魔法と鋼鉄
僕の名前はライム・フリードリヒ・ドレイク。十五歳。
鏡に映る自分を見る。小柄な体に、どうにも言うことを聞かないくせ毛。朝から櫛で整えようとしたけど、すぐにまたはねてしまう。
「ま、いっか…」
諦めて、お気に入りのパステルブルーのシャツを着る。襟には小さなレースがついていて、袖口にはリボンの刺繍。母さんが誕生日にくれたものだ。
可愛い服を着ると、なんだか少しだけ勇気が出る。
……人と話すのは、相変わらず苦手だけど。
「ライム、朝ごはんよ!」
階下から母さんの声。
「は、はーい!」
階段を降りて、食卓へ。
*
朝食を済ませて、市場へ買い物に出かける。
故郷のエルデンベルク。人口三千人ほどの、のどかな田舎町だ。石畳の道には午前の柔らかな陽射しが降り注ぎ、広場の噴水には可愛らしい天使の彫像が水を吐き出している。
「あら、ライム君!」
野菜売りのミセス・ハーゲンさんが声をかけてくる。
「あ、おはよう、ございます…」
声が小さくなる。視線を逸らしてしまう。
「今日はトマトが新鮮よ。持っていきなさいな」
「え、あ、その…お金、が…」
「いいのいいの。あんたのお母さんには世話になってるんだから」
「あ、ありがとう、ございます…」
トマトを三つ、布袋に入れてもらう。
もっとちゃんとお礼を言えたらいいのに。もっと会話を続けられたらいいのに。
でも、言葉が出てこない。
こういうとき、自分が嫌になる。
「ライム、またお使い?」
振り向くと、同じ年頃の少年が三人。町の仕立て屋の息子たちだ。
「あ、うん…」
「お前、いっつもそういう可愛い服着てんな」
「…う、うん」
どう返していいか分からない。
「別に悪くは言ってねえよ。似合ってんじゃね?」
「…あ、ありがと」
「またな」
少年たちは笑って去っていった。
……悪い人たちじゃないんだ。でも、こういう会話が本当に苦手で。
僕は足早に、町外れの自宅へと向かった。
*
家に着くと、父さんが工房で木材を削っていた。
父さん――エルヴィン・ドレイクは、この町で一番腕のいい家具職人だ。
「おう、ライム。買い物お疲れさん」
「た、ただいま…」
工房の隅には、父さんの趣味の本棚がある。魔法関係の古書がぎっしりと並んでいて、僕はあれを眺めるのが好きだった。
魔法。
この世界では、誰でも魔法を学ぶことはできる。理論上は。
でも、実際に魔法を趣味にする人は少ない。
なぜなら、魔法は恐ろしく複雑だからだ。
一つの呪文を覚えるのに数週間。魔法陣の描き方を理解するのに数ヶ月。そして実際に使えるようになるまでに数年。
それだけ時間をかけても、できるのはマッチ程度の火を灯すとか、夜露程度の量の水を出すとか、その程度。
火が欲しければ火打ち石を使えばいいし、水が欲しければ川とか、井戸とか...
魔法を学ぶより、普通に生活した方がよっぽど効率的だ。
だから、魔法は「好事家の趣味」。暇と情熱を持て余した変わり者が、何年もかけて学ぶものだった。
父さんも、そんな「魔法マニア」の一人。仕事が終わった後、晩酌しながら魔法書を読むのが趣味だった。
そして僕も、いつの間にか魔法を好きになっていた。
父さんと一緒に古い魔法書を読んでいるとき。
それが、唯一、僕が誰かと「普通に」話せる時間だった。
自分の部屋に戻ると、僕は机に向かった。
部屋の中は、僕の「好き」で溢れている。
ベッドには、ぬいぐるみがいっぱい。ウサギに、クマに、小さなドラゴン。どれも可愛くて、見ているだけで癒される。
壁には、押し花を飾った額縁。町外れで摘んだ、小さな野花たち。
そして、本棚には魔法書と、可愛い装丁の絵本が並んでいる。
「よし…今日も研究、続けよう」
机の引き出しから、手書きのノートを取り出した。
『ライムの魔法研究ノート』
ページをめくると、僕が試した魔法の記録がびっしりと書かれている。余白には、小さな花やウサギの落書き。
「発火の呪文、成功率…30パーセントか」
魔法の処理は、本当に複雑だ。
まず、呪文を正確に発音する。古語で書かれた、発音も文法も難しい。その上一単語でも間違えれば失敗する。
次に、魔力を集中させる。体の中を流れる見えないエネルギーを、指先に集める。これだけで高度な集中力が必要だ。
そして、適切な体系、正しい公理のもとに実行する。
この三つを、同時に、かつ完璧にこなさなければならない。
当然、失敗する。何度も何度も。
それに、成功しても大したことはできない。
指先にマッチ程度の火を灯す。コップ一杯の水を浮かせる。そよ風を起こす。
その程度。
だから、魔法なんて誰もやらない。
それでも、
僕は魔法が好きだった。
「いつか、みんなに魔法の素晴らしさを分かってもらえたら…」
そんな夢を抱きながら、僕はノートに古語を書き込んだ。
窓の外では、午後の陽射しが町を優しく照らしている。
平和で、穏やかな日常。
夕食の時間。
食卓には、母さん――アンナ・ドレイクのお手製のポトフと、さっき貰ったトマトのサラダ。
「今日も美味しいよ、母さん」
「ありがとう、ライム。たくさん食べてね」
母さんは町の診療所で看護師として働いている。優しくて、街の皆んなから慕われている。
僕が人と話すのが苦手なのを知っていて、いつも気遣ってくれる。
父さんが新聞を広げながら言った。
「北方のバルディン帝国が新兵器を研究...か」
「え?」
「もし南方の国と戦争でもしたら...まあ、ここ千数百年兵器水準はたいして変わらない。それに大きな戦争も起こってない。たぶん杞憂だろう。」
バルディン帝国。
州北部を支配する、軍事独裁国家。十年前のクーデターで皇帝が暗殺されてから、宰相のヴォルフガング・フォン・シュタールが実権を握っている。
彼らは魔法を戦争に使おうと研究しているという噂もあるが、魔法の複雑さゆえ、実用化は難しい。
魔法を知れば知るほどにその確信が強まる。
でも、ここエルデンベルクは中立国グランツェルの田舎町。戦争なんて、遠い世界の話。
しかし、僕たちは知らなかった。
この平和が、あと数時間で終わることを。
*
その夜。
僕は眠れなかった。
なんだろう、この胸騒ぎ。心臓が、やけに早く打っている。
ベッドから起き上がり、窓辺に立つ。抱きしめていたウサギのぬいぐるみを、ぎゅっと抱きしめる。
月明かりに照らされた町は、静かに眠っていた。
そのとき。
地平線の向こう、西の空が赤く染まった。
まさかあれは炎?いや、違う。もっと毒々しい、不気味な赤。
そして、轟音。
ゴオォォォォォン。
大地が揺れた。
「な、何…?」
遠く、とても遠くから、何かが響いてくる。規則的な、聞いたこともない音。
ドドドドド、ドドドドド。
鳥たちが一斉に飛び立った。町中の犬が吠え始める。
階下から、父さんと母さんが慌てて出てくる音がした。
「ライム!」
「は、はい!」
僕は部屋を飛び出した。
玄関先に集まった三人で、遠くの空を見つめる。
赤い光が、少しずつ大きくなっていく。
そして――見えた。
空に、何か巨大なものが飛んでいる。
鳥ではない。竜でもない。ワイバーンでも、グリフォンでもない。
それは、見たこともない何かだった。
金属のような、灰色の巨体。人工的な形をした翼。そして、異様な轟音。
「あれは…何だ…?」父さんが呟いた。
僕も、まったく見当がつかない。魔法生物でもない。魔法の産物でもない。
あんなもの、見たことも、聞いたこともない。
その「何か」は、こちらに向かってくる。
そして、その腹から、黒い何かが落ちた。
小さな、黒い点。
それが、みるみる大きくなって――
「伏せろッ!」
父さんの叫び。
次の瞬間、町の西端で爆発が起きた。
ドガァァァァン!
衝撃波が家を揺らす。窓ガラスが割れる音。悲鳴。
炎が上がる。
「家の中に!早く!」
父さんが僕たちを押し込む。
窓の外では、次々と爆発が起きている。町が燃えている。
広場が。市場が。診療所が。
あの可愛い天使の噴水も、もう…。
人々の悲鳴が、夜空に響いている。
僕は震えが止まらなかった。ウサギのぬいぐるみを、必死に抱きしめる。
「だ、大丈夫…大丈夫だから…」
誰に言い聞かせているのか、自分にも分からなかった。
父さんは窓から外を見て、青ざめていた。
「あれは…一体…何なんだ…」
爆撃は、延々と続いた。
三十分。いや、もっと長かったかもしれない。
時間の感覚が、麻痺していた。
やがて、その「何か」の轟音が遠のいていく。
静寂。
いや、静寂ではない。炎の音、倒壊する建物の音、そして泣き叫ぶ声。
「外に出るぞ。怪我人がいるはずだ」
父さんが立ち上がる。母さんも、看護師としての顔になった。
「ライム、あなたは家にいなさい」
「で、でも…」
「いいから!」
母さんの強い口調に、僕は頷くしかなかった。
二人が外に出ていく。
残された僕は、震える膝を抱えて座り込んだ。
窓の外、町が燃えている。
赤色の炎が、夜空を照らしている。
これが、全ての始まりだった。
平和な日常は、この夜、終わりを告げた。




