常 その2
夜明け前、僕は目を覚ました。
小さな鞄を抱えて、ベッドの端に座る。部屋の中を見回す。
もう二度と、ここには戻れないのかもしれない。
壁に残された押し花。ベッドに残されたぬいぐるみたち。小さな机。窓辺のカーテン。
全部、全部、置いていく。
「ライム、準備はいいか」
父さんの声。
「う、うん…」
階段を降りると、玄関には荷物を積んだ荷車があった。父さんが昨夜作ったものだ。
母さんは診療所から持ち出した医療道具を、慎重に箱に詰めている。
「これは絶対に必要だから…」
母さんの声は、いつもより硬い。
外はまだ薄暗い。でも、広場にはもう人が集まり始めていた。
僕たちだけじゃない。町を出る決断をした人たちが、たくさん。
「エルヴィンさん」
隣の家のミラーさんが声をかけてきた。荷車を引く老夫婦だ。
「一緒に行きましょう。人数が多い方が安全です」
「ああ、そうだな」
父さんが頷く。
次々と人が集まってくる。最終的に、百人ほどの集団になった。
町長のマイヤーさんも、その中にいた。
「…私も、東へ向かいます。この町に残る者たちのことは、副町長に任せました」
町長さんの目は、深い悲しみに沈んでいた。
「では、出発しましょう」
誰かが言った。
僕たちは、ゆっくりと歩き始めた。
振り返ると、燃え跡だらけの町が、朝靄の中に霞んでいた。
煙はまだ上がっている。瓦礫の山。崩れた家々。
「…さよなら」
もう一度、小さく呟いた。
*
東への道は、険しかった。
舗装された街道はすぐに途切れ、森の中の獣道になった。荷車は何度も石に引っかかり、男たちが総出で押さなければならなかった。
僕も手伝おうとしたけど、力が足りなくて。
「ライム、無理すんな」
トーマスが僕の肩を叩いた。彼も家族と一緒に避難している。
「で、でも…」
「お前は荷物持ちでもしてろよ。それだって立派な仕事だ」
トーマスは笑った。でも、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。
昼頃、僕たちは森の中の小さな泉で休憩した。
みんな疲れ果てていた。老人や子供たちは、特に。
母さんは水筒を配りながら、体調の悪い人がいないか確認して回っている。
僕は泉のほとりに座って、鞄から魔法研究ノートを取り出した。
ページをめくる。
発火の呪文。浮遊の術式。小規模な防御結界の理論。
どれも、今の状況では役に立たない。
「何読んでんの?」
隣に、小さな女の子が座った。町の雑貨屋の娘、エマちゃん。七歳くらいだったと思う。
「あ、えっと…魔法の、本…」
「まほう? すごい! ライムお兄ちゃん、魔法使えるの?」
「う、うん…まあ、ちょっとだけ…」
「見せて見せて!」
エマちゃんの目が輝いた。
僕は周りを見回した。みんな疲れて、暗い顔をしている。
「じゃあ…ちょっとだけ」
僕は呪文を唱えた。古語で、慎重に。
「…フレア・アース・ストローク。」
指先に、小さな炎が灯った。
「わあ!」
エマちゃんが拍手した。
「すごい! ライムお兄ちゃん、本当に魔法使いなんだ!」
「い、いや…これくらい、誰でもできるよ。練習すれば…」
でも、エマちゃんは目を輝かせたまま、僕の手元を見つめていた。
「ねえねえ、もっと見せて!」
「え、えっと…」
周りの人たちが、こちらを見始めた。
「おお、魔法か」
「久しぶりに見たな」
「ライム君、すごいじゃないか」
注目を浴びて、緊張と興奮で僕の心臓は早鐘を打ち始めた。
「あ、あの…これくらいしか…」
「いいから、もう一回やってみてくれ」
ミラーさんが優しく言った。
「みんな、疲れてるんだ。少しでも、気が紛れるものが欲しい」
僕は頷いた。
もう一度、呪文を唱える。
今度は水の魔法。
「アクア・アース・ストローク…」
手のひらの上に、透明な水球が浮かんだ。
「綺麗…」
エマちゃんが呟いた。
水球は陽光を受けて、小さな虹を作っている。
周りの人たちから、小さな拍手が起きた。
「ありがとう、ライム君」
「少しだけ、元気が出たよ」
僕は照れくさくて、俯いた。
こんな小さな魔法でも、誰かの役に立てるんだ。
少しだけ、胸が温かくなった。
*
午後、森を抜けると、丘陵地帯が広がっていた。
遠くに、小さな村が見える。
「あそこで一晩、休ませてもらおう」
町長さんが言った。
でも、村に近づくにつれて、僕たちは異変に気付いた。
村が、静か過ぎる。
煙突から煙も上がっていない。畑で働く人の姿もない。
「…おかしい」
父さんが呟いた。
村の入口に着くと、そこには木の看板が立てられていた。
手書きの文字で、こう書かれていた。
『この村は放棄されました。飲み水と食料は持ち去りました。残された家は自由に使ってください』
「…先を越されたか」
誰かが呟いた。
村の中に入ると、本当に誰もいなかった。
家々の扉は開け放たれ、中はもぬけの殻。
「バルディン帝国の爆撃を恐れて、逃げたんだな」
町長さんが言った。
「仕方ない。今夜はここで休もう。明日また東へ向かう」
僕たちは、空き家に分かれて泊まることにした。
僕たち家族は、村の端にある小さな家を使わせてもらった。
家具はほとんど持ち去られていたけど、暖炉と簡素なベッドは残っていた。
「今夜は久しぶりに屋根の下で眠れるな」
父さんが薪を暖炉に入れながら言った。
母さんは鞄から乾パンと干し肉を取り出した。
「これで夕食にしましょう」
三人で、質素な食事を囲む。
いつもなら、母さんの温かい料理があって、父さんが仕事の話をして、僕が魔法の本を読んでいて。
それが、当たり前だった。
でも、もうあの日常は戻ってこない。
「…ライム」
父さんが口を開いた。
「今日、お前が魔法を見せてくれただろう」
「う、うん…」
「みんな、喜んでいたぞ。お前の魔法は、小さいかもしれない。でも、確かに誰かの心を照らしている」
父さんは僕の頭に手を置いた。
「これからもっと辛いことがあるかもしれない。でも、お前にはお前にしかできないことがある。それを忘れるな」
「…うん」
僕は頷いた。
窓の外では、星が瞬いていた。
遠く、西の空。故郷があった方角。
もう、あの町の灯りは見えない。
ただ、暗闇が広がっているだけ。
「おやすみ、ライム」
母さんが毛布をかけてくれた。
「おやすみなさい…」
僕はウサギのぬいぐるみを抱きしめて、目を閉じた。
明日も、また歩く。
東へ。東へ。
どこまで行けば安全なのか、分からない。
でも、立ち止まることはできない。
その夜、夢を見た。
燃える町。灰色の鳥。逃げ惑う人々。
そして、その中で僕は立ち尽くしていた。
何もできずに。
「ライム!」
誰かが叫んでいる。振り向くと、エマちゃんがいた。
「お兄ちゃん、魔法で助けて!」
「で、でも…僕の魔法じゃ…」
「お願い!」
僕は呪文を唱えようとした。
でも、声が出ない。
指先に魔力が集まらない。
「どうして…」
エマちゃんの姿が、炎に飲まれていく。
「いやだ…いやだ!」
僕は叫んだ。
「ライム! ライム、起きて!」
母さんの声で、目が覚めた。
「悪い夢を見たのね…大丈夫よ」
母さんが背中を撫でてくれる。
僕は汗びっしょりだった。
「ご、ごめんなさい…」
「謝らなくていいの。辛いのは、みんな同じだから」
窓の外は、まだ暗い。
でも、もう眠れそうになかった。
僕は鞄から魔法研究ノートを取り出した。
そして、新しいページを開く。
『人のためになる魔法を』
そう書き込んだ。
指先にマッチ程度の火を灯すだけじゃダメだ。
水球を浮かせるだけじゃダメだ。
本当に、誰かを守れる魔法を。
本当に、役に立つ魔法を。
「いつか、いや、今、すぐにでも…」
小さく呟いて、僕はノートに向かった。
外では、夜明けが近づいていた。
新しい一日。
そして、また続く逃避行。
でも、僕はもう決めた。
ただ逃げるだけじゃない。
この旅の中で、僕は強くなる。
誰かを守れるくらい、強く。
僕は呪文を唱え始めた。




