幽霊は眠らない①
いなくなった人の思い出というのは、いつの間にか美化されているもので、それが親しみを抱いていたり尊敬していた人となればなおさらである。その人のことを周囲の人たちは忘れてしまって、最初からいなかったような顔をしてるけど、案外折りある度にふと思い出してるんじゃないだろうか。
いや、たとえみんなが忘れてしまっても、僕にとってかけがえのない人だったのは確かなのだ、鈴木先輩……
「鈴木先輩、あなたのことが忘れられません。今でもあなたを思い出すと、体の芯が熱くなります」
「て、何変なこと言ってるんですか。てか、何勝手に覗いてるんですか」
「いやあ、悪い悪い」と、戸田さんは片手で謝って、もう片方の手に持っていた書類の束を僕の机に置いた。
「じゃあこれ、候補の飲食店ね。場所ごとにまとめて。印がついてないのは企画書の返事もらってないところだから、明日電話で確認」
『不況知らず!行列のできる激安グルメツアー』と名のついた企画書を一番上にして、書類をまとめているときにも、戸田さんの視線がノートパソコンの画面に釘付けになったままなのに気づき、慌てて画面を閉じた。
「ブログやってるならアドレス教えてよ」
「ブログじゃなくて日記ですよ。公開してない普通の日記をパソコンで書いてるだけです」
「へー、変わってるねえ。いや、考えてみればいたって普通のことか」
「覗き見なんて趣味悪いっすよ」と、僕が蒸し返すと、「フフフ、君のことだから新しい企画書でも書いてるんじゃないかと気になったまでさ」と、妙な具合に返されて、何も言えなくなってしまった。
戸田さんは、僕が構成作家になりたいことを知っている。同じ派遣会社から同じ制作会社に回されてきたよしみで、つい将来の希望をばらしてしまったのだが、その日から作家志望の件で妙に絡まれている。ちなみに、ここでは数日僕が先輩になるが、戸田さんのほうが年齢もADとしてのキャリアもずっと上だ。だから僕としては、それなりに相手に敬意を払ってるつもりだけど、なんだか戸田さんは変わっている。
ADになろうと思うやつなんてみんな変わっているというのは、鈴木先輩の言だが、戸田さんはそういうのとは別の次元でずれていて、端的に言えば、あえて人からみくびられるような行動をとるのだ。そもそも戸田さんは、昼間はあまりしゃべらない。中途半端な長髪に、縁が壊れた眼鏡をかけていて、いつもニタニタ気味の悪い笑いを顔に貼り付けているから、みんなに幽霊と呼ばれている。それが僕しかいないような、いわばオフの状態になると、俄然おしゃべりになる。業界人らしくない業界人なのだ。
今だって憮然としている僕に一向構わぬ様子で、自分の席から毛布を持ってきたかと思うと、僕の足元近くの床にそれを敷いて、どうやらそこを今夜の寝床にするつもりらしい。
「もっと別の場所に寝ればいいじゃないっすか。こんなに空いてるんだから」と言って、僕は誰もいないガランとした空間を見回した。
社員派遣バイト合わせて40人近くいて、昼夜にかけてはいろんな外部の人間が出入りするため、それなりに広い会社ではあるが、深夜1時ともなるとみんな帰宅してしまって、泊り込みのADくらいしかいない。
「寂しいこと言うなよ。一緒にいたほうが何かと楽しいだろ?」
まだ仕事が残っている人間が、これから寝る人間と一緒にいて楽しいとも思えないが、言うに任せて放っておいた。すると、戸田さんはカメラや三脚、それに撮影で使った様々な小道具が置いてある倉庫のドアを開けて、中に入っていった。何をやってるのかと思えば、「君もどうだい?」と声をかけてきて、その伸ばした手にはビールの缶が握られている。倉庫には小型の冷蔵庫もあって、そこに飲み物やらおやつを勝手に入れている人もいる。
僕はかぶりを振り、うんざりした顔でパソコンに向きあった。
戻ってきた戸田さんは、「お、やってるね。結構結構」と言って、デスクに炭酸のジュースを置いた。
僕はありがたく頂戴し、一口飲んだ。戸田さんは、僕の右隣りになる加賀谷Dの席の椅子を引いて、そこに座った。乾き物のスルメを口の端にくわえ、じっと横顔を見てくる。
まだ眠らないのか、このおっさんは。
僕の苛立ちを知ってか知らずか、視線を正面に外した戸田さんは、頬杖をついて遠くを見ている。
「君は鈴木君を尊敬してたんだねえ」
鈴木先輩の名前が出たので、思わずキーボードを打つ手を止めた。
「今も尊敬してますよ。なんでですか?」
「いや、まあいろいろと」と言いかけて、話を中断するためにか、またスルメを一つくわえた。
「気になる言い方ですね。鈴木先輩に何かあったんですか?」
「長くやってるといろんな噂を聞くからね」と言ってから、急に真顔になって、「彼はなかなかできる人だった」と、意味深な口調で呟いた。
ADの良からぬ噂というと……カラの領収書で使い込み?あるいは備品の横流し、横領……いやいや、鈴木先輩は金に綺麗な人だった。とすれば、女関係?タレントに手をつけた、くらいはまあ聞かない話じゃないが、会社が持ってる情報でストーカーをやったとなるとかなりまずい、他には未成年の子に……
だんだん嫌な想像につながっていくのに、戸田さんは気づいたみたいで、「いやいや、犯罪めいたことじゃないよ。よく知らないが、夢みたいな話さ」と、慌てて誤魔化し、話を一方的に打ち切ってしまった。
「そういや何で戸田さんはディレクターにならないんですか?」
鈴木先輩の件では、話が広がりそうにないのでこちらから別の話題を振った。
「何でってなんで?」と、戸田さんは腑に落ちないという表情で、こちらを見返した。
「だって、もうディレクターになっても良さそうなもんじゃないですか。今年33でしたっけ?
仕事も充分できるし」
「君に仕事のことで認められるとはねえ」と言い、フフフと笑った戸田さんを見て、僕は偉そうなことを言ってしまったと、少し恥ずかしく思った。
もちろん、入って1ヶ月の僕が、経歴不詳とはいえ明らかに何年もキャリアがある戸田さんと、肩を並べようなどというおこがましいことは思っているわけではなく、ただ純粋にディレクターにならないのが、もったいないと思っただけなのだ。
戸田さんもそれを察したようで、「気にすることはないよ。確かにディレクターになることはADの最大の目標でもあるからねえ」と、他人事のような口調で言った。
「というか、ディレクターになれるという希望があるから、ADなんてやってられるんじゃないですか?」
「ADなんて、ですか。ひどい言われようだな」と、戸田さんは笑って続けた。
「しかし、考えてごらんよ。ディレクターになれば、収入は増え、仕事でも権限を発揮できるけど、代わりに全部自分の責任になっちゃうよ。その点、ADは気楽なもんじゃないか」
「でも、人扱いされてないじゃないですか。機械、ていうより、おもちゃみたいなもんですよ。俺らなんて」
僕は戸田さんが座っている、加賀谷Dのデスクに視線を送った。
「君はだいぶ加賀谷さんにやられてるようだね。まあそれは愛されてる証拠だよ」
「どうなんでしょうかねえ。わかりませんが」
加賀谷Dと対立していた鈴木先輩を思い出して、僕が押し黙っていると、「気楽にやろうよ。僕みたいになれば楽しいよ」と言って、戸田さんはプルタブを引く音を豪快に響かせ、ごくりごくりと喉を鳴らした。
「周りはみんな出世していくのに平気でいられるんですか?」
「フフフ。焦っているのは若い証拠。悟りの境地に達すれば、他人がいい仕事したって、何あいつはまだ若いから、経験を積ませるために、俺が仕事を回してやったんだと思って、平然としてられるよ」
「そんな境地に達したくないですよ」
「フフフ。これから君もどんどん仕事ができるようになるからね。たくさん仕事を回させてもらうよ」
「そうなる前に、早く出世できるように頑張りますよ」
やはりこの人はよくわからない。必要以上に付き合っていては駄目だ。自分で考えてしっかりやらないと。(②に続く)