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全力お飾り妻シリーズ

【短編版】1年間お飾り妻のお役目を全力で果たします! 〜冷徹公爵様との契約結婚、無自覚に有能ぶりを発揮したら溺愛されました!?

作者: 清川和泉

ご覧いただき、ありがとうございます。

連載版を始めました。完結保証です。

https://ncode.syosetu.com/n5104id/

上のシリーズのリンク先からも飛べます。下にもリンクが貼ってあります。

「君との結婚は一年間。いわゆる契約結婚だ。私が君を愛することはないだろう。寝室も分けるつもりだ。だが、君の実家にはすでに多額の支度金を支払っており、君にその拒否権は一切ない」


 立て続けにそう言い放ったのはジークハルト・グラッセ公爵。

 一年ほど前に、先代の父親から爵位を受け継いだ現在二十六歳である彼は、艶のある黒髪に涼しげな目元、ダークブラウンの瞳をしており、それは彼の端正な顔をより引き立てている。


 社交界では令嬢や貴婦人方から一方的に熱い視線を受けていると噂のジークハルトから、本来だったらとってもよろしくない言葉の数々を浴びせられたのだが、執務机の前に立つ彼の妻となる予定の女性はなぜかニッコリと微笑んだ。


「はい! 承知いたしました!」


 意気揚々と返事をしたのは、銀髪にアイスブルーの瞳が印象的なソフィア・エリオン男爵令嬢、十八歳である。


 彼女は、遠路はるばる嫁入りのために一週間ほどかけて実家からこちらの公爵家の屋敷まで赴き先ほど到着したばかりだというのに、いざ夫となる人物と顔合わせに挑んだら冒頭のセリフを言われたというわけである。


 それなのにソフィアは傷ついた様子一つなく、非常にあっけらかんとしている。

 その様子に冷徹と評判のジークハルトは目を瞬かせた。


「……本当によいのか」

「はい! 一向に構いません!」

「そうか。……君はやはり聞いていたとおり、すでに何人もの男がいるのだな」


 どこか侮蔑を含む視線を向けるジークハルトに対して、ソフィアは慌てて首を横に振った。


「い、いえいえいえ、そ、そんな、今まで殿方と、いえ、人とまともに会話すらしたことのないわたくしが、そんなはずはありません!」

「……人と会話をしたことがない? そんなことがありえるのか?」

「はいっ! ですので、今わたくしはとっても緊張をしているのですが、公爵様がわたくしと進んでお話をしようとしてくださったお陰で、こうして無事に会話をすることができております! 公爵様、わたくしと会話をしてくださってありがとうございます!」


 ジークハルトは唖然とした後、額に手を当てた。


「いや……、人と会話をしたことがないというわりには、円滑に話すことができていると思うが」

「左様ですか⁉︎」


 ソフィアは、表情をパッと明るくして微笑んだ。


「それはもう、この日のためにこれまで日々空想をしてイメージトレーニングを積んだ賜物です! 安心いたしました!」

「イ、イメージトレーニング?」


 何のことか分からないといった様子のジークハルトをよそに、ソフィアは目を輝かせる。


「わたくし、これから一年間公爵様のために、いえ、グラッセ公爵家のために精一杯お飾り妻として励んでいきたいと思います! よろしくお願いいたします!」

「あ、ああ」


 再び意気揚々と高らかに宣言をしたソフィアに、少々押され気味のジークハルト。

 

 こうして、二人の契約結婚生活は幕を開けたのだった。


 ◇◇


 銀髪の令嬢ソフィアは、エリオン男爵家の次女として生まれた。


 エリオン家は先祖代々このロジット王国で魔法使いを輩出してきた名家であり、彼女の姉や弟は莫大な魔力を持って生まれたのだが、なぜかソフィアは生まれた時から全く魔力を持ち合わせていなかった。

 

 そのために、超魔力至高主義のソフィアの両親は彼女が生まれたことをまるでなかったことにしたのだ。

 なので、両親は姉と弟を溺愛したが、ソフィアのことは一切拒絶し、会話すらしなかった。


 周囲の侍女や乳母ですら物心ついた時からまともに会話をしてくれなかったし、これまで通っていた地元の貴族アカデミーでも姉の根回しのせいで友達一人できず寂しい学園生活を送ったのだ。

 

 ちなみに、姉は魔法科の生徒であり、ソフィアは普通科だったのだが、この国では魔法使いの権力が強く、魔法科の、それも魔法使いの名門家の令嬢が普通科の魔力なしのソフィアの悪い噂を流すことなど造作もないことである。


 そして、アカデミーを卒業して数日後。

 実家の執務室に呼び出され、父親から一方的にグラッセ公爵家に嫁げと言われた時も、こちらの質問には一切応じてくれず話が終わるとすぐに退室させられた。

 また、ソフィアは両親の圧力で元々希望をしていた王宮女官の試験を受けることができず、卒業後も家で待機をしているようにと命じられていたのだ。


『あの、皆さん。今まで本当にお世話になりました! 皆さんお元気で』

『ん? 今、誰か何か言ったかしら?』

『いいえ? 何も聞こえなかったわよ。この家には魔力がない子供なんて最初からいなかったの』


(お母様、お姉様……)

 

 そうして、ソフィアは家族や使用人たちから誰一人として見送られることなく、グラッセ公爵家へと旅立っていった。


 ソフィアは、ジークハルトとの正式な婚姻書類と離縁書類にサインをし、書類の作業を終えると、即刻退室するようにと促されたので退室した。

 ちなみに婚姻書類は本日、離縁書類は約一年後にそれぞれ貴族院へと提出をするらしい。


(これからお飾り妻として励まなければ! ですが、これからどちらへと向かえばよろしいのでしょうか?)


 そう思っていると、ソフィアの元に公爵家の家令と侍女が素早く彼女に近づき一礼をした。


「それでは奥様。奥様のお部屋の準備は整っておりますので、よろしければこれからご案内をいたします」

「ありがとうございます! それではよろしくお願いいたします!」


 そうして、ソフィアは意気揚々と一歩を踏み出したのだった。


 ◇◇


「こ、ここが、わたくしのお部屋ですか⁉︎」

 

 ソフィアは、これまで実家では私室という名の屋根裏部屋を割り当てられてはいたが、その部屋には最低限必要な家具のみしか置いていなかったし、花ひとつ飾っていなかった。


 だが、案内された部屋の調度品はマホガニーで統一されていて、小花柄のソファはとても可愛らしい。

 中央のテーブルには薔薇やかすみ草、季節の花々が豪華な花瓶に生けられている。


「こちらの家具は……もしや、お飾り妻であるわたくしが使用してもよろしいのでしょうか⁉︎ なんて素敵なお部屋なのでしょう! ありがとうございます!」


 思わず感極まって訊いてしまったが、家令と侍女に自分がお飾り妻だということを話してもよかったのだろうか。


 ただ、彼らはソフィアをこの部屋に案内をした時点で事情を知っていると推測できるので、おそらく問題はないだろうと彼女は考えた。


 その思惑が当たったのか、彼らは特に動じる様子はなく淡々としている。


 家令のトーマスはスラッとしていて高身長であり、大方五十代ほどの男性だ。

 ソフィアは、ブロンドと家令の専用の紺色の衣服が彼にとてもよく似合っていると思った。


「はい、左様でございます。……ただ、奥様」

「は、はい!」

「奥様のお立場に関することは、この屋敷の一部の使用人は存じてはいるのですが、皆には契約期間中はあくまで奥様として接するように指示をしておりますので、奥様もそのように承知しておいてくださいますようお願いいたします」


「は、はい。失礼いたしました。今後気をつけます!」

「こちらこそ、差し出がましいことを申し上げました。お許しください」

「い、いえ。お顔をお上げください!」


 慌てて顔を上げるように促すソフィアに、トーマスはスッと姿勢を正した。


「それでは奥様。私はこれで失礼いたします」

「はい、ありがとうございます!」


 家令のトーマスが去ると、室内にはソフィアと侍女のテレサのみになった。


 テレサは、赤みがかった栗色を頭の後ろで綺麗にまとめた清潔感を覚える女性である。年齢は、十八歳のソフィアよりも少し上だろうか。


「奥様。わたくしは本日から奥様の専属の侍女となりますテレサ・アローズと申します。これから、どうぞよろしくお願いいたします」


 そう言って、両方の手でお仕着せのスカートの裾を掴み綺麗な姿勢で膝を折りカーテシーをする彼女に、ソフィアは目を輝かせた。


 同年代の女性に話しかけてもらうことなど、生まれて初めてではないだろうか。

 胸の奥が熱くなり、目の奥がツンとした。


「わたくしはソフィア・エリオンです。こちらこそ、どうぞこれからよろしくお願いいたします」


 ソフィアもカーテシーをして応えた。

 テレサのカーテシーと比べても綺麗な姿勢で、遜色なく見える。


「それでは奥様。お茶を淹れる用意をして参りますので、一度失礼いたします」

「は、はい。ありがとうございます!」


 ソフィアは高鳴る鼓動を抑えながら、テレサを見送った。

 彼女は、自分がお飾り妻になることを指示されたことに関しては、正直なところ全く驚いていなかった。


 そもそも、この結婚話自体が架空のもので、両親は体よく自分を屋敷から追い出すための芝居を打ったのではと思っていたぐらいだからだ。


 大体、実家での両親の仕打ちからしてとても自分に良縁なんて回すわけがなく、良縁があったら真っ先に姉に回すだろう。


 なので、正直なところ自分は娼館に送られるか街に置き去りにされるか、もしくは醜聞を避ける両親なので、どこかの貴族の後妻にされるかだと思っていた。


 お飾り妻は予想外だったが、ともかく一時的であるとはいえ好待遇のようなのでホッと胸を撫で下ろした。

 ただ、期間限定の身分であるのでその後の生活のことを考えなければいけない。


「あわよくば、どこかの貴族のお屋敷に住み込みで働ければよいのですが……、それかメイドの仕事を覚えて街のどこかの食堂などで雇ってもらえないでしょうか」


 そう思うと、お飾りといえど色々とやることはありそうだと胸を躍らせるのだった。


 ◇◇


 ソフィアは、ジークハルトに関しては冷徹であまり社交界には顔を出さない公爵ということを、実家の屋敷のメイドたちが話をしていたのを辛うじて聞いたことがあるくらいだった。

 ただ、たまに顔を出した際には彼の周囲に人だかりができて、貴婦人方がこぞって押し寄せるとも聞いたのだが。


 なので、このグラッセ公爵家がどれほどの規模の領地を持っていているのかや、事業を行っているのか等を今の時点では把握することはできていない。

 

 というのも、ソフィアは実家やアカデミーでほとんど自由に動くことができなかったために、情報の入手に限界があったからである。


「ご飯が、とっても美味しいです!」

 

 今朝の朝食メニューはスクランブルエッグにベーコン、シャキシャキレタスとトマトのサラダである。


 スクランブルエッグはとても芳醇なお味で、付き添いのカリカリに焼けたベーコンがそれを際立たせてくれている。


 また、サラダのドレッシングは油がよいのかすっきりと後味がよくてとても美味しい。

 加えて、サラダのクルトンはカリカリで食感がよく、クルトンのバターの風味がほどよく感じられてよいアクセントとなっている。


 ソフィアは到着した日からジークハルトの指示なのか、食事は私室のテーブルで一人で摂っていた。


 ただ、一人で食事を摂ること自体は、ソフィアにとっては当たり前のことだったので特に問題なくすんなりと馴染んでいる。


 だが、実家ではこのようにコックが作ったものではなく、誰も用意などしてくれないのでこっそり厨房へと入り込み残り物のパンやソーセージなどを持ち出して食べていたのだが。

 

 なので、アカデミーの食堂以外ではこのような温かい食事はほとんど摂ったことがなかったために、ソフィアはグラッセ公爵邸での毎日食事の時間が楽しみになっていた。


 ただ、ジークハルトとはほとんど会うことができていないので、そのことに関しては少し心寂しく思った。


(もし可能であれば、公爵様ともう少しお話をしてみたいです。……いいえ、わたくしの役目はあくまでお飾り妻に励むこと! 公爵様が会話を求めているのならともかく、そうでないならわたくしが求めてはいけませんね!)


 だが、お飾り妻とは一体何をすればよいのだろうか。

 毎日ぼんやりと過ごしていたらあっという間に一年が過ぎてしまいそうだが、それはソフィアの性分に合わなかった。


 契約期間が切れたあとの生活のことも考えねばならないし、ぼんやりとはしていられそうにない。


(すでに、公爵様や公爵家には一宿一飯の恩があります。たとえお飾りといえども、何かのお役に立ちたいです……!)


 ソフィアは勢いよく立ち上がって、足速に窓の近くまで駆け寄った。

 ちなみに、ソフィアの部屋の窓から見える風景は中庭で、見事な薔薇などの花々が咲いているのが見える。


 窓を開けて風にあたると、思考がはっきりしてくるように感じる。


「そもそも、お飾り妻の定義とはなんでしょうか……」


 呟き、本棚の前まで移動をした。

お飾り。つまり、「見せかけだけの存在で実質的な意味を持たずに体裁を整えるためにおかれるもの」と、室内の本棚に並んでいる辞書で引いたらそう書いてあった。


「実質的な意味を持たない……」


 その言葉に胸がズキッと痛む。

 まさに実家での自分の境遇、いやこれまでの人生そのものがそうだったと言えるのではないか。


 魔力がないというだけで、そこにいないように実質的な意味を持たないように接せられる。


「見せかけだけこなせれば、それでよいのでしょうか。わたくしは実家ではいないように扱われましたが、ここではお飾り妻という『いること』を許された存在です。それを活用して、このお屋敷のために何かできないでしょうか……」


 呟くと、あることを閃いた。


「そうです。あくまでもお飾り妻の体裁をとって、何かお手伝いをすることはできないでしょうか。幸い、帳簿の管理や人材の管理などはアカデミーで習得していますし、補助的なお手伝いができたらよいのですが」


 そう思うと、心がスッと晴れ渡るようだった。


 この屋敷の主人であるジークハルトは、ソフィアにお飾りの役目を求めたが会話をしてくれた。家令のトーマスも侍女のテレサもそうだ。


 なので、自分の功績にさえしなければ仕事をして、彼らのために役立つこともできるのではないだろうか。


「では、早速公爵様に交渉に行きましょう」


 そうして、ソフィアは意気揚々とジークハルトの執務室へと向かったのだった。


 ◇◇


 それから、ソフィアは記憶を辿ってジークハルトの執務室へと赴き扉をノックすると室内からはジークハルトではなく家令のトーマスが姿を現した。


「奥様。御用でございましょうか」

「エドワードさん! あの、ここは公爵様の執務室ではなかったでしょうか?」


 誤って家令のトーマスの執務室を訪ねてしまったのだろうか。

 ちなみに、エドワードとはトーマスのファミリーネームである。


「いえ、ここは間違いなく旦那様の執務室ですが……、まさか奥様。おひとりで、誰の案内もなしにこちらまで出向かれたのですか」

「は、はい。左様ですが、……やはり、ひとりでお屋敷の中を歩くのはまずかったでしょうか?」


 お飾りの分際で出しゃばるなということであれば、むしろ「お飾り妻がしてよいことの線引き」の判断材料になるので好都合だと思った。

 ただ、ショックをまったく受けなかったといえば嘘になるが。


「いいえ、そのようなことは決してございません。奥様におかれましては、誤解を与えるような物言いをしてしまい申し訳ございません」


 スッと頭を下げるトーマスに、ソフィアは慌てて上げるように促した。


「自由にお屋敷の中を歩くことができるのであれば、安心いたしました!」


 再びホッと胸を撫で下ろすソフィアに、トーマスは場所が場所だからなのか手短に説明を始めた。


「先ほど私があのように申し上げましたのは、奥様はお屋敷にお住まいになられてからまだこちらには一度しか訪れたことはないのにも関わらず、こちらまで迷わずにたどり着くことができたことに感銘を受けたからです」


 言われてみれば、到着するまでにはいくつか廊下が分岐していて、意識して記憶をしていなければ迷った可能性もある。


「そ、そのように仰っていただけて感無量です! わたくし、記憶力には少々自信があるのです」

「それは、左様ですか」


 トーマスは、このことについては特にこれ以上掘り下げないようだ。


 ただ、ソフィアが記憶力に自信があるのは理由があり、それは「誰かに話しかけても答えてもらえないから訊くことができないので、自分で対処をしているうちに自然と記憶力がよくなった」からなのだが、そのことをトーマスに打ち明けるタイミングを逃してしまった。


「旦那様は、現在お屋敷にはいらっしゃいません」

「左様でしたか」


 ソフィアはがっくりと肩を落とすが、それならばと思った。


「実は、公爵様にお願いがあって参ったのです。現在公爵様はどちらにおいででしょうか」

「旦那様は、お仕事のために外出なさっています」

「左様ですか」

「はい」


 トーマスの話によると、なんでもジークハルトは公爵家が経営している「魔法道具の製造・販売を手掛けている商会」の会長であり、その他にも領地の管轄を行う傍らで貴族院の議員も務めているらしい。

 肩書きを聞いただけでも、多忙そうである。


(公爵様は、とても凄い方だったのですね! それに多忙でいらっしゃいます。わたくしのためにわざわざ割いていただくような時間は持ち合わせていないでしょうし、わたくしもそれは望みません)


 ならば、ダメ元だがトーマスに相談してみることにした。


「エドワードさん。わたくしに、何かお手伝いできることはありませんでしょうか。わたくし、アカデミーで少々帳簿の管理や書類の整理などには覚えがありますので、何かの役に立てればと思い立ったのですが」

「奥様がでしょうか」

「はい」


 トーマスの身に纏う空気が張り詰めているので、これは有無を言わさず断られるなと思い目をぎゅっと瞑った。


「その、あくまで、わたくしは行うだけで公には別の方が行ったことにしていただければと。ただ、何か不備があれば責任は必ずわたくしが負いますので!」


「左様ですか。ただ、それは私では判断しかねますので、旦那様がお戻りになられましたら改めてお訊ねされるのはいかがでしょうか」


 否定されると思っていたのでホッと胸を撫で下ろしたが、同時に疑念を抱く。

 このまま質問をせずに去ることもできたが、それではきっと自分の要望が通る可能性は低いままだと思った。


「公爵様は、わたくしと会ってくださるでしょうか?」


 何よりも、まず会うことができない気がした。


 今回は思い立って執務室へと訪ねてみたが、ジークハルトは基本的に外へ働きに出ているし、戻ってきても屋敷でも仕事がありとてもお飾りの自分と会う時間など作らないだろう。

 それに、疲れているのだろうからわざわざ時間を作ってもらうのも気が引けた。


「それは私には判断いたしかねますが、……今晩、旦那様がお戻りになられましたら、内容は伏せますが奥様が旦那様に要望があるので面会を希望していたと伝えておきます」


 瞬間、ソフィアの表情がパッと明るくなる。


「左様ですか! エドワードさん、誠にありがとうございます!」


 ソフィアは、深く辞儀をしたあと「わたくしはこれで失礼いたします」と挨拶をしてから自室へと戻った。

 自室のソファに腰掛けると、安堵の息を吐く。


「これで、一歩を踏み出せたでしょうか!」


 そう思うと、鼓動がが高まったので落ち着かせるためにも本を読もうと本棚の本を何冊か持ってきたのだが、ふとあることが過った。


(わたくしは、どうも感極まって勢いよくお話しをしてしまう傾向がありますね。特に真面目なお話をする際は気をつけなければ! そうですね、さしずめ感動スイッチを切り替えると表現しましょう)


 そう思うと、改めて読書を始めたのだった。


 ◇◇


 ジークハルトは、実母の影響で貴族の女性が苦手である。


 なぜなら、彼の母親は社交界に自分の存在価値を見出したような人で、毎日どこかで開催されている夜会へと出かけていき、ジークハルトとはほとんど顔を合わすことすらなかったからである。


 ただ、時おり会ったときに会話は交わしたが、従来貴族は子供の世話は乳母に任せるものなので、母親も例外なくジークハルトとほとんど関わろうとしなかったのだ。


 だが、ジークハルトが幼いときに、彼女の夫である前公爵の顔色を伺うときにだけ自分を連れ出して溺愛しているかのように接したが、夫の関心が母親にないことが分かると彼女はことごとくジークハルトに当たり散らし、体罰もした。


 挙句の果てには、不倫相手の子供を身籠り駆け落ちをしてしまった。

 そんな経緯があったので、彼は貴族の女性に対して嫌気がさしたのだ。


 加えて、以前に自分の意見は押し殺し家のためだと自分に言い聞かせながら、伯爵家の令嬢と婚約をしていたこともあったのだが、彼女が魔法道具事業に関して社交界に情報を流してしまったのでその話は破談となった。


 ちなみに、その情報は尽力をして何とか広まるのを防ぐことができたのである。


 そのようなこともあり、ジークハルトは貴族女性に対して嫌悪感を抱きますます拒否反応を強めたのだ。


 だが、国王からは結婚しろと何度も言われ、とうとう結婚をしなければ爵位を養子に継承する際に必要となる授爵状の発行を許可しないとまで宣言されてしまった。

 

 国王としては、建国に関わるグラッセ公爵家の血統を絶やさないための発言であり本望ではなかったのかもしれないが、そこまで言わなければジークハルトが動かないことを考慮していたのだろう。


 なお、現在公爵家の直系の血筋は引退した父親、ジークハルトと姉のアリア、アリアの二人の子供である。

 だが、姉のアリアは伯爵家へと嫁いでいるのでそちらの爵位の関係もあり、国王としてはやはりジークハルトが世継ぎを残すのが好ましいと考えているのだろう。


 なお、契約結婚の期間が一年間なのは、現在十歳の姉の子供であるテナーを将来に爵位を継承する授爵状の発行手続きが完了するまで一年かかるからだ。


 ちなみに、テナーが爵位を引き継ぐのは、彼が成人してから何年も経ってからなのでまだ時間はある。

 その時までに、自分が公爵としてやれることを存分にやれば問題ない。そう彼は考えたのだ。


 もちろん、ジークハルトはこれからも本当の結婚をすることも子供をもうけることも考えていなかった。

 国王からは「一度でも結婚するように」と言われているので、たとえ離縁をしたとしても結婚をしたという事実があれば支障はないだろう。


 ◇◇


 帰宅後、ジークハルトはすぐに私室へと戻り身につけているフロックコートを脱いでコートスタンドに掛けた。

 手慣れた手つきで私室用のシャツに着替え、簡易的なウエストコートを羽織り執務室へと向かう。


 現在は二十一時半を超えており、夕食は商会の食堂で済ませて来ているし、今は公爵家の仕事を少しでも片付けておきたかった。


 帳簿や管財人からの報告などは現状では女主人が不在であるので家令のトーマスに任せているが、細かいところや決裁が必要な書類の処理などはジークハルトが行わなければならない。


 毎月、月末には書類の処理を終えて月はじめに備えるようにしており、今は月末ということもあり未処理の書類の整理を少しでも行っておきたかった。

 

 なので、彼は入室するなり光魔法系統の魔法道具を起動させてから執務机と向かった。


 万年筆を走らせていると、扉から不意にノックの音が響き渡った。

 気がついたら、作業を始めて三十分ほど時間が経過していたようだ。


「旦那様、お帰りなさいませ。お時間を少々よろしいでしょうか」

「ああ、構わない」

「失礼いたします」


 現在の時刻は二十二時を過ぎており、家令のトーマスがこのような遅い時間にジークハルトの執務室を訪れることは珍しいことであった。

 トーマスは遅い時間にも関わらず、家令専用の衣服をきちんと身につけている。


「何か書類に不備があったのか」


 今日はトーマスに決裁書類のチェックを依頼していたので、その件で報告があるのかもしれない。


「いえ、書類に不備はございませんでした」

「では何用だ」

「はい。一つ奥様から言伝がございます」

「妻?」


 ジークハルトは一瞬なんのことかと身体を固くしたが、すぐに先日招いたソフィアのことが思い当たった。


 そもそも、ソフィアがこの屋敷に住み始めてから今まで一会ったのは一度であるし、書類上のみの関係なので自分の妻と言われてもピンとこないのだ。


 ただ、自分の都合で彼女とは期間限定の結婚の契約を交わしているのでそのような心持ちでいること自体申し訳が立たないのだが、どうにも貴族女性のことが苦手なので接しようという気持ちは湧かなかった。


「ああ。彼女がどうかしたのか」


 ソフィアは意気揚々とお飾り妻に励むと宣言していたが、その実、金や宝石類を無心しようとしているのではないかと思う。

 ジークハルトは、これまで無防備そうに見せかけて実は肉食獣的な貴族女性に、何度も狙われてきたのだ。


「はい。近いうちにお会いしたいとのことでした」

 

 ジークハルトは内心でため息を吐いた。

 面会など、会ってどうしようというのだ。多忙で中々時間も取れないのもあるし、そもそも先ほどのような金銭の要求などをされたら厄介だ。


「そうか。だが、それは難しいだろうな」

「左様でございますか」


 トーマスは、少し間を置いてから切り出した。


「ですが旦那様。いくら契約結婚といえども、これから一度も奥様と顔を合わせないおつもりでしょうか。奥様は書類上ではすでに旦那様の正式な奥様であられるのですよ」


 トーマスの物言いは穏やかだが、その実、ジークハルトはそれに鋭利な刃物のような切れ味があるように感じた。

 ちなみに、婚姻書類は昨日中に王宮の貴族院に提出をし、無事に受理されている。


「……そうだな。であれば、明日の朝食の際に話を聞くと言っておいてくれないか」

「明日の朝食でございますか?」

「ああ」


 今はすでに夜の二十二時を回っており、おそらくソフィアは就寝している頃だろう。


 予定を伝えるのは早朝になるのだろうが、確か今日は自室で朝食を摂っているはずであり明日もそうすると思っているだろうから、突然そのようなことを伝えられたら戸惑い、人によっては怒り出すかもしれない。


 それが分かっているからか、トーマスはあまりよい顔をしなかったがすぐに辞儀をした。


「かしこまりました。早朝にお伝えするように手配をいたします」

「ああ、頼む」

「はい」


 トーマスは、再び辞儀をすると「失礼いたします」と言ってから退室して行った。


 ジークハルトは、残りの書類の処理を終えると先ほどトーマスと入れ替えで入室した侍女が持ってきたコーヒーを一口飲み小さく息を吐いた。


(思えば、エリオン男爵は困った末娘がいるので、是非、契約結婚でもなんでもして欲しいと、わざわざ夜会で私に今回の話を持ちかけてきたのだったな。それに、娘はわがままで手がつけられないから冷遇して灸を据えて欲しいとも)


 冷遇に関しては、「一部の使用人に彼女の立場を前もって伝令しておく」「本来ならば夫人の部屋を割り当てるべきなのに、姉が使っていた子供部屋を割り当てる」等をしたが、流石にそれ以上のことをしようとは思わなかった。


 ソフィアの用件が気にはなったが、ジークハルトはトーマスが彼女に対して丁寧な対応をしていることの方が気にかかった。


 というのも、トーマスは実力主義的なところがあり、向上心がない者や努力を怠っている人間に対して容赦がないのだ。

 だが、思えばソフィアに対しては最初から彼は上級の客をもてなすように接していたように思う。


 そもそも、仕事や他者に厳しいトーマスがソフィアの申し出をわざわざ深夜に家令の服を着てまで伝えにくること自体が異例であり、そのこと自体彼がソフィアに一目置いているということなのだろう。


「ソフィア・エリオン……か。あの瞳に偽りはあるのだろうか」


 ジークハルトはコーヒーカップをソーサーの上に置くと、昨日この執務室で意気揚々とお飾り妻を励むと言い切ったあの瞳を思い浮かべた。


 彼女のあの瞳は強い信念を抱いているようであり、彼はこれまであのような瞳をした令嬢と会ったことなど一度もなかった。


 だからなのか、ジークハルトはソフィアの話に少しだけ耳を傾けてみようと思ったのだった。


 ◇◇


 グラッセ公爵家の朝食は朝の七時からなのだが、ソフィアは十分前に食堂へと入室した。

 ちなみに、ソフィアは先ほど今回のことを聞いたのだが意気揚々と二つ返事で了承したのだった。


だが、まだジークハルトは訪れていないようなので、先に席につくわけにもいかない。

 ただ、ぼんやりと立って待っているのも性分に合わないので、ソフィアは食堂内ですでに待機をしている給仕や執事らに挨拶をして回った。


「皆さま、おはようございます」

「おはようございます、奥様」

 

 皆、笑顔で受け答えをしてくれるので、ソフィアの心中に嬉しい気持ちが湧き立つ。


 思えば、この屋敷に移住してから初めて食堂に足を踏み入れたので、とても新鮮な気持ちである。

 そもそも、実家では気がつけば屋根裏の私室で食事をしていたし、アカデミーでは食堂で一人で食事をしていたので、食堂で誰かと食事をしたことはほとんどなく、これからそれができるのだと考えるだけで胸が熱くなった。


 そして、食堂の扉が開き一同そちらに視線を移す。

 両方の壁際で待機をしていた使用人らは、一斉に辞儀をした。


「おはようございます、旦那様」

「ああ、おはよう」


 ソフィアは、軽やかに自席へ腰掛けたジークハルトの側に近づきカーテシーをした。


「おはようございます! 公爵様」

「……ああ」


 ソフィアの勢いのよい挨拶に押されたのか、ジークハルトは目を細めた。


 それから、ソフィアも向かいの席に着席し、まもなく食事が次々と運ばれて来た。


 なお、公爵家ではジークハルトが朝食に時間を割ける時間があまりないため、食事が一度に提供されているのだと先ほど使用人らから教えてもらった。


 今日のメニューはオムレツと焼きたてのパン、コーンポタージュである。


 オムレツの中には二種類のキノコが入っていて、とても美味しい。

 付け添えのマッシュポテトには、ヨーグルトがあえられているのか味のアクセントになっていて、オムレツとの相性も抜群だ。

 コーンポタージュはコーンの味が濃厚に感じられて、口に含んだ途端思わず顔が綻ぶ。


 この感動を是非伝えたい! 

 そう思うのだが、ジークハルトの雰囲気が重くとてもいい出せそうになかった。


 ともかく、食事に集中することにしたが、いつか食事の感想を誰かに言えるようになればとソフィアはそっと思った。


 そして、食後。

 美味しい食事の余韻に浸っていたい気持ちは強かったが、多忙なジークハルトはおそらくこのあとすぐに身支度をし、仕事へと出かけなければならないだろう。

 なので、ソフィアすぐに気を引き締め、背筋を伸ばして意を決した。


「公爵様、お願いがございます」

「ああ」


 ジークハルトは口元をナプキンで拭うと、右手を上げた。

 すると、傍に控えていた給仕係や侍女らが辞儀をしてから速やかに退室した。ただ、家令のトーマスのみは残った。


 ソフィアは、深呼吸をすると意識して「感動スイッチ」を切り替えた。


「それで、君の話とは何だ」

「は、はい。実は、わたくしにこのお屋敷の女主人のお仕事のお手伝いをさせていただきたいのです」

「……それは、なぜだか聞かせてもらおうか」


 ソフィアの心臓が、ドクンと跳ねた。


「はい。わたくしは以前にお飾り妻に励むと申し上げましたが、すでに公爵様や公爵家には一宿一飯、いえ、これからのことを考えますと三十飯も百飯ものご恩があります。ですので、そのご恩を返したいと思い立ちました。もちろん、わたくしがそれを行っていることは公表しないでいただければと思っております」

「……そうか」


 あくまで冷静に説明をするソフィアに対して、ジークハルトは無表情を変えなかった。


「君の考えは理解したが、そもそも女主人がどのような仕事をするのか分かっているのか? いくら手伝いといえども、もし損害を出したら私は君に全面的に賠償を請求しなければならなくなるのだが」

「はい、存じております。加えて責任を負う覚悟もできております」


 普段は勢いよく返事を返すソフィアだが、今は真剣な瞳をジークハルトに向けていた。


「では、女主人の仕事内容を答えてもらおうか」


 瞬間、ソフィアは目を見開くが、すぐに頷いた。


「はい。一般的なお屋敷の奥様であれば、家や領地全体のお金の流れを記帳した帳簿の管理、領地の状態や各領地の管理者からの報告の取りまとめの補佐、使用人の管理などを行なっていると把握しています」


 ジークハルトは持っていたコーヒーカップをソーサーの上に置き、トーマスと視線を見合わせた。


「……そうだな。また、必要であれば女主人は夜会などの参加もするが、君はそちらを希望しているのではないか?」


 瞬間、ソフィアは目を見開いた。


「い、いえいえいえ、や、夜会などそ、そんな高レベルなコミュ力が必要なこと、わたくしには難しいですが、……もしお飾り妻として必要であれば、毎日特訓とイメージトレーニングをしてなんとか準備をいたします!」

「コミュ力……?」


 ジークハルトは目を細め、息を小さく吐いた。


「そうか。内容は把握しているようだな。であれば、試験をしようではないか」

「試験ですか?」

「ああ。エドワードに託しておくが、今日一日でこの公爵家が所有している主要の領地と管理者の名前、及び使用人の名前を覚えるように」

「旦那様、それは流石に……!」


 トーマスは異を唱えようとするが、ソフィアは大きく頷き立ち上がった。


「はい、かしこまりました。わたくし、誠心誠意全力で試験を受けさせていただきます!」

「ああ。では、夕食後に確認のための筆記試験を行うのでそのつもりでいるように」

「筆記試験……」


 ソフィアは、目を輝かせて頷いた。


「かしこまりました。わたくし、記憶力には少々自信があるのです」


 ソフィアは、「それでは早速取り掛かりますと」とカーテシーをしてから退室したのだった。


 ◇◇


「旦那様、あれではあまりにも……」

「容赦がないか?」

「え、ええ」

「だが、彼女は自分から責任が生じる仕事をしたいと申し出たんだ。試験をするのは当然のことだ」

「しかし、内容があまりにも酷ではありませんか?」


 ジークハルトは淡々と続ける。


「いくら手伝いといえども、女主人の仕事は重責だ。それを、易々と思いつきでやりたいなどと言ってもらっては困る。……それに、私の母親の例もあることだしな」

「それは……」


 ジークハルトの母親は、社交界に存在意義を見出したような人物であった。


 先ほどのソフィアの説明にあったような帳簿の管理などは、もっぱら家令に押し付けてほとんど仕事をしていなかったし、管理者の名前や使用人の名前なども一部の者を除きほとんど覚えていなかった。


「なに、筆記試験を実施して七割方正解を出せなければ今回の話はなかったことにさせればよい。その代わり、二度と女主人の仕事に関わりたいなどと言わせないように」

「……はい。かしこまりました」


 トーマスは、どこか腑に落ちないといった表情をしていたが丁寧に辞儀をしてから食堂を退室していった。


 ジークハルトもすぐに席を立ち、手元の鈴を鳴らすとすぐに執事が近寄りフロックコートを手渡した。

 そして、身だしなみを軽く整え玄関へと向かおうとするが、目前にふと先ほどのソフィアの真っ直ぐな瞳が浮かんだ。


(まさか、試験を突破できるわけがない。経験や知識を兼ね備えておらず、ましてや正式な立場でない者が下手に公爵家に関わり負債を抱えるよりは、最初から触れることなどしない方がよいだろう)


 そう内心で苦笑しながら、玄関の外で待機をしている馬車に乗り込んだのだった。


 ◇◇


 あれから、ソフィアは食堂を出るとまず屋敷中を歩いて周り、使用人全員に話しかけて名前を聞いた上で雑談をした。


 その結果、この屋敷には家令のトーマスをはじめ、家令や主人であるジークハルトの補佐をする執事が二人、その下で働くフットマンが五人いた。

 侍女はソフィアの専属のテレサ、先代から通いで勤めている侍女が一人、あとはメイドが三人、給仕が二人だ。


 加えて庭師や公爵家専属の医師、料理人など使用人は多数いた。


(やはり、公爵家は規模が違いますね! わたくしはあまり会話をしたことはないのですが、実家ではこちらの五分の一の数の使用人の方しかいませんでした)


 そう思うと、改めて自分は身分不相応の場所へ来てしまったと思った。

 だが、ともかく今は夕食後の試験に向けて対策をしっかり取らなければならない。


「エドワードさんが資料を作成してくださるとのことなので、そろそろ取りに行きましょう」


 そうして、ソフィアは家令部屋へと向かったのだった。


 そして、その日の夕食後。

 ジークハルトは仕事が立て込んでいるとのことでまだ帰宅をしていないが、屋敷の空き部屋の一室で筆記試験が行われていた。


 試験問題自体はトーマスの自作のようで、手書きの万年筆で書かれた用紙を配られ、先ほどから取り組んでいる。


 ソフィアは綺麗な姿勢でテンポよく試験用紙に万年筆で回答を書き込んでいき、二十分もかからずに書き終えることができた。


「できました!」

「もうできたのですか?」

「はい!」

 

 トーマスにとって予想外の早さだったらしく、ソフィアは彼が目を見開くところを初めて見た。


「ご確認をなさらなくても、よろしいのでしょうか」

「確認……。そ、そうですね! 試験は確認が肝心ですね!」


 そういって、ソフィアは手慣れた様子で手早く試験用紙にざっと目を通していく。


「はい、確認が終わりました! エドワードさん、採点をお願いいたします」

「はい、かしこまりました」


 トーマスは試験用紙を手に取り、自席に腰掛け赤インクをつけた万年筆で解答用紙を確認しながら、丁寧な手つきで採点を終えた。


 トーマスが目を見開き口を開こうとした瞬間、室内の扉が開きジークハルトが入室して来た。


「遅くなった。仕事が立て込んでな」

「公爵様、お帰りなさいませ!」


 ソフィアは勢いよく立ち上がりたくなる衝動を抑えながら静かに立ち上がり、両方のスカートの裾を掴んでカーテシーをした。


「ああ。……ただ、夕食後からあまり時間が経っていないので試験はまだ途中であろう。直ちに再び取り掛かるように」

「い、いえ! もう試験は終わりまして、丁度今、エドワードさんに採点をお願いしていたところだったのです」

「なに? それは本当か?」

「……はい」


 トーマスはスッと立ち上がり、試験用紙をジークハルトに手渡した。すると彼も大きく目を見開く。


「いや、これはいくらなんでも……。不正が行われた、わけではないか」

「はい。この室内にはカンニングができるような物は一切置いておりませんし、奥様が不正を行っていないことは始終私が見ておりましたので証明できます」

「そうか……」


 何か張り詰めた様子の二人を不思議に思いながらも、ソフィアは声を掛けた。


「あの、お取り込み中のところを申し訳ありませんが、試験の結果はいかがだったのでしょうか?」


 二人は一斉にソフィアの方を向き、遠慮がちにトーマスが口を開いた。


「満点でございます」

「まんてん、ですか?」


 ソフィアは思わず腑抜けたような声を上げてしまったが、すぐに満面の笑みを浮かべた。


「安心いたしました! 受験対策がバッチリ功を奏したようです!」


 喜ぶソフィアをよそに、ジークハルトの眼光は鋭い。


「まさか、君は事前に我が家の情報を入手していたのか? 使用人や領地の情報など、どのように入手したんだ」

「い、いえいえ、そ、そんな誰に話しかけても対応をしてもらえないわたくしです。そんな高度なこと、やりたくてもできません!」


 あっけらかんと宣言するソフィアに、ジークハルトもつられたのか唖然としている。


「そ、そうか。それは悪いことを訊いてしまったな。すまなかった」

「いいえ、どうかお気になさらないでください」


 妙なところで意気投合をする二人に、トーマスはボソリと「……ズレている」と呟いたがソフィアは何のことか分からなかった。


 ジークハルトはコホンと咳払いを一つした。


「ならば、今回の結果は完全な君の実力というわけだな」

「そのように仰っていただきますと、感無量です!」


 ジークハルトは満面の笑みでそう言ったソフィアを見ると息を飲んだが、すぐに気を取り戻したようだ。


「だが、領地のことに関してはどのように調べたのだ? エドワードに手渡すように命じていた資料以外のことが、この答案用紙には書かれているようだが」


「はい。領地に関してはわたくしが使わせていただいているお部屋の本棚にある程度の資料がありましたので、いただいた資料の知識でも充分解けましたが、そちらの資料のデータとも照らし合わせて解答をさせていただきました」

「そうか……」


 言葉を失くしている様子のジークハルトに、トーマスは更に付け加えた。


「十八分でございます、旦那様」

「何がだ」

「奥様が試験の解答に用いた時間でございます」

「……!」

「私は今回の問題の制限時間は一時間と設定いたしましたが、それでも通常であれば問題を全て解くには難儀だと思っておりました」

 

 ジークハルトは更に言葉を失った様子だが、しばらく何かを考えたのち口を開いた。


「君は、一体何者なのだ」

「わたくしは、記憶力には自信があるのです。……その代わり、大魔法使いを輩出した一族に生まれたにもかかわらず、全く魔力を持たずに生まれて参りました」


 そう言って僅かに苦笑したソフィアに、ジークハルトは小さく息を吐いた。


「……合格だ」


 瞬間、ソフィアは目を見開きジークハルトに深く一礼をした。

 

「ありがとうございます、公爵様」

「……明日からエドワードの補佐の名目で共に仕事を行うように。場所は私の執務室で構わない。……ただし、ミスや損害を出したときや君に責任があると判断した場合、賠償責任を負ってもらうし、君の存在は公表しない」


「はい! もちろんその条件で構いません。公爵様、ありがとうございます!」

「礼には及ばない。加えてエドワードの報告によってはすぐに君を仕事から外すこともあるし、帳簿に関しては触らないように」

「かしこまりました。重々承知の上で動きます!」


 そうして、満面の笑みで綺麗に辞儀をしソフィアは弾む心を抑えるように退室して行った。


 ◇◇


「どういうことだ。彼女は無能ではなかったのか」

「差し出がましいようですが、旦那様。奥様が先日こちらにご到着なされたときのお召しになられていたドレスですが、ご自身のサイズと合っていないように思いました。また初めてお会いした際の挨拶では、報告にあったような高慢な態度は微塵も感じられませんでした」

「そうか……」


 ソフィアのドレスのサイズが合っていないことは、実をいうとジークハルト自身も先日彼女と執務室で初めて会ったときに気がついていた。

 加えて、清純や淑女とはほど遠いドレスの装飾の派手さに嫌気を覚えたのだった。


「エドワード。彼女のことを調べてくれ」

「かしこまりました」


 トーマスは、綺麗な動作で退室していった。

 優秀な彼のことだ。おそらく、一週間も要さず報告があるだろう。


 ジークハルトが事前に調査を行わなかったのは、あえて男爵の言葉を鵜呑みにしたかった自分がいたからだ。

 その方が、「契約結婚」などというソフィアに対して非情ともいえる仕打ちをする自分自身の罪意識が、少しは軽くなるとどこかで思ったのだろう。


 また、エリオン男爵との話し合いでソフィアは契約が切れたあとは実家には戻らせず、公爵家の領地の農村でひっそりと暮らすように手配をすることになっていた。


 そのときは、もちろんジークハルトとは離縁をし実家にも戻れないので平民として生きることになるが、無能で男をたぶらかしてばかりの娘なので当然の対処だと父親である男爵からは聞かされていたのだ。


「だが、実際の彼女は百八十度違っていた。素朴で実に話しやすく……」


 途中で、自分自身の言葉に気がついて言葉を飲み込んだ。


「ともかく、彼女については報告が上がってから考える」


 呟き退室し廊下を歩いていても、先ほどのソフィアの笑顔を思い出すのだった。


 それから約三日後。

 トーマスからソフィアに関する調査報告が届いたと報せを受けて、早速ジークハルトは執務室で報告書に目を通した。


 だが、それに目を通せば通すほど、男爵が事前に伝えてきた「無能な末娘像」が崩れていくようだった。


(アカデミーを首席で卒業、特に問題行動はない。男の影どころか学友も一人もいない。いつも一人で行動をしていた)


 学生生活は学友はいなかったものの、学年考査の成績はいつも首位で、魔法論のスピーチでは優勝経験もあるようだ。


 他にも刺繍、芸術、数学、化学等、様々な分野に長けていて大会やコンクール等で優秀な成績を収めているらしい。

 ただ、貴族令嬢に必須なダンス科目に関してはパートナーが決まらかったので、参加することさえできなかったらしい。


(これは、先日に今まで人とまともに会話をしたことがないと言っていた彼女の言葉は真実のようだな……)


 そう思うと、何か形容のしづらい気持ちが込み上げてくるが、ともかく報告書を読み進めた。


 その先は、実家での彼女の境遇が記されていたのだが、それはエリオン男爵から聞かされていたことと百八十度違うことであった。


 男爵からは娘はわがままで手がつけられず、浪費癖が酷く毎月仕立て屋を呼んでは不要なドレスや宝飾類を購入すると聞かされていた。


 加えて、酷い癇癪持ちで気に食わないことがあればすぐに使用人や侍女にあたり散らしていたらしいが、報告書によるとそれはソフィアのことではなく彼女の姉のリナのことらしい。

 男爵はリナは自慢の娘だとやたら推してきたが、今思うとゾッとする。


 なぜ、男爵が姉妹の行いを間違って認識しているのかは不明だが、ソフィアの名誉は守らねばならないと思った。


 加えて、詳細な調査内容の割には調査期間が短かったことが気に掛かった。


「エドワード。お前は男爵家の調査に関して事前に行っていたな」

「はい。旦那様のご指示がないのにも関わらず動いたことに対しまして、謝罪をいたします」


 トーマスはジークハルトに対して、綺麗な姿勢で辞儀をした。


「いや、謝罪はよい。一時的とはいえ、公爵家に住まうことになる令嬢のことを事前に調べることは当然だろう。そのことに異論はない」

「ありがとうございます」


 ジークハルトは目を細めた。


(彼女に対してとんでもない誤解をしていた。……むしろ彼女こそ、……いや、私がそれをいう資格はない)


 そう思うと、ジークハルトはトーマスに声をかけてある提案をしたのだった。


 ◇◇


「公爵様と一緒にお食事をいただくことが叶い、とても嬉しく思います!」


 翌日の夕方。

 ジークハルトは商会の仕事が落ち着き珍しく夕方に帰宅することができたので、ソフィアを夕食に誘った。


 ソフィアは桃色の鮮やかなドレスに身を包み、頬紅や口紅も桃色で統一されている。

 ジークハルトは、それらは彼女にとても似合っていると思った。


 食事の工程が次々とこなされていき、いよいよメインディッシュの運びとなった。

 今日のメインディッシュは白身魚のムニエルだが、ソフィアは綺麗な動作で切り分けて口に運ぶと、弾けるような笑顔を見せた。


 ジークハルトは思わず見惚れるが、ソフィアは何かを言いたそうに何度かこちらに視線を送った。


「何か、私に言いたいことがあるのか?」


 訊ねるとソフィアは身体をびくりと小さく跳ねさせてから、ナプキンで口元を拭う。


「はい。あの、とても」

「とても?」

「とても美味しいです、公爵様! お魚とバターの風味がまるで上質な二重奏を奏でているようです!」

「二重奏?」


 味の表現にそのような語彙を使用するとは斬新だと思ったが、不思議と説得力がある説明だと思った。


 だが、同時にジークハルトはあることが気にかかり、コホンと咳払いをする。


「君は私の妻、なのだろう?」

「は、はい! あくまでお飾りではありますが……」


 そう付け加え小さく苦笑するソフィアの様子に、なぜだかジークハルトの胸がズキリと痛む。


「そうか。……であれば、私のことを公爵と呼ぶのは不自然だと思うのだが」

「!」


 思わず両手で口元を塞いで目を見開くソフィアだが、しばらく間を置いてから涙声で訊ねた。


「わたくしが公爵様のことを、……旦那様、とお呼びしてもよろしいのでしょうか?」

「ああ、かまわない」


 ソフィアはハンカチで目元を拭うと、真っ直ぐにジークハルトに視線を向けた。


「とても美味しいお食事を一緒に摂ることができて幸せです。……旦那様」


 そう言って柔らかく微笑むソフィアを見ていると、ジークハルトは自分の凍りついた心が溶けるような、そんな感覚を覚えた。


「……ああ、私も幸せだ」

「!」


 たちまち顔を真っ赤にする彼女を不思議に思うが、のちにトーマスから聞いた話だとジークハルトも気持ちのよい笑顔を浮かべていたそうだ。


 そうして、二人の優しい時間は続いていく。


(了)

今作をお読みいただき、ありがとうございました。


もし、少しでも面白かった、もしくは続きが気になる、等々思っていただけましたら、ブクマ、スクロール先の広告の下にある⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎でのご評価をいただけますと、今後の励みになりますので、とても嬉しいです…!

よろしくお願いいたします……!

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[良い点] ソフィアとジークハルトが少しずつ雪が融けるように距離が近づいていく様子が微笑ましかったです。 情景描写もとても美しく、参考にさせて頂きたい部分が多くありました。 ところどころで重要な役割を…
[一言] 続きが気になる流れですね。どんどんほだされていくのを想像すると楽しみです。
[良い点] ソフィアの頑張りがジークハルトに伝わるところで今後の幸せな展開を思わせる終わりで、ストレスなく拝読できて良かったです(*´ω`*) 連載版の1章部分にあたるのでしょうか。 こうして切り抜…
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