この逆行は授業の一環です
フィオナ・ロスエリウム。公爵令嬢十七歳。
彼女は憤死寸前であった。
気持ち的には怒りに満ち満ちてそりゃもうこの世の何もかもに怒りを向けるくらいの勢いであったけれど、ついでに言うなら実際に今にも死にそうになっていた。
何故って階段から足を滑らせ転落し、打ちどころが悪かったから。
あっ、と思った時には落ちてたし、下に落ちるまであちこちぶつけてどこもかしこも痛いし頭も思い切りぶつけたせいだろうか、意識が飛びそうだし目も霞んでロクに見えなくなってしまっていた。
とても痛いはずなのに、けれどもいや意外にそうでもないかな……? なんて思うような感覚がどっちつかず状態。
あ、これ死ぬのねきっと。
そう思った時、フィオナの胸に訪れたのは安堵である。
いや、怒りもある。けれどもどうしようもない程に煮詰められた怒りと一緒に安堵もまた同居していたのである。
これで終われる。
そう思って、フィオナは流れに身を任せるようにして目を閉じた。
色々とやり残した事はあるけれど、でも私死ぬみたいですし。仕方ありませんわね。
――なんて思っていたのだが。
気が付くとフィオナは自室のベッドで目を覚ました。
「は?」
生きている、という事実に気付いた途端機嫌が急降下する。
何故大人しく死なせてはくれなかったのか。などと八つ当たりにも似た気持ちを神へとぶつけた。
だがしかしすぐに気づく。
部屋の内装が少し違う。
これは……あら、あのカーテンは処分したはずなのに。同じものを、というわけではないわよね……?
恐る恐るベッドから身を起こして、そうしてフィオナはひとまず日記帳を手に取った。
そうしてパラパラとページを捲り確認してみればなんと十五歳のとある日で終わっている。
フィオナは毎日日記を書いていた。
日記というか最早別の何かになりつつあったけれど、それでも毎日日々の気持ちを整理するべくそれはもう日記に色々と書き連ねていたのだ。主に恨み辛みを。
「時間が巻き戻っている……?」
そんなバカな、と言いたいがしかし日記に以前書いたはずの内容が綺麗さっぱり消えている。これから書く事になるだろう未来の部分だけがごっそりと。
けれどもフィオナはその先の内容を覚えていた。
念の為この後起こる内容を思い出してみる。
そうだ、確か王子に与えられていた公務が増えたのだ。
あのクソ野郎……いや、将来この国を背負って立つべき王子はその公務をこちらに押し付けていたわけだが。それは王子のやるべきことですよとフィオナが言っても自分にはまだ他にやるべきことがあるだとか言って、なんだかんだ色々と言い連ねてそうして婚約者であるフィオナに押し付けていたのだ。今思い出しても腹が立つ。
正直自分がやる義務はないのだが、将来王妃になるのだ。王を支えるべく、という王子の言い分はともかくこの書類を放置すると他の者がとても困るのは目に見えていた。
だからこそ引き受ける事となったのだが……
そこで王子は味を占めた。
次から次に自分の仕事を押し付けて、それでいて王子曰くのやるべき事とやらはといえば、女の尻を追いかける始末。
そもそも厳しい事を嫌がり楽な方楽な方へと流されていく王子は、側近たちの苦言もただの煩い雑音のように扱って自分から遠ざけて、自分のまわりの部下たちは単なる太鼓持ちのロクな能力もないだけの連中に。
仕事ができない王子と仕事ができない部下が合わされば、それはもう誰も仕事ができないのである。よくこれだけの無能集団を集めたなと言いたくなるくらい酷い有様だった。
そしてそれらの仕事の押し付け先は勿論自分であった。
どうして……あの人たちは人の形をしているの? 虫の形をしていたならば殺す事に躊躇いもないし仮に殺したとしても虫なら罪に問われる事もなかったでしょうに……なんて何度思った事だろう。
通りすがりの悪戯な妖精さんがせめて王子だけでも蛙の姿に変えてくれればよかったのに。そしたら遠慮なく悲鳴を上げて蛙に怖れを抱く令嬢の振りをして全力で壁に叩きつけていたのに。
王妃教育のほか王子の尻拭いという激務を押し付けられて当然フィオナだって抗議したのだ。王子に言うのは無駄だから、その上の――王妃に。
だがしかしあの国王夫妻、息子に激甘だった。普段はきちんとしてるのに、息子が絡んだ途端知能指数が駄々下がりするのである。どうして……どうして……
なのでこちらの抗議は言うだけ無駄であった。
駄目だこの国、と何故あの時早々に見切りをつけて国外へ逃亡しなかったのだろうか。自らの責務を放棄して逃げるような真似はできないという貴族としての矜持があったからだ。
今思えばそんなプライド捨てても良かったんじゃないかしら、って思い始めてるのだけど。
だってそうやって仕事を押し付けられて必死にそれらをこなしている間に、王子は他の女と親密になり、堂々と浮気し始めた挙句、私が婚約者としての役目を放棄したなんて言いがかりをつけて浮気相手を真実の愛だなんて言って婚約破棄を突きつけたのよ!?
これが王家主催のパーティーだとかの大勢がいる場所でやらかしていたら、一体どんな茶番かしらと鼻で嗤えたかもしれない。けれども、よりにもよって王子の部屋で、浮気相手と二人そろって服なんて着ていない状況で。
急ぎの用事があったからこそ滅多に向かわない王子の私室へ足を運んだのがそもそもの間違いだったかもしれない。
そんな状態で婚約破棄を突きつける男も男だが、その隣で勝ち誇ったようにこちらを見ていた浮気相手の女にも腹が立つ。
怒りで頭がどうにかなりそうだった。
売り言葉に買い言葉というわけでもないけれど、その婚約破棄承りましたわ! とこちらも言い捨ててもうやってられませんわとばかりに王妃や王に訴えるつもりだった。
ところがその途中で階段から足を滑らせての死亡である。
あっ、時間が巻き戻ったらしい今なら未来の話だけど、自分にとってはつい先程の話すぎて頭の血管ブチ切れそう。
思い出すだけでも怒りが瞬間沸騰する。
そもそもだ、今の時点で確かあの馬鹿王子、既に浮気相手とそこそこの仲になってるはずなのよね。結婚前のお遊びで済めばよかったけど結局はそうならなかった。
えっ、また王子の子守しないといけないんですの……? と思ったけれどしかしふと思い直す。
「別に、やる必要ないわよね……?」
確かに王子に押し付けられた時は、いずれは王妃になるのだからと思っていたし、王を支えるのも王妃の務めとも思っていた。けれど実際はどうだった?
浮気されて婚約破棄を突きつけられて、その後階段から足を滑らせ転落して死亡。
王妃になっていたならともかく、そうではない。
それに、あの時はあのまま書類を放置していたら他の文官たちも困るだろうと思っていた。だから王子のかわりにこなしていた。
でも、どうせなら文官たちから泣きつかれて王や王妃が王子に対してもう少し厳しい態度で接するべきだったのでは?
私が死んだあと、一体どうなったのかしら……なんて思ったがそれを知る事はどう足掻いても不可能だ。
だが、時間が巻き戻ったとして再びあの人生をなぞるつもりもない。
どうせならやり直してしまおう。相手は婚約を破棄したがっていたのだから、一切手伝わないで王子とロクに接する事もなければこんな可愛げのない女などごめんだと言ってもっと早くに婚約を破棄してくれるかもしれない。
そもそもこの婚約だって王家から、とりわけ王から泣きつかれる形で進められたのだ。
それでも一応歩み寄るつもりで色々と頑張ったけれど、しかし頑張った果ての結果がアレ、となればもう頑張ろうとも思えない。
それに王子があまりにも駄目すぎてあれはもう王にするわけにはいかない、とでも思われてくれれば年の離れた第二王子が即位するまで国王夫妻が頑張って働くだろうし王になれないのであればフィオナと結婚する必要もないように思う。
前は王子の尻拭いをしてその結果、成果は王子の手柄になっていたからこそアレは次期王とされていた。
けれどもそれをしなければ、王になる適性なしと判断されて第二王子を王太子に任命する可能性はある、と思う。
ちなみに第二王子はあの馬鹿王子と違って息子が絡んだ時だけ知能指数が著しく低下する両親の事をとても冷めた目で見ているので、兄のようにはならないだろう。
更に言うなら第二王子が将来の王になるにしても、婚約者にフィオナが選ばれるという事もないはずだ。年齢がもうちょっと近ければ有り得たかもしれないが、流石に無いと思いたい。
ともあれ、考えれば考えただけ、折角やり直す機会を得たようなものなのだ。
じゃあもう王子の尻拭いとかしなくていいのではないか。
そう思ったフィオナはとりあえずこちらから婚約破棄を突きつけてさっさとこの関係に終止符を打ってやろうと決めた。日記にこの先の事は書かれていないけれど、しかしこれから先何が起きるかは大体覚えているのだ。
「……私は私のために頑張りましょう」
合言葉は輝かしい未来へ、だ。
――と、気合を入れて臨んだわけだが。
何故だか前回の展開とは大きく異なっていた。
まず王子がこの頃手を出し始めていた浮気相手と早々に切れている。
そして何と驚く事に与えられた公務に関してこちらに押し付けてこようとしない。真面目に取り組んでいる。
とはいえ、それでもフィオナの目から見てちょっと遅いな……と思えるのでいきなり有能な感じで才能が開花しただとかそういう事ではないはずだ。
更に今までロクに関わらなかったくせに、何故か今回はちょくちょく声をかけてくる。
確かに今の時間軸、まだフィオナは酷い目に遭ったわけでもない。けれどもこの先の未来がフィオナの知るものならば、王子と親しくなるのは無意味だ。最初の頃は歩み寄ろうと思っていたけれど、しかしその結果仕事を押し付けられゆっくり休む時間もないまま身も心もボロボロになるとわかっているならば、歩み寄る事すら無駄だった。
早々に冷めきった仲を披露して、さっさと婚約を解消してしまおう。いや、破棄か。
そう思いながらフィオナはやんわりと王子との距離を取り続けた。
――気付けば、時間が巻き戻っていた。
第一王子ガイウスはその事実に気付いた時、思わず泣きそうになった。
一体何がどうなってこんな事になったのかはわからない。わからないけれど、それでもやり直す機会が与えらえたのだ、と思えば自分の意志とは裏腹に涙腺も緩むというもの。
前回のガイウスはそれはもう酷い人間であった。
聞こえのいい、耳触りの良い言葉だけを聞き入れてそれ以外の言葉は全て聞く耳持たぬとばかりに、忠告や警告をしてくれる人物は早々に遠ざけた。
そうして自分を甘やかしてくれる者だけを集め、それはもう王族として目も当てられない程堕落した毎日を過ごしていた。
自分に愛を囁く令嬢と懇意になり、婚約者であるフィオナを軽んじあまつさえ己がしなければならない公務を全て押し付けた。
その結果、地獄を見ると知らずに。
そもそも自分が仕事を押し付けておきながら、フィオナが自分を構ってくれないと不貞腐れていた。
まず時間に余裕があるはずもない。それすらわかっていなかったのだ。なんて愚かな。
そして自分に言い寄る令嬢に手を出した。
彼女はフィオナより上だと思う事で優越感を得ていたのだろう。王子の目がフィオナから自分へ向けられる事で満足そうにしていた。
フィオナより自分の方が愛されている。それを証明するように最初は人目を忍んでいたはずの二人の逢瀬は気付けば人目を憚らないものへ変わっていった。
そして一線をあっさり超える事となる。
ガイウスの私室で令嬢と睦み合っていたところへ、仕事で王子本人のサインが必要な急ぎのものを持ってきたのだろう。フィオナにどう足掻いても言い逃れできない状況を見られてしまった。
ガイウスもその時もっと真摯に謝罪するべきだったのだ。今更であろうとも。
けれどもお前が自分を蔑ろにするからこうなったのだ、という責任転嫁をした挙句、お前など王妃にも相応しくないと罵って、婚約破棄を突きつけた。
誰よりも王妃に相応しかった女に。
ガイウスはここで、泣いて縋って愛を乞うてくれば考え直すつもりでもあった。今思えば最低だが。
けれどもフィオナはそんなガイウスの予想する行動をどれ一つとして実行せず、更には婚約破棄に頷いてしまった。
しかし、両親がフィオナを手放すはずもないと思って高を括っていた。
だが――
フィオナは階段から転落し、そして死んだ。
地獄はここから始まった。
以前からガイウスが令嬢と仲睦まじくしている事について、フィオナは王妃へ訴えていた。
そして突きつけられた婚約破棄は、大衆のもとで行われたわけでもないが、最早二人の仲が戻る事もない。
どう足掻いてもフィオナは自分から離れないと信じて疑っていなかったが、しかしフィオナは死んだ。
自ら身を投げて死を選んだ、というわけではなさそうだった。
けれども、公爵家からは凄まじい怒りの声が上がったし、ガイウスは両親からこっぴどく叱られもした。
フィオナが死んだあと、フィオナの部屋にあった日記を見た公爵がガイウスの後ろ盾であった事を辞退した。本来ならば結婚して、公爵家は陰に日向にフィオナとガイウスを支えるつもりではあった。
けれども死んでしまったフィオナの日記に書かれていたものは、仕事をしないで押し付けてくる王子についてだとか、王妃に訴えても一切何もしてくれなかった事だとか、その他にも様々な事が書かれていたのだ。
それはもう様々なものが赤裸々に。
公爵も娘からいくつかの不満のようなものを言われていたけれど、まだ王子は若いしそういう事もあるだろう、と軽く流してしまった事がある。けれども日記を見る限り、そんな軽く流していいものではなかったのだ、と父親失格であるととても後悔する事となった。
何故あの時、もっと娘の話に真摯に耳を傾けてやれなかったのか……男などそのようなものだ、など軽く流すものではなかったのに……!!
結婚前のお遊びだろうし、大目に見てやりなさい、など言わずさっさと国王に王子の不出来さを指摘して婚約解消に踏み込むべきだったのだ。
後悔しかない現状、しかし嘆いたところで娘はもう二度と帰ってはこない。父としての不甲斐なさも勿論あったが、元凶はなんだと問われれば王家である。
大体大した能力の持ち主でもない王子を王にするために、優秀な妃を求めて公爵家に王自ら打診してきたというのに、その結果娘がこんな事になるだなんて誰が思う?
王子が例え能力的に劣っていたとしても、人として腐る事なく精進し続けていれば娘はきっとあんな風に恨みを募らせなかった。きちんと婚約者として、将来の妻として、一人の人間として向き合っていれば、王家に対して娘はあのような怨嗟を抱く事すらなかったはずなのに。
娘の無念と父としての不甲斐なさ、それらが合わさり公爵家は王家の支援を取りやめた。
結果として王家に反意がある、と言うなら言えばいい。
公爵の言葉に王家は何も言えなかった。
王家が公爵家に、フィオナを婚約者にと望まなければこんな事にはならなかったのは事実なのだから。
これだけでガイウスの立場は――というか評判は――貴族たちの中でただでさえ低かったのに更に底辺を這いずる事となった。
浮気相手の令嬢は王妃としてはとても務まらない。だからこそ、もしフィオナに何かあった場合の次の婚約者として打診していた侯爵家のご令嬢へ話を持っていったのだが。
「ガイウス様と結婚するくらいなら死にます」
そう言って本当に令嬢は近くにあった果物ナイフで己の首を切りつけた。
ただ、ナイフの切れ味がそこまで鋭くなかった事と、令嬢も人を傷つけるのに刃物を用いた事がなかったこともあって、力加減がわからず切れたのは薄皮数枚といったところで、血が出たものの致命傷とは言えないものだった。
だがしかし、
「一度で駄目なら何度でも」
そう言って再び傷の上からナイフを滑らせようとする令嬢に本気を見た周囲は必死になって止めたのである。
そんな有言実行してほしくなかった。令嬢の両親は泣いて王家に懇願した。どうか娘の命を奪わないでほしいと。
ちなみにこの侯爵令嬢はフィオナにとってとても仲の良い友人である。
フィオナに酷い扱いをしていた相手と結婚して支えるだなんて、冗談ではなかったのだ。
例えば王子とフィオナの仲がそれなりに良い状態でフィオナに何らかの――病気とか――事態が起きて婚約を解消して次の婚約者に自分が、というのであれば令嬢とて受けていた。
だがしかし、大切な友人を死に追いやったクソ野郎なのだ。大体公爵家が王家に一切の支援をしないとのたまったのはとっくに社交界に広まっている。知らぬものなどいないのだ。
侯爵令嬢に関して諦めるしかなかった王家は、他の家にも声をかけた。
その結果、
「お父様、あの棚のワインをわたくしに譲って下さいませ。え? えぇ、飲みますわ自分で。はい、わたくし知っていますの、あのワインに毒が入っている事を」
「そんな、そのような目に遭うような酷いことをわたくしした覚えがありませんわ考え直して下さいまし! 今まで家のために良い子でいたではありませんか。どうしてもというのなら、いっそ一思いに殺してくださいまし!!」
「そんな……わたくしにはお慕いしている方が……それなのに婚約を無かったことにして王子と……? どうあっても叶わぬというのであれば、潔く死を選びますわ」
「えぇっ!? 王子の婚約者に!? いやよ! 絶対に嫌!! ケヴィン様、どう足掻いても結ばれないのであれば、いっそ来世に望みをかけましょう……!?」
などと、まぁ、惨憺たる事態が各地で起きた。
イヤだというだけならまだしも、本当に死を選ぼうとする令嬢の多い事。
挙句慕う相手のいる令嬢に至っては駆け落ち通り越して心中持ち掛ける始末。
王子に恋心を抱いている令嬢なんて、身分が低くロクに王家と関わる事のない家の娘ばかりだ。
けれども家格から王の妻になるには難しい。
だが、家格に問題の無い家の娘は皆王子を拒んだ。王子と結婚するくらいならいっそ殺せと言いきり、本当に死のうとする令嬢が多発したのだ。
ここにきて、ようやく息子の事に関すると知能が駄々下がりする国王夫妻は事態のヤバさに気が付いた。手遅れである。
本当に王子と結婚させようとしたら死のうとする令嬢ばかりで、王子の結婚相手になる女性がいない。
その結果、異例かつ特例という形で浮気相手の令嬢が王子の妻となる事になった。
とはいえ彼女は身分的に王妃になるには少しばかり……といったものではあったけれど、もう身体の関係まであるしこうなった原因を担っているわけでもあるし、責任を取れという――所謂罰でもあったのだ。
息子可愛さで苦労を強いてきたとはいえ、王妃は決してフィオナを疎んでいるわけではなかった。
たとえ息子がどれだけ駄目な子であろうとも、フィオナはそれを受け入れて支えてくれると思っていたからこそ王妃なりに可愛がっていた部分もある。
割とよくある実の娘だと思って、とかいうやつだ。
実の娘にお前はこんな苦労を強いるのか、と突っ込まれたら明らかに困るやつだけど、王妃はそれでも二人は上手くいっているのだとお花畑のような事を思っていた。
まぁフィオナの日記の恨み辛みからとっくに王妃はフィオナから敵のような認定をされていたし、それを知った王妃はとても落ち込んでいたけれど。落ち込んでいい立場かよ、と思った者は多くいたがそれはさておき。
可愛い可愛い娘になるはずだったフィオナの死。
そして後釜におさまった娘はフィオナと比べて何もかもが劣る娘。
我が息子は一体これのどこが良かったのかしら、と思う始末。
王妃教育は苛烈であった。
フィオナならこれくらい簡単に覚えていたわ。
フィオナならそんな事で躓く事もなかった。
フィオナなら……フィオナなら……
結果的に浮気相手になっていた令嬢も、王妃教育の厳しさと王妃の嘆きと常々フィオナと比べられる事態に早々に心を病んだ。
一向に理解できる気がしない王妃教育。
自分を嫌っている相手と長時間同じ空間にいなければならないというストレス。
そして、死んでなおフィオナはその存在感を主張しているのだ。
自分の方が彼女よりもいい女だ、なんて思って優越感に浸れていたのは僅かな期間であった。
王子の結婚相手に、と言われた時は喜びもした。けれど、彼女にとってはそこから先が地獄への道であったのだ。どれだけ頑張っても報われる事のない苦難の道。
結果を出す事ができたとしても、それは当たり前の事だと受け止められ褒められる事はない。
むしろ何故常にそのようにできないのかと逆に叱られるのだ。
できないのはあり得ない。できて当然。フィオナならできていた。彼女より優れていると豪語していたのだから、それを示せ。
実際彼女がフィオナより優れていると言えたのは、愛嬌だとか人の懐に入り込むのが上手いといった、対人的な部分だけだろうか。しかしそれだって、平民や身分が下の貴族相手ならまだしも高位貴族相手にやればはしたないと思われる事の方が多い。
媚びを売るのだけが得意だなんて、娼婦でもないのにあの人よくそれであんな風に言えたものねぇ……とフィオナ派であった令嬢たちや城で働く者たちから言われ、味方など誰もいない状況で彼女が折れるのは、思っていたよりも早かったのだ。
愛を誓ったはずの王子も今まで仕事を押し付けていたフィオナがいなくなり、自分でやらねばならなくなった。どれだけ机に向かっても一向に終わりが見えないが、しかし他の誰も手伝ってくれる事もない。一度手伝えばそこから味を占めて仕事を押し付けられると思われているのだ。実際それをフィオナでやったので否定したところで信じてもらえる事もなかった。
結果として王子は浮気相手であった令嬢と顔を合わせる事も減り、令嬢は孤立無援の中王妃教育を受ける事となってしまっていた。王子も自分の事に手一杯で彼女を気に掛ける余裕などあるはずもなかった。
能力的に劣る二人だ。自由に行動できるはずもない。
護衛と言う名の監視がついて、二人は気の休まる時間すらなかった。
いずれ、第二王子が王となれる年齢までの中継ぎである、と父に言われてその上で王になれたけれど、王としてガイウスが自分で何かを決める事は許されなかった。
ただのお飾り。
お飾りならお飾りらしく飾られてるだけで済めばよかったが、王はそれを許さなかった。
まさか自分の息子が、可愛さに目が曇りまくっていたとはいえほとんどの貴族たち――特に令嬢を持つ家――から見放されかけていると思いもしなかったのだ。
それ故に王は退位した後も、肝心な部分の仕事だけは息子に任せず自分でやっていた。
第二王子の教育も兼ねて。
ガイウスとその妃となった女が人前に出る事になる機会はあまりなかった。
他国との外交の際は先王たる父と第二王子が出向いていたし、国民の前に出る時だって遠くからちらっと顔を見せて手を振るくらいだ。影武者にやらせたとしても気付かれなかっただろう。
仮に外交など任されたとしても、心を病んだ王妃を連れてマトモな外交ができるはずもない。
ガイウスは生涯飼い殺しの状態であったのだ。
第二王子が成人し、王になれる年齢になった時点で速やかに退位を迫られた。その後は離宮に妻と一緒に閉じ込められて幽閉生活。
今まではそれでも仕事に追われていたので余計な事を考える事はなかったけれど、閉じ込められて他にする事もなくなってからはよく物思いに耽るようになった。
一体どこで間違えたのだろうか。
もしフィオナが生きていたなら、こんな事にはなっていなかったのだろうな。
いや、そもそも自分がきちんと王子としての務めを果たしていたならば。
今更考えたところでどうしようもない『もしも』や『たられば』の話ばかりが頭の中を埋め尽くしていく。
後悔しかない人生だった。
あの頃、フィオナに全てを押し付けていた時は自分の人生は輝かしく、思い通りにならない事などあるはずがないと信じて疑う事すらしなかった。
間違いなく人生の最盛期はそこだった。
どれくらいの時を何をするでもなく過ごしていただろうか。
心を病んでしまった妻は最初の頃はそれでもまだ話ができていたというのに、いつの間にやらただひたすらぼうっと壁や天井を眺めるだけの置物と化していた。
食事を届けにくる者はいたけれど、ガイウスたちに話しかける事など一切せず用を済ませたらすぐさま立ち去っていくので、ガイウスもまた誰とも話す事のない日々を過ごしていた。
妻でもある女がいる。
いるけれど、話しかけても返事はこない。
返事どころか視線をこちらにちらりと寄越す事さえしないのだ。
これなら最初から壁や天井に向かって独り言を呟くのと何も変わりがなかった。
食事を届けに来る者にそれでも何か話をしようと声をかけてもこちらもガイウスの存在を無視して何も話さない。結局一度も声を聞く事すらなかった。
変化のない日常。
一切の刺激のない日々。
そう言われれば穏やかで平穏な日々を過ごしているのだなと思えるが、実際のところはただただ虚しいだけだった。外に出る事を許されず、部屋の中にだけ存在を許されている。
世界から切り取られたような錯覚すら覚えていた。
日々を何もする事なくただぼーっと過ごしていたら、気付けば日付の感覚がなくなって、体力も衰えたからか椅子に座るのも厳しくなってベッドに横たわってただ壁か天井を見ているだけ。
恐らくはそのうちのどこかで衰弱死でもしたのだろう。
ぷつん、という音が聞こえた気がして意識が真っ暗に染まったのは覚えている。
だがしかし、気付けばガイウスは愚かにも婚約者を酷く裏切る以前にまで戻っていた。
完全に裏切る前ではないあたりどうしようもなかったが、それでもまだ決定的な事にはなっていない。
フィオナはまだ生きている。生きているのだ!!
何をするでもなくぼうっと過ごしていた日々の中、ガイウスはガイウスなりに色々と考えていたのだ。
どうして自分はあの時フィオナを大事にしてやれなかったのだろうか、と。
フィオナの事は決して嫌っていなかったはずなのに、彼女の優秀さが時として自分を傷つけていたからだろうか。いや、己が不出来であったからこそ、それを支えるために優秀な彼女に婚約の打診をわざわざ父がしてくれたというのに。
言い寄ってきて最終的に妻になった女は思えばフィオナより美しかったか? と問われれば別にそうでもなかった。愛嬌があって、可愛らしいと思ってはいたけれどそれでも高位貴族と比べると所作が違う。低位貴族の娘なのだな、と思う部分も何度だって見てきた。
けれどあの頃の自分はそれすら新鮮に思えて、というか彼女の何もかもが愛らしく思えて欠点すら美徳のような何かに見えていただけに過ぎない。
巻き戻った時間の中で、その令嬢とはまだ恋人のような付き合いにまでは至っていなかった。
とはいえ、好きだという言葉に乗っかってしまったのは事実。
以前であればここから少しずつ人目を忍んで二人の仲を深めていって、そうしていつの間にやら周囲に見せつけるようになっていたのだが今はまだ大っぴらに周囲も知っているわけではない。
だからこそ、ガイウスはかつての過ちを繰り返さぬ前に、と令嬢に別れを告げた。
令嬢は戸惑い納得がいかないようだったが、前と同じくこのままガイウスと共にいれば待っているのは身の破滅だ。最終的に植物のように何も言わずただただぼうっと壁か天井を見つめるだけの人形のようになってしまう。
あんなんでも一応以前に妻になった女だ。
今思えばどうしてこの女を愛していたのかもうわからなくなってしまったけれど、それでも情は残されている。
だからこそ、ガイウスは関わりを断つ事を決めたのである。
彼女に何の非もないとは言い切れないが、それでもガイウスとこのままいても何も良い事はない。それなら早々に関わりを断って他の男性のところで幸せになる道を掴むべきだ。
折角想いが通じたはずなのに早々に別れを告げられた令嬢はわけがわからないと縋りそうになっていたが、それでも心を鬼にしてガイウスは突き放した。すまない、という言葉の意味を、果たして彼女はどのように受け止めたのだろうか。
その後は以前の失敗を反省して、フィオナに仕事を押し付けず勿論自分でそれらを処理するべく努力した。
一応以前はお飾りであろうと王の座にもいたのだ。公務は何もかもを任されていたわけではないが、王子時代にやっていた内容よりはちょっとだけ難しい内容のものだってあった。
だからこそ、今ならこれくらいの書類を片付けるくらいは余裕だろう……と思っていたのだが。
自分の予想を裏切って思っていた以上に手間と時間がかかってしまった。
以前は一切やらずに全て押し付けていたので、時間がちょっとかかろうとも自分でやっただけ進歩である。
そうやってたまに自分で自分を褒めてやる気を出しては一つ一つ確実にこなしていく。
時間が巻き戻る前の話とはいえ、フィオナはこれらを全部片づけていたのか……なんて凄いんだ。もう尊敬の念しか出てこない。しかも自分でやるよりももっと早くに終わらせていたのだ。何故以前の自分はそれを当たり前のように受け止めていたのか。本当に最低だな自分。
というかこれだけの量を片付けていたら、そりゃあ自分に構う時間なんてあるはずもない。王妃教育だとかも並行して行われていたのだから。むしろ休む時間はあったのだろうか。本当に、前の自分はなんて事をしてしまったのだろう。
死んで詫びるべきなのでは? そう思ったが時間が巻き戻ったなんていう普通に考えて有り得ない展開が起きているのだ。これでまた死んで、もう一度時間が巻き戻ってみろ。死に損である。
それならいっそ生きて今までの行いを償うべきだ。今までの自分はフィオナの事を便利な道具のように扱っていたけれど、今回は決してそんな事はしない。
自分でできる事、しなければならない事はきちんと自分で行い、その上で婚約者であるフィオナの事も蔑ろにしない。構ってくれないなんて駄々をこねるような物言いをするくらいなら、自分から構われに行くべきだったのだ。仕事押し付けて時間を奪っていた自分が言うべきではないが。
とにかく、以前のようにはならない。
ガイウスは以前のような後悔ばかりの人生にはしないぞと、心に決めたのである。
だがしかし、どうにかやるべき事をこなして作った時間でフィオナに会いにいったり贈り物をしたり手紙を出したりしたものの、どうにもフィオナとの距離感が前よりも遠い。
前はなんだかんだ甘えもあった。
それを仕方ないなとフィオナが受け入れてくれた。最後の方は諦観もあったと思う。それでも、浮気をして令嬢と一線を超えてしまった後、彼女はまだこちらに感情を持っていたはずだ。その感情がどんなものであれ。
けれども今はどうだろう。
思えばこの婚約は父が泣きついてまで結んだものだ。フィオナは別にガイウスの事を好きだったなどという事もない。それでも、なんとも情けないが王命と言う名の泣きついて懇願による婚約であっても、前のフィオナはそれでもこちらに歩み寄ろうとしていた。そして能力的に不足しかない自分に色々教えようとしてくれていたし、時に叱咤される事もあった。
前はそれを鬱陶しい・口煩いと思っていたけれど、それでも今にして思えばあれは確かに自分を思って言ってくれた言葉だ。
だがしかし今回はあまりフィオナはこちらにあれこれ言ってこなかった。
能力的に低いのは仕方ないにしても、自分でするべき事を一応自分でやっているので言わないだけだろうか? あまりあれこれやかましく言えば嫌になって投げ出されると思われているのだろうか……?
不安はあった。
どうにか作った時間でフィオナと少しでも親睦を深めようとしても、彼女はやんわりとそれらを断っていく。
王子もお忙しいでしょう。せめてゆっくりと休んでくださいませ。わたくしの事はお気になさらず。
そんな言葉でこちらを気遣うように。
季節の挨拶だとか誕生日の贈り物だとか、そういった何かの節目のような時にはきちんと手紙やメッセージカードが届くけれど、二人きりで直接会って話をするような機会だけはなんだかんだと理由をつけて躱されていた。
前は確かに浮気相手の令嬢に夢中になってフィオナの事は蔑ろにしていた。
折角時間が戻ってやり直そうとしても、前とあまりに異なる展開にはならないのだろうか。
前はほとんどフィオナと二人きりで会ってお茶を飲みつつ会話に興じるなんて事もなかったから、今回はと思っていたのに。
けれども、そこで諦めてはいけないと自らを奮い立たせる。
諦めたら、きっと今度も駄目になるような予感がしていた。
――前と違って王子がやたらとこちらと交流をとろうとしてくる。
フィオナはその事に何故……? と思いながらも、それでもやんわりと距離を取り続けていた。
今はもう浮気相手だった令嬢とも一切会っていないようだし、与えられた王子の公務もこちらに一切押しつけたりはしてこない。前の事が嘘のように真面目になっている。
いや、一応令嬢とはちょっと接近していたから前と同じ展開になりかけていたはずなのだけれど。
一体王子に何があったのだろうか。気にはなるけれど、王子に直接聞く気はしなかった。自分に興味を持たれているとか思われるのもイヤだったのだ。
何か、途中で心を入れ替えるような何かがあったのかもしれない。
そう思ってはいても、前の王子の事を思いだすと人間て中々変わらないものだから……というのがしっかりとフィオナの心の奥底に根付いてしまっている。
前の令嬢よりも好みのタイプの女性が身近に現れるような事になったら、きっと王子はそちらに目を向けるのだろう。
どのみちフィオナの事など使える道具くらいにしか思ってなかったはずだ。道具の機嫌を取ろうとしているのが不思議だけれど、もう前と同じような思いをするのも怒りで色々なものが見えなくなってうっかり階段から足を踏み外して死ぬのもごめんであった。
だがしかし。
交流などほとんどしていなくとも、二人の中に決定的な亀裂が入るような出来事もない。
それ故に、気付けばそのまま婚約は継続され、そうしてまだまだ王としては未熟かもしれないがそれでも大きなスキャンダルを起こすような事もなかったために。
ガイウスとフィオナの婚姻は成ってしまったのである。
王妃になったフィオナは「あれ……?」と常々困惑していた。
おかしい。どうして。
いや確かに婚約破棄するような出来事は起きてないからそうなのかもしれないのだけれども……?
けれども王子の事など興味も何もありませんとばかりに距離をとって仲良くするつもりもないとばかりに交流する機会だって減らしていたのに。
それでもガイウスはめげずにフィオナと関わろうとしていた。
いや……決して……絆されたりはしていない……人間根っこの部分は中々変わらないってお父様だって言ってたし……と内心で思っていても、結婚してガイウスは即位して王になってしまったし、そしてフィオナは王妃となっている。
王であり夫となってしまったガイウスは、前と比べればとても真面目である。
とはいえ、毎日大量に作成される書類などを片付ける速度は遅い。けれども不平不満を口に出す事もなくコツコツと片付けている。前はそんな事一度もなかったので、多少仕事が遅かろうともフィオナからすれば何も文句はない。
ただ、遅いから、という理由で他の仕事をフィオナがかわりにやろうとまでは思わなかった。
前はそうやって、かわりにやった結果味を占めて甘えられて、何もかもを押し付けられたのだ。
今は真面目にやっていても、何かの拍子に甘い蜜の味を知ってしまったら……? という疑念は中々消えてくれなかった。
ギリギリ期限まで放置して、どうにもならなくなりそうなら手助けをする事はあったけれど、余裕がある段階でフィオナが手助けをした事はない。
それでもガイウスは手伝ってくれた事に礼を述べるのだ。
前の時はかわりにやって当然みたいな態度でお礼なんて一度も言われた事なかったのに。
前の時はそれでも歩み寄ろうとしていた。愛だとか恋なんて感情じゃなくても、それでも情はあった。まぁ早い段階で消えたけど。
けれども今は。
ガイウスは自分に対して前と違って情を持っている。それが愛なのか、それとも別の――王族としての義務からくるものなのかはわからないけれど。
だがしかし、それでもフィオナはその思いを同じだけ返せそうにはなかったのだ。
前の出来事が、どうしたって記憶の中に残っている。もし、自分がガイウスに愛だとかそれに近しい思いを持つようになったら、また駄目になるのではないか。そういう思いが消えないのだ。
それでも王妃となった以上は、王妃としての責任を果たすつもりではあるけれど。
死ぬ前に一度くらいは、彼の事を愛していると思えるようになればいいのだけれど……
などと思いながらも、今日もフィオナは書類仕事にひぃひぃ言いながらもこなしているガイウスをそっと見守っていた。
――前回の時とは違いフィオナが死ぬ事もなく、婚約破棄もない。
であれば、ガイウスとフィオナが結婚するのは当然の流れであった。
前は王に即位したとはいえ、弟が成人するまでの中継ぎであった。あくまでもお飾り。いや、お飾りにもなれないようないっそ見世物然としたものだ。
だがしかし今は違った。
確かに王としてはまだ不安を覚える部分もあるだろう、と父は難しい顔をしていたけれど、しかしフィオナが妃としているのであれば大丈夫か……というのもあって即位する事を認めてくれたのだ。
前の時とは王になる理由が違う。
今はお飾りではない。
いや、王妃の陰に隠れている頼りない王と思われている可能性はあるけれども。
けれど、それでも前と同じ過ちを繰り返してはならないのだ。
フィオナには常に感謝と愛の言葉を伝えるようにしているけれど、フィオナは相変わらず素っ気ない。
前は仕事を押し付けていたのが当たり前になってしまって、後の方では何を言うでもないうちからさっさと片付け始めていたけれど、今はそういった手伝いなんてほとんどしていない。
王ならばできます、と言って手助けは一切しないのだ。
けれどもそれでいいとガイウスは思っている。
自分が時間をかけて書類と格闘しているのをフィオナはただじっと見守っているだけだ。彼女自身の仕事を終わらせて。
それでもどうしても期日までに終わりそうにない、もうだめだ、と言いたくなるような時だけはたまに手伝ってくれる。最初のうちはその回数も多かったけれど、最近はフィオナの手を煩わせる事も減ってきた……完全になくなっていないのが悲しいところだけれど。
だが、自分が目をしょぼしょぼさせながらも書類を片付けている光景を、時々フィオナはとても優しい眼差しで見守っているので。
その目が冷ややかなものに変わらないようにと、今日もガイウスは必死に努力しているのである。
「――と、まぁ、時間逆行に関する案件ですけれど」
教壇の上に展開されていたスクリーンの映像が消え、教師である女神の声が響く。
「基本的に前回嫌な思いをした相手だけを逆行させてやり直させると大抵は復讐に走ったりするので、今回はこのように両者を逆行させる事にしました」
「先生、これって上手くいったんですか……?
なんていうか二人の間に愛があるか、って聞かれるととても微妙な気がするんですけれど」
生徒でもある見習い女神が手を上げて質問してくるのを、教師である女神は「そうねぇ」と小首を傾げて少しばかり考え込んだ。
「愛は……ないんじゃないかしら。少なくとも女の方にはないわ。男の方は前の記憶の事もあって今度こそはと思っているけれど。
前の時は女性の方に一応愛があったけれど、男にはなかった。逆行させた事で今回はそこも逆になってしまったようね。
でも、必ずしも関係者を――今回は王命で結ばれた婚約者ね、両方逆行させたところで上手くいくとは限らないから、仮に貴方たちが一人前の女神となって逆行させるような事になった時は……慎重にね?」
はーい、とお行儀のいい返事が生徒たちから返ってきた事で、女神はにっこりと微笑んだ。
「はい、いいお返事。では、今回の授業の課題は今見たものについてのレポートね。週末までに提出する事」
そう言えば今度は「えーっ!?」という声が上がるが女神は一切気にしなかった。
「愛があって駄目になるケースもあれば、愛が無い方が上手くいくケースもあるのよ。納得できなくても理解はしておきなさい」
それだけ言うと女神は颯爽と教室を出ていってしまう。
とある神界の、授業の一コマの光景であった。