時間泥棒の遺言
お楽しみください!!
薄明。灰色の雲が空を覆い、太陽は鉛色の円盤のように霞んでいた。街路樹の葉は湿気を帯び、アスファルトに暗い影を落としている。世界はまるで、色褪せた古い写真のように静まり返っていた。
パリのカフェ、"Le Temps Perdu"(失われた時間)。普段なら朝食を楽しむ人々で賑わうこの場所も、今朝は異様な静けさに包まれていた。
マダム・デュボアは、カウンターに突っ伏したまま、微かに震える肩を震わせていた。彼女の顔には深い皺が刻まれ、その目はまるで底なし沼のように暗く淀んでいた。彼女は昨日、愛犬の葬儀に出席したはずだった。しかし、その記憶はまるで霧散した夢のように曖昧で、確かな感触を掴めずにいた。
隣のテーブルでは、若いカップルが互いの顔を見つめ、困惑した表情を浮かべていた。彼らは昨夜、プロポーズの瞬間を過ごしたはずだった。指輪、ひざまずいた彼の姿、そして彼女の涙…すべてが霞んだ記憶の彼方に消え去っていた。男はポケットから小さなベルベットの箱を取り出した。中には、きらりと光るダイヤモンドの指輪。だが、その指輪にまつわる記憶は、彼の中で既に失われた断片となっていた。
カフェの入り口から、黒いトレンチコートを着た男が入ってきた。彼の顔は影に隠れてよく見えない。男はカウンターに座り、低い声でコーヒーを注文した。マダム・デュボアは男に視線を向け、何かを言おうとした。しかし、言葉は喉の奥で詰まり、声にならない。男はコーヒーカップを手に取り、ゆっくりと口に運んだ。その唇には、かすかな笑みが浮かんでいた。
街の喧騒、子供たちの笑い声、クラクションの音…すべてが消え去った世界。人々は昨日の記憶を失い、まるで幽霊のように街を彷徨っていた。失われた時間は、一体どこへ消え去ったのか?そして、黒いトレンチコートの男は、この異変に何らかの関係があるのだろうか?
この静寂は、嵐の前の静けさなのか―――――――
それとも、永遠に続く静寂の始まりなのか―――――――
カフェを出た男は、セーヌ川沿いをゆっくりと歩いた。彼の名はクロノス。人々からは“時間泥棒”と呼ばれ、恐れられていた。だが、彼自身は自らを“時間の彫刻家”だと考えていた。
クロノスは、特殊な懐中時計を所有していた。それは、彼が幼い頃に亡くなった祖父の形見だった。一見普通のアンティーク時計に見えるが、竜頭を巻くと針が逆回転し、周囲の時間を巻き戻すことができるのだ。ただし、巻き戻せる時間はごくわずかで、しかも範囲は半径数メートルに限られていた。
しかし、クロノスは祖父の遺した研究ノートを解読し、時計の真の力を引き出す方法を発見した。それは、人間の“記憶”を媒介とすることで、より広範囲の時間を操作できるというものだった。
彼はカフェで、人々の記憶を少しずつ、まるで砂時計の砂を落とすように盗んでいた。人々が昨日の出来事を思い出せないのは、彼らの記憶がクロノスの懐中時計に吸収されているからだった。
セーヌ川に架かる橋の上で、クロノスは立ち止まった。彼の視線の先には、ルーブル美術館のガラスのピラミッドが鈍く輝いていた。
「もうすぐだ…」とクロノスは呟いた。
彼の目的は、単に人々の記憶を盗むことではなかった。彼は、ある特定の“時間”を消し去ろうとしていた。彼の目的を果たすためには膨大な量の“記憶”が必要だった。
クロノスは懐中時計を取り出し、竜頭をゆっくりと巻いた。針が逆回転を始めると、周囲の空気がかすかに歪み始めた。まるで、現実世界のフィルムを巻き戻しているかのように。
その時、彼の背後から声が聞こえた。
「待ちなさい!」
振り返ると、そこに立っていたのは、鋭い視線を持つ女性だった。彼女は、ベレー帽をかぶり、カメラバッグを肩にかけていた。フリージャーナリストのソフィー・ルブラン。彼女は数週間前から、街で起きている奇妙な現象を追っていた。そして、ついに時間泥棒の正体にたどり着いたのだ。
「あなたは、人々の時間を盗んでいる。なぜそんなことをするの?」
ソフィーは毅然とした態度でクロノスに問いかけた。クロノスは不気味に微笑み、「私は時間を盗んでいるのではない。彫刻しているのだ」と答えた。
「彫刻?」
ソフィーは眉をひそめた。
「人々の記憶を奪い、過去を改変することが、彫刻だと?」
クロノスは懐中時計を掲げ、その針が刻む逆回転の時間をソフィーに見せつけた。
「時間は線ではなく、塊だ。彫刻のように削り、形を変えることができる」
ソフィーはカメラバッグから小型カメラを取り出し、クロノスに向けた。
「あなたの歪んだ芸術は、ここで終わりよ」
クロノスは肩をすくめた。
「君に何が出来る?」
ソフィーはシャッターを切った。フラッシュの光が、セーヌ川の水面に反射した。すると、不思議なことが起こった。クロノスの懐中時計の針が、一瞬止まったのだ。
「光…?」
クロノスは呟いた。まるで、何かに気づいたように。ソフィーは、クロノスの懐中時計が、光に弱いことを直感的に理解した。それは、祖父の形見であるアンティーク時計であるが故の弱点だったのかもしれない。あるいは、クロノス自身も気づいていなかった、時間操作のメカニズムに潜む盲点だったのか。
「あなたの時間は、もう終わりよ」
ソフィーは、連続でシャッターを切り続けた。フラッシュの光が、クロノスを包み込む。彼は顔を歪め、苦しげな声を上げた。懐中時計の針は、逆回転を続けようとするが、光の干渉によって、その動きは阻害されていた。
「やめろ…!」
クロノスは叫んだ。彼の体が、かすかに揺らぎ始めた。まるで、消え入りそうなロウソクの炎のように。ソフィーは、カメラのシャッターを切りながら、クロノスに近づいた。
「あなたは、奪った時間を返すべきよ」
クロノスは、もはや抵抗する力も残っていなかった。彼の体は、光に溶けるように、徐々に薄くなっていった。そして、最後に残ったのは、彼の懐中時計だけだった。
ソフィーは、ゆっくりと懐中時計に手を伸ばした。時計は、まだ温もりを帯びていた。まるで、クロノスの残留思念が宿っているかのように。
その時、時計の針が、再び動き始めた。しかし、今度は逆回転ではなく、通常の回転だった。そして、周囲の景色が、歪み始めた。
ソフィーは、何かが起こっていることを悟った。クロノスが奪った時間…人々の記憶が、戻りつつあるのだ。
セーヌ川沿いのカフェから、笑い声が聞こえてきた。子供たちの遊ぶ声、車のクラクション…街に、活気が戻ってきた。
ソフィーは、安堵の息を吐いた。彼女は、世界を救ったのだ。
しかし、彼女にはまだ、解決していない疑問が残っていた。クロノスは、なぜ過去を消し去ろうとしていたのか?彼の過去には、一体何があったのか?
そして、ソフィーの手にある懐中時計は、静かに時を刻み続けていた。まるで、新たな物語の始まりを告げるかのように―――――――
ソフィーは、クロノスが消える間際に残した懐中時計を手に、パリの街をさまよっていた。人々の記憶は戻り、街には活気が戻っていたが、ソフィーの心には、まだ拭えない疑問が残っていた。クロノスは一体何者だったのか?なぜ、人々の記憶を奪う必要があったのか?
手がかりは、この懐中時計しかない。ソフィーは、時計の裏蓋を開けてみた。そこには、小さな刻印があった。
「Pour Dubois…」
デュボア?あのカフェの、マダム・デュボアのことだろうか?
ソフィーは、"Le Temps Perdu"を訪れた。マダム・デュボアはカウンターに立ち、いつものようにコーヒーを淹れていた。記憶が戻った彼女は、以前よりも穏やかな表情をしていた。
「マダム・デュボア、クロノスという男を知っていますか?」
ソフィーは単刀直入に尋ねた。マダム・デュボアの手が、一瞬止まった。そして、ゆっくりとコーヒーカップをカウンターに置いた。
「クロノス…ええ、知っています。彼は…私の息子でした」
ソフィーは息を呑んだ。時間泥棒クロノスは、マダム・デュボアの息子だった?
マダム・デュボアは、語り始めた。
クロノス、本名アントワーヌは、幼い頃から病弱だった。そして、彼女自身も重い病を患っていた。アントワーヌは、母の苦しみを和らげるため、時間を操る研究に没頭するようになった。
彼は、祖父の形見の懐中時計に、時間操作の能力があることを発見した。そして、その力を使い、母の記憶から、病の苦しみを消し去ろうとしたのだ。
しかし、彼の方法は間違っていた。記憶を操作することは、時間を歪めることに繋がった。人々の記憶を奪うことで、彼は世界を混乱に陥れてしまった。
「アントワーヌは、私のために…すべてを犠牲にしたのです」
マダム・デュボアは、涙を流しながら語った。
ソフィーは、クロノスの真意を知り、言葉を失った。彼は、世界を滅ぼそうとした悪人ではなかった。愛する者を救おうとした、悲しい男だったのだ。
ソフィーは、マダム・デュボアに懐中時計を返した。
「これは、あなたに返すわ」
マダム・デュボアは、懐中時計を手に取り、静かに見つめた。時計の針は、規則正しく時を刻んでいた。まるで、アントワーヌの鼓動のように。
カフェの窓の外では、人々が笑い、語り合い、生きていた。失われた時間は、戻ってきた。しかし、アントワーヌの時間は、二度と戻ってこない。
ソフィーは、カフェを後にした。パリの街は、夕日に染まり、美しい光に包まれていた。しかし、その光の中に、ソフィーは、一抹の悲しみを感じていた。
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この作品は自分でも書いていて納得のできる作品でした。
この作品を読んだことでみなさんの時間が少しでも有意義な時間になれば幸いです。
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