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空も飛べるはず

「いかに不況の世の中とはいえ、口に糊する手段はいくらでもある。テレビ番組制作会社のADなど、もっとも落ちぶれた人間のする仕事だ」

 電話対応の仕方や企画会議で使う資料の作り方など、仕事のイロハを教えてくれた鈴木先輩は、最後にそう言い残し5年間いた会社から去っていった。

 勤めて1ヶ月、つまりは1ヶ月間の付き合いしかなかったとはいえ、鈴木先輩の人柄を密かに慕ってた僕は、少なからず衝撃を受け、途方にくれた。

 しかし、僕よりはるかに長い間、仕事で苦楽をともにしたはずの人間たちの反応は冷たかった。

「あー、鈴木君、これリストにして、人数分コピーって、いないんだっけ」

 ひとりごちた加賀谷ディレクターが、空席にちらと視線をくれた後、何の感慨もないといった様子でパソコンに向かい直したのには恐怖さえ覚えた。男勝りの加賀谷Dが、同い年の鈴木先輩に何でも仕事を押し付けたのがやめた原因とも言われてるのに。

 そうか。格差ってこういうものなのか。

 ADになる以前はニート生活にどっぷりつかっていた僕が、近頃頻繁に耳にする言葉の意味を知ったのはそのときだった。

「去るADは追わず、されど仕事は回る、だよ。瀬戸君」

 同じ派遣会社から入って、あまりの性格の暗さに幽霊と呼ばれている戸田さんは、並んで小用をたしてるときに、気味の悪い薄ら笑いをこちらに向けて呟いた。

「せとおおおお、しりょおおおお」

「はい、いますぐに!」

 おちおち小便もさせてもらえないのか。走りながらハンカチで手をふく。ちょっとでも遅れると、加賀谷Dのカミナリが待っているからだ。

 AD暇なし、である。


 誰だってテレビ番組を見ながら、一度は言ったことがあるはずだ。

 こんなくだらねえ番組。

 そう、そんなくだらない番組を作ってるほうはもっとくだらない。

「走るぞー。瀬戸よーい」

「いきまーす」

 背中にでかいタコを背負わされて、坂になってる土手を懸命に駆け下りる。

 僕は運動部に属したことはなく、体育の成績も3しかとったことがない。

 もつれる足にどうにか折り合いをつけ、ここぞというタイミングでジャンプを試みるが、わずかにも浮かぶことはなく、地面にダイブをかますことになる。

 ズザザザザザッ。

 転がり落ちる衝撃はすべて肉体へのダメージに換算され、僕は苦痛に顔をゆがめる。

 無理だ。絶対に無理。人間が走って飛ぶわけがない。ちょっと考えればわかるはずだ。巨大タコで空を飛ぶだって?こんな検証企画、時代錯誤もはなはだしい。真面目にやるほうがどうかしてる。

「ダメっすねえ。全然飛んでません」

「ホントお?もうちょっと、角度とかで飛んでる感じになんないかなー。キャメラマーン」

 プレビューを確認した加賀谷Dは、地面に手をつき肩で息する僕の尻を蹴って、「ほら、飛ぶまでやるぞ。気合気合」と、喝を入れる。

 いやー、無理っすよ、こんなもん。なぜ無理かって簡単な物理で説明できますよ。あんた頭おかしいんじゃないの?

 なんて言えるわけがない。そうさ、そんなことはわかりきっている。

 まずADは何を言われても無理と言わないこと。鈴木先輩が最初に教えてくれたことだ。

 だからやる、やりきるしかない。たとえどんなに馬鹿げた企画でも。

 ふらつきながら立ち上がり、土手の上に向かおうとする僕の肩を、「ちょい待ち」と言ってつかんだ加賀谷Dは、何やら思いついた顔である。

「じゃあさ、タコに絵を描いて、気合いれるってのはどうだろう」と言われて、みんな少し戸惑った顔をするが、「あーなるほど」と、カメラさんは理解したようである。

 僕も理解した。つまりは、ネタにもっていこうということか。

 飛ぶことは不可能でも、何か絵を用意しろと上からクレームがつく。

 だから笑いってことですね。さすが仕事ができる加賀谷D。ははは、笑われるのは僕なんだけど。

 美術の成績は常に5だったという加賀屋Dが、サインペンを楽しそうに走らせる様子を見ながら、待つこと十数分。出来上がったタコに描かれていたのは、完璧な般若の顔だった。

 なんで般若?

 周りは絵の出来に感心しているが、背負わされる僕はどん引きである。

「般若ってなんかよくない?気合って感じがするし。昔から好きだったんだよねー般若」と、加賀谷Dは絵を見ながら得意げに言う。

 それは同類だから共感できるってことですか?

 なんて冗談を言えるわけもなく、土手の上に立った僕はキューの合図で走りだす。

「いけー!もっと、もっと。般若が迫ってきてると思って」

 いや、般若よりあなたのほうが怖いです、加賀谷D。

 本日何度目かのダイブ、というよりもうヘッドスライディングに近い。結果は当然変わることなく、生傷は増える、心はすさむ。空を飛ぶ代わりに、地面に這いつくばった僕に容赦のない怒声が投げかけられる。

「もっと気合いれろー!」

 気合でどうにかなれば簡単な話だ。だが、こうなった以上はもういくとこまでいくしかない。

「ほら、もう一回!」と言われる前に立ち上がり、元いた場所へと駆け上がる。

「うわー何あれ、きもーい」

 走りだす直前、下校途中で通りかかった女子中学生からそんな言葉が聞こえてきた。

 そりゃそうだろ。般若を背負った傷だらけの男が、全力で土手を走っていてきもくないわけがない。てか、きもいとかきもくないじゃないんすよ、もうなんか全部違うんすよ。

 誰に対して言い訳してるのかもわからず、無我夢中で走る。

「よーし、あれだ、もう服を脱げ、脱いで軽くなるぞ」と、加賀谷Dはさらに調子に乗る。

「それはさすがにまずいっすよ、人目もあるし」とカメラさんが止めた。

 だが、僕はもう上着を脱ぎ、ズボンのベルトに手をかけていた。

 ディレクターのいうことは絶対。それも鈴木先輩が教えてくれたことだ。間違ってないっすよね、先輩。

 パンツ一丁で身軽になった僕は、再び走りだした。もう誰にも止めることはできない。

 こんな映像どうせお茶の間に流せるわけないんだ。企画会議でプレビューとして見られて、スタッフみんなに笑われて終わるだけだろう。

 だが、それがいい。一瞬であればこそ、輝きは力を増す。笑いとはそういうもんだ。

 いつの間にか僕たちを見守る人垣ができていた。人気者にでもなったのかという勘違いは、長くは続かない。遠くからサイレンが聞こえてくる。

「やばい、サツだ!撤収するぞ、撤収」

 叫びながら逃げる準備をする加賀谷Dを、「ちょっと待ってください」と言って、僕は止めた。

「警察に追われながらだと気合入るじゃないっすか。それで飛べるかもしれません」

 僕の申し出に加賀谷Dは目を輝かせた。

「その発想はなかった……瀬戸、大きくなったな!」

 大きくうなずいた僕は、急いでスタート地点へと戻る。キューで走りだしたときに、ちょうどパトカーから警察官が降りてくるのが見えた。

「いけー、せとおお、最後の仕事だと思えええええ」

 どんどん体が軽くなっていく。本当に空を飛べるかもしれない。頭が空っぽになって、しかし空っぽになったと思った頭のど真ん中に、たった一つの命題がはっきりと浮かんだ。

 すなわち、我とはなんぞや。

 人前で馬鹿げたことをするのを恥ずかしがっていた僕に、鈴木先輩は言った。ADは恥を捨てなければ駄目だ。それも仕事だ、と。

 そんなことができるのかと戸惑う僕に、大丈夫最後は乗り越えられる人間しかここにはこないよと言って、笑っていた鈴木先輩。彼はもういない。

 おそらく鈴木先輩は、最後の最後で乗り越えられなかったんじゃないのか。

 我とはなんぞや、という壁を。そして僕もまた。


 巨大タコで空を飛ぶことはできないという、あまりにも自明な真理にたどり着くには、ずいぶん回り道をした気がする。

「じゃあ、ちょっと、君たち二人は警察で事情を聞かせてもらうからね」と言う年配の警察官に、「はい、すみませんでした」と、素直に反省した態度を見せた加賀谷Dだったが、僕と一緒にパトカーの後部座席に乗り込む直前、「またお蔵になっちゃったよ」と、こっそり笑って舌を出した。

 狭い空間ではあったが座席に着くや否や、疲労のあまり眠りに落ちそうになった僕を見て、助手席の若い警察官は、「ADの仕事って大変ですね」と、ルームミラー越しに苦笑した。

 ははは、大変なんてもんじゃないですよ。と、あちこちにできた傷を手で確かめつつ、心のなかで返答する。

「瀬戸、プレビューのときのBGMどうしよっか?あたしは、スピッツの空も飛べるはずがいいと思うんだけど」と、小声で話す加賀谷Dは慣れた顔で、パトカーに乗っていることも忘れさせる。

 そうね、空も飛べるはず。

 ぼんやりした頭にサビのメロディーがリフレインする。


 君と出逢った奇跡が この胸にあふれてる

 きっと今は自由に 空も飛べるはず


 あの鈴木先輩がやめた仕事を、僕が続けていけるのだろうか、この先。

 不安になる反面、ほとんど裸の男が坂を駆け下りる絵のBGMにスピッツを使うなら、ギャップがあって面白いかもしれないなあなどと考えてしまうのは、仕事に馴染んできたせいだろうか。

 気づいたら、もう日は落ちていた。街の装いは近づく冬の気配を感じさせる。窓に映る景色に重なる僕の表情は、自分でさえ何を考えているのか読み取れなかった。

 ただ、そこに現れては消えるヘッドライトのように、我という文字が頭のなかに浮かんでは消えていった。

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