便箋6 砦の生活 その6
いかん。
また憂鬱な気分になってきた。
そうなると、なんだか無性に腹が減ってきた。この際、魔界の果物でもいいから腹に入れたい。なにか残り物でもないかと台所へ向かう。
と―――
クソ!
「どしたの弟。まだ起きてたの?」
食堂には魔女がいた。
どこから手に入れたのか、ワインを飲んでいるではないか。
いや、それより……
夕食のときと同じ、20歳くらいの姿だ。いやそれよりも、魔女は肌着しか身に着けていない。細身の体のラインが、薄い生地ごしに見て取れる。
ゴク。
生唾を飲みこんだ。
なんの生唾だ?
ワインを見てだろうか、あるいは肌を大きく露出する魔女を見てだろうか。自分でもわからない。
「うん? お前も飲むか、弟」
「……ああ」
魔女に勧められるまま、俺はコップを出して席についた。魔女は自分のカップから少しだけ、ほんの少しだけ、俺のコップにワインを注ぐ。
「どこからワインなんか手に入れたんだ。囚人のお前に、酒なんか支給されるのか?」
「されないよ。お前が夕食のとき残したブドウで作ったの。私の魔法で、ブドウを老いさせたの」
……夕食の果実、あれは魔界のブドウだったのか。なんという粒の大きいブドウだ。ともあれ、酒にありつけるのはありがたい。
少しだけ口にふくむ。
ああ美味い。
張りつめていた心が緩むようだ。思えばこの砦に来てから、神経がすり減るような思いしかしていなかったからな……
「美味いな」
ワインの感想が思わず口からこぼれた。
「美味しい? よかった」
魔女が笑う。
俺は……何度も魔女を見ようとして目をそらす。
この女は人間ではない。
魔人だ。
だが、姿は人間と変わらない。
肩から腕まで露出した若い女。なんというか、目のやり場に困る。
「あー……最初に出した手紙は、もうどこかの海岸あたりに漂着してるころかな」
俺はなにを聞いてるんだ?
あ、いや、とても重要なことだ。
「さあね。いままでに出した手紙が1500通くらいでしょ。1000通くらい海の藻屑になったと思うけど、さすがにもう何通かは誰かに拾われてんじゃない?」
「前から気になってたんだが、もしも竜王軍にあの手紙を拾われたらマズいんじゃないか。防水と浮力の魔法がかかった便箋が、何百枚も海を漂ってるんだぞ。さすがに怪しまれるんじゃないか?」
「ふふん、私の浮力制御魔法をナメないでよね。手紙はぜんぶ、海のなかを進んでんのよ。海流が人間界の海域に出たタイミングで浮上するように、魔力を調整してあんの」
「……すごいな」
「このくらい初歩中の初歩だっての」
「もうひとつ聞いていいか」
「なに?」
「ダークコンドル以外に、お前の使い魔はいないのか?」
「いないけど、なんで?」
「なんでって……砦から出るには、誰かに2枚の扉を開けてもらう必要があるからだ」
「外扉と内ドアのこと?」
「そうだ」
「それってなに? ダーコンのほかにもう1匹いれば、外扉と内ドアの両方を開けさせられるのにって意味?」
「それ以外にどんな意味があるんだ。くどいんだよ、言い回しが。ほかに使い魔はいないのか」
「いないよ。私がこの砦に収監されたとき、使い魔はぜんぶ竜王に殺されちゃったもん」
「なら、あのダークコンドルはなんだ?」
「ダーコンはここに来てから使役した魔物だよ。あれ1匹しかいない」
「だから! ほかにも使い魔を増やせばいいと言ってるんだ。2匹いれば……」
「バカ言わないでよ。魔物を使役するのがどんだけ大変か知ってんの?」
「黒魔術のことなんか俺が知るか」
「使い魔にする方法はふたつあんの。ひとつは使役される方から、する方に忠誠の誓いを立てんの」
「えーっと。自分からお願いするってことか? 自分を使い魔にしてくださいと?」
「魔界ではこっちのがポピュラーなんじゃないかな。長いものには巻かれろってね。竜王が魔界を支配できたのは、完全にこのパターンだね。あいつ、人望だけはものすごいし」
「もうひとつの方法は?」
「使役する魔物の誕生に立ち会う方法。魔物に、親として認められたら使役できるようになるの。あのダーコンは、たまたま配給物のタマゴが有精卵だったから。食べずに孵化させて、使い魔にしたわけ」
「じゃあハエでもミミズでも、この砦で調達できる生物を探せよ。うまくすれば、外から扉を開けれるように調教できるかもしれないぞ」
「ムリ。親という概念を理解できない生き物は、使い魔にできない」
「……」
「残念でした。ていうか、出来るもんならとっくにやってるっての」
「……くそ」
「さっきから私も気になってんだけど、聞いていい?」
「なんだ」
「弟は、私を抱きたいの?」
ガシャン。
コップを落としてしまった。
じっと俺を見据える魔女。微笑んでいる……テーブルのせいで、魔女の姿は胸から上しか見えない。それでも十分、煽情的だ。
息が詰まる。
アダンと対峙したときよりも、国王と対峙したときよりも、俺は圧倒されている。
「べつにいいよ、おいで」
微笑む魔女。
美しい、ミステリアスな女。
ゴク……!
俺は答えることもせず、ふらふらと立ち上がる。ほとんぼ呆然としながら1歩進んだ。
パリン!
コップの破片を踏んだ。それがどうした。
ジャリ、ジャリ。
近づくたび、テーブルに隠れていた魔女の体がどんどん露わになる。すらりと組んだ足は、肌をさらけ出していた。ベールのような生地の下に、うすいベージュのドロワーズを身に着けているらしい。
抱いていいのか、この女を。
本当にいいのか?
「おやおや。そんなところばかり見て、私をどうしようという気だえ」
ジャリ。
俺の足はそこで止まった。
「わっ!」
おもわず後ずさる。
ゾッと背中が冷たくなった。
「ひひ、私を抱いてくれるのかい。たいした物好きもあったもんだ」
魔女が老婆になっている。
目がくぼんで皺だらけになった、ガイコツを思わせる様相……まちがいなく90歳を超えている。その老婆が、あられもなく肌を見せつけて笑いかける。
「いいとも、おいでな。お前の好きにしていいんだよ。ひひひ」
「く、来るな! やめてくれ!」
ダッ!
俺は逃げた。
あまりの恐ろしさに食堂から飛び出した。さっきまで火を噴きそうだった体は、凍りついたように冷たくなっていた。
全力で部屋に戻った俺は、たまらずドアを叩き閉めた。さらに机をでドアをふさぐ。
バリケードだ!
バ、バリケードだ……!
恐ろしい。
お、おそろしい……ぜいぜいと息を切らす。
「あ、あの女……!」
猛烈に怒りがこみ上げてきた。
あの魔女め、また俺をからかいやがった。
「こ、殺してやる! 殺してやる!」
この砦の魔方陣が解けたら、あの魔女め。用済みになったら絶対に殺してやる!
ドスン!
ドスン!
魔女を八つ裂きにする妄想をしながらベッドで暴れまわるうち、俺は泣き疲れて眠りに落ちた。