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学生百合

うたちゃん先生とわたし

作者: 遠井音

「せかい」


 自分でも聞き逃してしまいそうなほど、小さな小さな声だった。

 美術室の真ん中の机には、ワインの空き瓶と、りんごと、ボックスティッシュが置かれている。


「世界?」


 うたちゃん先生は、わたしの言葉をそのまま繰り返してわたしに訊ねた。

 わたしは頷く。

 美術室には、わたしとうたちゃん先生の他には誰もいない。

 わたしは鉛筆を滑らせる。

 しゃっ、と音がする。

 白いカンバスの上に、黒い鉛筆の線が引かれる。

 鉛筆の線をたどるように伸ばす。

 ワインの瓶の曲線をえがく。


「美術室の中だけが、せかいだったらいいのに」


 教室に行けなくなった。

 それらしい理由があればよかったのに、わたしには何もなかった。

 何もないのに教室に行けないので、親も担任も困りきっていた。

 わたしだって困っていた。

 冬には高校受験があるのだから、元気に毎日きちんと登校して、教室の自分の席について、授業を受けたかった。

 それなのに学校に来るだけで疲れきって、教室に向かおうとすると脚が震えた。

 泣きながら下駄箱の前でうずくまったのを、恥ずかしいと思う気持ちはある。

 今だってそうだ。

 こんなふうにしか生きられないわたしを、わたしはいつも恥じている。


「江田さんは、絵が好き?」


 うたちゃん先生は、先生用のデスクに向かって絵を描いていた。

 大きな白い紙に、ミリペンで小さなキャラクターをたくさん書き込んでいる。

 うたちゃん先生は、ここのところずっとその絵を描いている。

 わたしはワイン瓶を描きながら、「わかんない」と返した。

 うたちゃん先生は、そっか、と言うだけだった。

 わたしは瓶の輪郭を描き、影を描き込もうとした。

 そこで、手が止まった。


「ねえ、うたちゃん先生。瓶の陰影って難しくない? 窓から入る太陽のひかりの角度って、刻一刻と変わっていくのに」

「いいところに気づいたね。そう。なんとひかりは切り取れない」


 なぜか嬉しそうにうたちゃん先生が指を鳴らす。

 それからスケッチブックを持ってわたしの横に座り、しゃっしゃっと紙の上に瓶の輪郭を描く。

 まるで魔法のようだった。

 うたちゃん先生の手によって、白い紙の上に瓶が表れる。


「うたちゃん先生、絵うまいね」

「美術の先生だからね」

「わたしも美術の先生になろうかな」

「お、いいね。あたしみたいな先生になりたい?」

「うーん、そういうんじゃない」

「あはは」


 うたちゃん先生の鉛筆が、次々と線を描いていく。

 まちがいなんてどこにもないような手つきだった。


「このぐらいまで描いたら、ひかりのあたりをつけるの」

「むつかし」

「江田さんならきっとできるよ。とても上手だもの」

「そうかなあ」

「そうだよ。あたしが中学生のときより、ずっと上手」

「お世辞だ」

「お世辞じゃないよ」


 保健室登校もカウンセリングルーム通いもうまくできなくて、わたしが行き着いたのは美術室だった。

 美術の授業のない時間を、こうしてうたちゃん先生と一緒に絵を描いて過ごし、授業があるときには隣の美術準備室に引きこもって教科書や参考書をひらく。

 うたちゃん先生は、わたしに何も言わなかった。

 どんな悩みがあるのかとか、勉強に問題はないのかとか、そういう、先生や大人じみたことは何も訊かなかった。


「うたちゃん先生、失敗したことある?」

「あるよ。たくさんある」

「うそだあ」

「ほんとうだよ」

「絵も失敗したことある?」

「あるよ」

「そうなの?」

「そうだよ」


 うたちゃん先生の瓶はすぐさま完成した。

 わたしはそれをまじまじと見つめる。

 輪郭、影、ひかり。

 すべてが完璧に描かれていた。

 わたしは自分の絵とうたちゃん先生の絵を交互に見た。

 自分の絵に足りないものが、少しずつ浮かび上がってくる。

 わたしは手を伸ばして、そっと線を足した。

 うたちゃん先生の絵を参考にしながら、瓶を眺めて、描くべき線を確認する。


「うたちゃん先生の描いた、へたな絵とか見たいかも」

「いいよ。家にたくさんあるから持ってきてあげる」


 紙と鉛筆によって絵ができることが、ふしぎなことのように思えた。

 しゃっしゃっとわたしは線を引いていく。

 線を濃くして、影を描き込む。

 ひかりのあたる部分と、あたらない部分との差をつける。


「うたちゃん先生」

「うん?」


 ひかりはまぶしくて、正しかった。


 絵を描く手を止める。


「こわいの」


 太陽のひかりが窓から差し込んでいる。


「こわい?」


 ひかりのあたるところへ行きたいと思った。

 ここは影だ。

 ひかりのあたらない面、線と線の交差の間、誰にとっても意味のない、暗い場所。

 でもわたしは、ここにしかいられない。

 ひかりに憧れるのにひかりがこわくて、せかいがこわくて、どこにも行けなかった。


「逃げたい」


 言葉にすると涙がこぼれた。

 ぼろっと落ちたしずくを見下ろせば、次々に涙があふれてくる。

 ぼろぼろと透明な水滴が落ちていく。


「どうして、だめなんだろう。嫌なことがあるわけじゃないのに。つらいことがあるわけじゃないのに、わたしは、どうして」


 いじめられているとか、勉強についていけないとか、それらしい理由があればよかった。

 わたしのこころに、感情に、名前をつけてほしかった。

 誰かにそれらしい言葉で、わたしのこころをえがいてほしかった。

 そうしたら、その通りのものになる努力をするのに。


 わたしはどうしたらいいんだろう。

 どうなったら正解なんだろう。

 わからなくて途方に暮れてしまう。


「わたしは、わたしが、きらい」


 ああ、そうだ。

 わたしはわたしのことが嫌いなのだ。

 そのことを理解する。


「わたしから逃げて、わたしは、わたしじゃないいきものになりたい」


 たとえばわたしがうたちゃん先生みたいに絵がうまかったら。

 そうしたらわたしは、わたしを誇ることができたのだろうか。

 わたしは、わたしじゃなくなりたい。


「歌うことが、苦手だったんだ」


 うたちゃん先生が、小さな罪を告白するように言った。

 わたしは涙でべしょべしょになった顔をうたちゃん先生に向けた。


「……歌?」


「そう。両親が、歌が得意で、あたしにも歌という名前をつけたの。だからあたしも歌が得意になりたかった。でも、どうしても上手に歌えなかったの」


 うたちゃん先生は、わたしの頬をやさしく撫でた。

 わたしはゆっくりとまばたきをする。

 涙のしずくが、そのたびに落ちていった。


「だから、自分の名前が嫌いだった。歌うことが好きになりたかった。歌うことが得意になりたかった。声が涸れるまで歌ってもまったく上手にならなくて、たくさん泣いた」

「それで、うたちゃん先生はどうしたの? 歌は歌えるようになった?」

「ぜんぜん。今でも上手に歌えない」

「……そんなの、あまりにも希望がない」

「そうだよ。人生って、そういうものなの」

「生きていくことに希望はないの?」


 うたちゃん先生は答えなかった。

 わたしはぐっと唇を噛んだ。

 人生というものに希望がないのだとすれば、一体どうしてわたしは生きているんだろう?


「うたちゃん先生が、歌を歌えるようになって。わたしが、教室に行けるようになって。そしてすべてがハッピーエンドを迎えてくれるんじゃ、ないの?」

「ハッピーエンドはどこにもないよ」


 うたちゃん先生の言葉がどこまでも残酷にわたしの胸の中に積もっていく。

 雪のように。

 あるいは灰のように。


 少し離れたところから、合唱する声が聞こえた。

 音楽室は美術室の上にある。

 そこで、わたしのクラスメイトたちは合唱コンクールに向けて歌を歌っている。

 わたしだけがその中に入れない。


「うたちゃん先生」


 男声、ソプラノ、アルト。

 重ね合わさった声は、きれいな歌を歌っているのに、その声はわたしを追い詰め、追い立てた。

 わたしは耳を塞いで首を横に振る。


「たすけて」


 幸福な物語が必要だった。

 灰被りにきれいなドレスとかぼちゃの馬車を与えてくれる魔法使いが必要だった。

 祝福が欲しかった。

 うたちゃん先生の手が、わたしの手にそっと触れた。

 うたちゃん先生の手は、いろいろな色の絵の具でよごれていた。

 マニキュアを知らないような爪の間に、ビリジアングリーンがあった。

 親指にインディゴブルーがあった。

 手の甲にオペラレッドがあって、腕時計の革ベルトさえ、レモンイエローでよごれていた。


「江田さん」


 うたちゃん先生は、いろとりどりの手でわたしの手を撫でた。


「ワイン瓶の作るひかりと、りんごの作るひかりは違う。そこに優劣はない。ただ、違うものとしてそこにあるだけ」


 その比喩がきれいごとでしかないことくらい、わたしにもよくわかった。

 ワイン瓶とりんごに優劣がないことが問題なのではなかった。

 たくさんのりんごが木に生り、出荷されるときに、いびつなりんごは弾かれる。

 弾かれたりんごはこうして机の上に乗ることさえない。

 それが問題なのだった。

 わたしはさながら、いびつなりんごだ。

 皆きちんと丸いかたちをしているのに、わたしだけが丸くなれず、不定形のかたちをしている。


「きれいなりんごになりたいの」


 絞り出すように告げたわたしに、うたちゃん先生は、なぜか寂しそうに笑った。


「あたしには、きっと江田さんを救うことはできない」

「ひどい」

「うん。あたしは救世主じゃないし、神様でもないから」

「先生なのに」

「先生は、神様にはなれない。あたしにできるのは、絵を描くことぐらい」

「うたちゃん先生は、わたしをたすけてくれないし、わたしと逃げてもくれない」

「そう。あたしは神様ではないし、このあとには授業がある」


 それは単なる事実なのに、あたしの胸をやすやすと傷つけた。

 わたしは、うたちゃん先生に、わたしをたすけてほしかった。

 どうすればたすかるのかなんてわからなかった。

 ハッピーエンドがほしかった。

 めでたしめでたしで、教室に行けるようになりたかった。


「でも、神様ではないけど、このあとの授業を休むことぐらいはできるかな」


「……え?」


「江田さん。美術館にでも行こうか。みんなには内緒でね」


 しーっ、と、うたちゃん先生は人差し指を顔の前に立て、笑っていた。

 わたしはぽかんとするばかりだ。

 うたちゃん先生が立ち上がる。


「職員室に行ってくるから、五分だけ待ってて」


 うたちゃん先生は、軽やかな動作で美術室を出ていく。

 わたしはあっけにとられつつも、カンバスとイーゼルを片づけることにした。


   ⚪︎


 かたん、電車が揺れる。


 平日の昼間の電車は空いていた。

 朝の満員電車が嘘のように。

 わたしはうたちゃん先生と並んで座りながら、電車の揺れに身を任せる。


「江田さんは、電車って好き?」

「……わかんない。好きとか嫌いとか特にない。ただの交通手段だし」

「そっか。あたしはね、地上を走る電車は好き。大きな窓から、たくさんの景色が見えるからね」

「地下鉄は?」

「ちょっと退屈かな」


 うたちゃん先生は、かばんの中からリングノートを取り出した。

 わたしが学校で使うノートの半分くらいの大きさのそれは、罫線のない無地の紙だった。

 うたちゃん先生は、ボールペンで紙の上に線を描いた。

 電車の揺れのせいでがたついた線が、窓から見える雲を描いているのだと気づくのに時間はかからなかった。

 うたちゃん先生は、空と、空に向かって生えるたくさんのビルを描いていた。


「うたちゃん先生、一瞬でぜんぶ覚えたの?」

「まさか」

「じゃあ、どうやって描いてるの」

「想像もまじえて描くんだよ」

「ふうん」


 雲と、空と、ビルがあった。

 毎日見ている、つまらないただの景色が、うたちゃん先生の手によって「絵」になっていく。

 紙の上に落とし込まれると、それがなんだかかけがえのないもののように思えた。

 雲はすぐに揺らぎ、変わり、消えていく。

 その一瞬を、うたちゃん先生は、切り取った。


「うたちゃん先生、その絵、ほしい」

「いいよ」


 うたちゃん先生が微笑んでいる。

 空とビルを描き終えたうたちゃん先生は、ページを切り離すと、わたしにくれた。

 わたしはそれをクリアファイルに挟んで、かばんの中に入れた。


 美術館につくと、うたちゃん先生はわたしの分のチケットも買ってくれた。


「いいの?」と訊ねると、「もちろん」と言われた。

 大人のしぐさだった。


 美術館の中は、ささやかなざわめきがあった。

 いろいろな人が、人々が、絵や彫刻を見ている。

 ソファに座り込んで、手元のスケッチブックに絵を描いている人もいた。

 その人の視線の先には、彫刻作品がある。


「うたちゃん先生、あれって、いいの?」

「うん。このへんの学生かな。あたしも昔はよくやったなあ」


 いろいろな絵があった。

 たくさんの彫刻があった。

 そのどれもが、何十年も何百年も前につくられたものなのだと思うと、途方もない気持ちになった。

 絵を描くとき、画家は、何を考えていたのだろう。

 自分の作品が百年先にまでのこるようにと、願うことはあっただろうか?


「うたちゃん先生は、どうして美術の先生になったの?」

「どうしてだろうね。美大に行くなら教職ぐらい取っておくように親に言われて教員免許を取って、でも、先生になる気はあんまりなかったよ」

「そうなんだ。何になりたかったの?」

「絵を描ければなんでもよかった」

「画家になりたかったってこと?」

「うーん、それも違うかな」


 うたちゃん先生が、美術館の中をゆっくりと歩く。

 わたしはそれについていった。

 美術の教科書で見たことのある絵がいくつもあった。

 自分の描いたものが、のちの世の中で教科書に載るなんて、画家の本望だろう。


 たくさんの絵があった。

 たくさんの絵が、わたしを取り囲み、眺めていた。

 わたしはふと、こわくなった。

 肖像画がわたしを見ていた。

 風景画がわたしを見ていた。

 抽象画がわたしを見ていた。

 わたしは、さっき電車の中でうたちゃん先生にもらった絵のことを考えた。

 あの絵が百年のこることはないだろう。

 うたちゃん先生は有名な画家ではないからだ。

 百年先の世までのこるのは、限られた、ごく一握りのにんげんの創作物だけだ。


「うたちゃん先生」


 わたしの声はとても小さくて、かすれていた。

 けれどうたちゃん先生は、「うん?」と軽やかに振り向いた。

 わたしはほっとする。

 気がゆるんで泣きそうになった。


「うたちゃん先生」

「どうしたの、江田さん」

「うたちゃん先生」

「うん」


 百年前の抽象画があった。

 二百年前の風景画があった。

 三百年前の肖像画があった。

 選ばれた絵画が、ここには存在していた。


「うたちゃん先生……」


 わたしの声は震えていた。

 うたちゃん先生は、わたしの肩を優しく抱いて、そばにあるソファに連れてってくれた。

 わたしはそこに座る。

 隣にうたちゃん先生が腰掛けた。


 人々が、絵を見ている。

 うたちゃん先生が、わたしの手を握った。

 うたちゃん先生の手はあたたかかった。

 そこで初めて、わたしは、空調の利いた美術館の中で、自分の身体だけが冷え切っていることを知る。


 百年先まで生きられないことがこわいと思った。

 けれど、百年先まで生きたいわけではなかった。

 自分の心が、自分の考えがわからなくてわたしは混乱した。

 ぐるぐると頭の中が回転している。

 二百年前の風景は、もうどこにも、のこっていない。

 絵の中にだけ存在している。

 三百年前に描かれた絵の中の人も、もう、どこにもいない。

 絵を描いた人も、もう、今はどこにもいない。


「気分が悪い?」


 うたちゃん先生の問いに、わたしは首を横に振る。

 誰も、どこにもいないような気がしてこわかった。

 うたちゃん先生の手を握る。

 うたちゃん先生が、ここにいる。

 そのことを、必死でわたしは確かめた。


「うたちゃん先生」

「うん」


 わたしは、何も見えない真っ白な世界の中で、真っ白な海に浮かぶ、一艘の小舟に乗っている。

 その舟には、わたしとうたちゃん先生だけが乗っている。

 うたちゃん先生は、わたしに行き先を教えてくれるわけではない。

 何か有益な情報を持っているわけでもない。

 ただ、うたちゃん先生は、優しくわたしを呼んでくれる。


 ただそれだけで、わたしは。


「ねえ江田さん、むかしむかし、紙も板もない時代の人が、どこに絵を描いたのか知ってる?」


 ゆったりと、うたちゃん先生はわたしに訊ねた。

 わたしは美術の教科書の一番最初に載っている絵を思い出した。


「……岩、だっけ」

「そう。洞窟の壁面に、文字や文明を持つ前の人間が絵を描いていたのが見つかってる」

「楔形文字よりも前?」

「そうだよ。古い洞窟壁画は、六万年前にも及ぶの」


 くらり、わたしの脳は揺れた。

 果てしない、永遠みたいな気持ちになった。


「絵には、きっと祈りが込められてるんだろうね」


 うたちゃん先生が言う。


「祈り?」


「そう。自分の見た景色を、他の誰かとも分け合いたいっていう、原初の祈り」

「分け合うために、人は洞窟に絵を描いたの?」

「理由はわかってないよ。何せ、うんとむかしの、文字のない時代のことだから」


 たのしそうにうたちゃん先生が言う。

 授業で教科書を読み上げたり、絵具の使い方を教えてくれるときよりも、ずっとずっとたのしそうな声だった。


「でも、はるかむかしの人々が、そういう祈りを持って絵を描いたのだとしたら、それって、とてもすてきなことだと思わない?」


 うたちゃん先生が優しく微笑んだ。

 美術館の中の照明が、うたちゃん先生をやわらかく照らしている。

 ああ、とわたしは息を吐く。


 果てしない時間があった。

 果てしない歴史があった。

 ここにあるのは、その中の、とるにたらないような、ちっぽけな時間だ。


「うん」


 わたしは頷いて、うたちゃん先生の手を握り直した。


「うたちゃん先生」


 うたちゃん先生は神様ではなくて、救世主でもなくて、完璧な大人でもない。

 けれど今この瞬間、うたちゃん先生は、わたしのすべてだった。

 わたしはうたちゃん先生の微笑みを、絵にしてみたいと思った。


「絵が描きたい」

「いいよ。じゃあ、学校に戻ろうか」


 どうしてだろう、わたしは泣いていた。

 かなしいのでも、苦しいのでも、つらいのでもなかった。

 ただ、このせかいに生きていることを理解して、泣いていたのだった。


   ⚪︎


 これはおとぎ話ではないので、わたしが次の日から教室に行けるようになる、なんてかんたんな結末は訪れなかった。

 わたしは相変わらず美術室に通っている。

 変わったことといえば、わたしが一枚の絵を描いたことと、うたちゃん先生が、わたしの誕生日に歌を歌ってくれたことぐらいだった。

 うたちゃん先生の歌うハッピーバースデーの歌は、ぜんぜん音程が取れていなくて、声も震えていた。

 でも、わたしはこれまでに聞いたどんな歌よりも、その歌をいとしいと思った。

 うたちゃん先生と声をあわせながら、わたしはわたしの誕生日を祝うための歌を歌った。

 歌いながらわたしが泣くのを見て、うたちゃん先生は「江田さん、泣き虫なんだね」と笑った。



「うたちゃん先生。わたし、本気で絵の勉強してみたいかも」


 わたしの絵が区立美術館の展覧会で審査員特別賞を獲った日の帰り道、わたしはうたちゃん先生の隣を歩きながら言った。

 うたちゃん先生は嬉しそうに笑う。


「絵の道は険しいよ?」

「うん。だとしても、いいよ」


 わたしはうたちゃん先生の手を握る。

 わたしの手にも、うたちゃん先生みたいなよごれがいくつか残っていて、わたしはそれを、ちょっとだけ誇らしく思う。


「もし途中でくじけても、わたしはきっと大丈夫」


 立ち止まり、空を眺めた。

 うたちゃん先生も歩みを止める。

 昼と夜のあいだの、グラデーションの時間だった。

 青色と赤色のあいだの空みたいに、わたしの行きたい場所なんてあいまいだった。

 先の見えない道を少しずつかきわけて歩いていくことしかできない。

 それは正答からは程遠い、不器用なやりかただろう。

 完全でも完璧でもないけれど、それでもいいと思えた。

 だってきっと、生きるとはそういうことだからだ。


 完璧なりんごも、救世主も神様も、きっとこの世界のどこにも存在しない。

 そしてそれは少しも嘆くべきことではないのだ。

 魔法はどこにもなくて、かぼちゃの馬車は訪れない。

 でも、わたしに舞踏会は必要ない。


「見て、江田さん。もう金星が見える」

「ほんとだ」


 空は高く、世界はどこまでも広がっている。

 わたしはそのことを確かめる。


 せかいはもう、こわくはなかった。


 風が吹いてわたしとうたちゃん先生を優しく撫でていく。

 太陽のひかりがゆっくりと沈んでいき、幻想のような、きらめく夕焼けが、わたしたちを包んだ。

 わたしはうたちゃん先生の横顔を、そっと見つめた。

 夕日に照らされて輪郭が橙色にひかっている。

 刻一刻と、ひかりは角度を変えていく。


「江田さん?」

「なんでもない。うたちゃん先生、帰ろう」


 わたしはうたちゃん先生の手を握り直す。

 うたちゃん先生はわたしの手を握り返して、「うん」と笑った。

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