灰色の日常 その1
夜が明けた。
窓から差し込む光は、いつもの優しい朝日ではなかった。灰色の煙に濁った、濁った光。
僕は一睡もできなかった。ベッドの上で膝を抱えて、ずっと外の音に耳を澄ませていた。
炎の音。崩れる音。泣き声。
父さんと母さんは、まだ帰ってこない。
「だ、大丈夫…きっと大丈夫…」
ウサギのぬいぐるみに話しかける。でも、声が震えている。
階下から物音がして、僕は飛び上がった。
「ライム!」
母さんの声だ。
「母さん!」
僕は部屋を飛び出して、階段を駆け降りた。
玄関には、煤と血で汚れた母さんと父さんがいた。二人とも、ひどく疲れ果てた顔をしている。
「無事だったのね…よかった…」
母さんが僕を抱きしめた。その腕が震えているのが分かる。
「町は…町は、どうなって…」
「…半分以上が、焼けた」
父さんが重い声で言った。
「診療所も、市場も、広場も…あのミセス・ハーゲンさんは…?」
「…無事だ。でも、多くの人が…」
父さんは続きを言わなかった。言えなかったんだと思う。
母さんが僕の肩を掴んだ。
「ライム、聞いて。これから大変なことになる。町には、もう食料も水も十分にない。負傷者も多い。そして…」
「そして?」
「あれが、また来るかもしれない」
あの灰色の「何か」。
あれが何なのか、僕たちは知らない。でも、このことは確信している。
あれは、人間が作ったものだということ。
「バルディン帝国の…新兵器…」父さんが呟いた。
「まさか、こんなものを…」
何か、何かが引っ掛かるような...
今まで何百年も新兵器なんて開発されてなかったのになぜ今急に?
しかも突然、なんの前触れもなく...
ふと窓の外を見る。町の向こう、西の空はまだ煙で霞んでいる。
*
昼過ぎ、町の広場――正確には、広場だった場所に、生存者が集まった。
三千人いた町民のうち、集まったのは二千人ほど。
残りの人たちは…考えたくない。
あの可愛い天使の噴水は、もう原型を留めていなかった。
町長のマイヤーさんが、壊れた台座の上に立って話し始めた。
「…皆さん。昨夜の攻撃で、我が町は壊滅的な被害を受けました」
皺だらけの顔は、一晩で十歳は老けて見えた。
「負傷者は五百名以上。行方不明者も…多数です」
ざわめきが広がる。泣き出す人もいる。
僕は父さんと母さんの後ろに隠れるようにして立っていた。こんなにたくさんの人が集まっていると、息が苦しくなる。
「バルディン帝国が、南方諸国への侵攻を開始したとの情報が入りました。我がグランツェルは中立国ですが…」
町長さんは言葉を詰まらせた。
「…彼らは、中立など気にしていないようです」
絶望が、群衆に広がっていくのが分かった。
「我々には、二つの選択肢があります。一つは、ここに留まり町を再建すること。もう一つは…」
町長さんは東を指差した。
「東へ逃げることです。州境を越えて、バルディン帝国の支配が及んでいない地域へ」
「しかし!」誰かが叫んだ。「東へ逃げたところで、同じではないか! あの悪魔の鳥は、どこまでも追ってくるだろう!」
「だからといって、ここに留まれば確実に死ぬぞ!」
言い争いが始まる。
僕は耳を塞ぎたくなった。みんなの怒りと恐怖が、渦巻いている。
「静まりなさい!」
母さんが叫んだ。
「…アンナさん」
「言い争っている場合じゃありません。負傷者の手当てを優先すべきです。それから食料と水の確保。避難するにしても、留まるにしても、まずは生き延びなければ」
母さんの言葉に、人々は少し落ち着きを取り戻した。
看護師として、母さんは町中から信頼されている。
「…その通りだ」町長さんが頷いた。「まずは、できることから始めよう」
群衆が散り始める。
父さんが僕の頭に手を置いた。
「ライム、お前も手伝ってくれるか? 瓦礫の撤去とか…」
「う、うん…でも、僕…人がたくさんいると…」
「分かってる。無理しなくていい。できる範囲でいいんだ」
父さんは優しく微笑んだ。でも、その目は笑っていなかった。
*
午後、僕は町外れの井戸で水を汲む手伝いをしていた。
一人でできる作業だから、これなら僕にもできる。
バケツに水を汲んで、大きな樽に移す。それを繰り返す。
単純な作業だけど、体はすぐに疲れた。
「ライム、休憩しろよ」
振り返ると、昨日会った仕立て屋の息子――トーマスがいた。
「あ…う、うん…」
「お前、ずっと働いてんな。偉いじゃん」
「そ、そんな…これくらいしか、できないから…」
トーマスは樽の横に腰掛けた。
「…なあ、ライム。お前、魔法とか詳しいんだろ?」
「え? あ、まあ…趣味で…」
「あの灰色の鳥。あれ、魔法じゃねえよな?」
「…うん。魔法じゃない。魔法であんな大きなものを飛ばすのは、理論上不可能だよ。」
「じゃあ、何なんだ? どうやって戦えばいい?」
トーマスの目には、恐怖と怒りが混じっていた。
「僕にも…分からない。ごめん…」
「…そっか」
トーマスは立ち上がった。
「じゃあな。あんまり無理すんなよ」
彼が去った後、僕はバケツを握りしめた。
魔法を学んできた。何年も。
でも、何の役にも立たない。
あの「悪魔の鳥」を止めることも、傷ついた人を癒すこともできない。
指先にマッチ程度の火を灯すことしかできない、無力な僕。
「くそ…」
初めて、そんな言葉が口から出た。
*
夕方、家に戻ると父さんが工房で何かを作っていた。
「父さん、何してるの?」
「…荷車だ」
「荷車?」
「ああ。明日の朝、町を出る」
僕は息を呑んだ。
「で、でも…」
「ここに留まるのは危険だ。母さんとも話し合って決めた。東へ向かう」
父さんは手を止めて、僕を見た。
「ライム。お前の荷物をまとめておけ。持てるだけでいい。大切なものを選ぶんだ」
僕は部屋に戻った。
机の上には、『ライムの魔法研究ノート』。
壁には、押し花の額縁。
ベッドには、たくさんのぬいぐるみたち。
全部、大切なもの。全部、持っていきたい。
でも、持てるのは…
僕はウサギのぬいぐるみと、魔法研究ノートと、父さんからもらった魔法書を一冊だけ選んだ。
「…ごめんね」
他のぬいぐるみたちに謝る。
パステルブルーのシャツと、いくつかの服を小さな鞄に詰めた。
これだけ。
これが、十五年間の人生で持ち出せる全て。
窓の外を見る。
燃え跡と瓦礫だらけの町。
ここで生まれて、ここで育って。
初めて魔法を使えたのも、初めて可愛い服を着たのも、初めて友達(と呼べるかは分からないけど)と話したのも、全部この町で。
「さよなら…」
小さく呟いた。
その夜、遠くでまた轟音が聞こえた。
でも今度は、町を襲うことはなかった。
もっと南の、別の町が標的になったのだろう。
僕は毛布を被って、耳を塞いで、ウサギのぬいぐるみを抱きしめた。
明日、僕たちは故郷を捨てて、逃げる。
どこへ? 分からない。
いつまで? 分からない。
ただ一つだけ確かなのは――
平和な日々は、もう二度と戻ってこないということ。




