絶望だった日々の①
嫌なオフィスにて。私はその日、いつもと同じように息しづらかった。上司から今日納期の仕事を振られ、それを悪い要領でだが全力でこなしていた。
「ねぇ、霧里さん、これやっといて」
ドサッと私の前に置かれた書類の束。会社の先輩の影倉さんがそれを無表情で指さす。私の心臓がキュッと絞められるような錯覚に陥った。
「い、いえ、すいません……、私部長から今日中にこれをやれって言われてまして……」
「はぁ? この仕事も急ぎなんだけど? この仕事もやって、部長からの仕事もやればいいじゃん!!」
異論は許しませんというほどに高圧的な影倉さんの言葉に私は委縮し、不本意ながらその仕事に取り掛かる。当然、部長からの仕事はできず、定時になった。
「おい、頼んでた仕事、どうなった?」
「あ、えっとすいません、できておりません」
「は? 今日中って言ってただろ? なんでできてないんだよ?」
上司の言葉尻は荒く、私は罪悪感でいっぱいになる。
「えっとえっと、影倉さんにこの仕事をやってって、言われまして……」
「お前の上司は誰だ? 影倉か? 俺の命令聞かねぇんなら影倉の部下になるか!!?」
怒号が飛ぶ。私は涙が出そうになる。
「私、霧里さんには部長の仕事が終わったらでいいって言ってたんですけどね……」
影倉さんがいつの間にか横に立っていて、優しい言葉でそう告げる。だが私に向けるその目は、私が影倉さんの名前を部長に対して出したことを怒っているかの如く、冷たかった。
「どうすんだよ、俺の仕事?」
「今日中に終わらせます」
「あ? 残業なんか許さねぇからな? 残業代を抑制しろって会社から言われてるんだよ」
泣きそうで、目がウルウルする。最近の会社の方針は残業規制、すなわち残業代を支払いたくないから、残業を社員にさせないというもので、それを部長は精一杯全うしようとしている。
「分かってます。残業はしません。でも、今日中に終わらせます」
私はそう言い、タイムカードを切った。こうすることで私は帰宅したこととなり、残業は発生しなくなる。私はその状態で残って業務を進める。仕事が終わったのは23時で私は他に誰も残っていないオフィスの電気をきって、家に向かう。
そんないつも通りの日だ。特に珍しくもない、私にとってありきたりの日だ。会社で周りから無能と評されている。
そこで、私は目覚めた。冷や汗が出ている。目からは涙が出ている。最悪な夢だった。だが、それは単に嫌な夢というわけでなく、過去の私の社会人時代に確かにあった事実だ。
そして目が覚めた私は思った。
”死なないと”
丑三つ時くらいだろう。私はもはや眠れるはずもなくなった脳でなんとかかんとかそれだけ思った。里美さんも寝てるだろう。お世話になったのは認めるが、それは里美さんの自己満足で、私には関係ない。
ごめんなさいだけど、私は行きます。過去の記憶。それは私にあの苦しかった日々を思い出させるのに十分すぎていた。
私はそろりそろりとだが足早に外に向かう。懐中電灯を里美さんに借りており、それを極力つけないように、外に向かう。
そして外に出た。空は相変わらずの満天の星空で、満月すらも輝いている。里美さんにばれないように忍足で歩く。家の前の川まで歩いた折、不思議な現象を目の当たりにした。
「火の玉?」
そう間違えそうになる光の球が、無数にふわふわと宙に漂っていた。なんだあれ?
私は思案する。ふわふわと川のあたりを浮かぶそれを一目見たく、私は川の方に向かった。
「やっぱり眠れなかったかい? 凛子ちゃん」
ふいにその声が聞こえ、私は”ヒッ”と声を上げた。光の球の中心にその光の球を操るかの如く、里美さんが手を宙に向け、岩に座っていた。
「これ、なんですか?」
何故ここにいるのか? なんでこんな時間に起きているのか? そんな疑問より先んじたのは、その言葉だった。
「はいこれ」
里美さんはその手の平で光の球を優しく覆うように、両手で隠した。その手は内側から光が漏れていた。その手を里美さんは私の方に向け、開いた。
そこには頭が赤色でお尻を発光させている虫がいた。
「蛍ですか?」
「うん、綺麗な川にいるんだよ。七月も半ば。もうじき彼らの時期も終わる。今が最後の輝き」
里美さんは静かにそう告げる。
「さて、凛子ちゃん。ここに来た理由が蛍を見るためじゃないことは分かってる。死にに行くんでしょ」
私はうなだれ、静かにだが確かに告げる。
「はい……」
「そうか」
里美さんは大きくうなずいた。
「いや、申し訳ないね。凛子ちゃんは死ぬって決めてこの村まで来たのに、それを無責任に止めちゃってさ」
そうだよ。本当にその通りだよ。私はそう思った。
「でもさ、一つ聞かせて。凛子ちゃんは死にたいの? それとも、死ぬしかないから死ぬの?」
私は手を強く握る。涙が溢れた。自然と、溢れた。
「私、要領が悪くて、生きていてもみんなに迷惑かけるだけだから、だから、死ぬしか……ないんです。生きて……いても……迷惑をかける……だけだから。死ぬのは……怖いけど……死ぬしか……ないんです」
里美さんは優しく微笑んだ。数多の蛍に照らされるというその幻想さも相まって、その様はまるで天女のように見えた。