四 「見たって減らないわよ?」
おじさんとご老人が湯から上がり、入浴場から出ていく。
「お気をつけて」
そう愛想笑いをして琴吹は見送った。
たとえ知らない人しかいなくても、脱衣場に入る際と入浴場に入る際、誰かが帰る際、自分が帰る際なんかに挨拶するのが共同浴場の習わしらしい。
初日には脱衣場に入った時点から三、四回は「挨拶すんのな」と爺さん達に怒られた。
脱衣場で男性二人が寛いでいる姿が、ガラス戸越しに見える。雑談を始めたようだ。
農作物の作付けの話なんかいいから、はよ服着て帰らんかと琴吹は心の中で念じた。
一人きりになったら、先程おじさんに教えて貰った穴をこっそり覗く。もはやそれしか頭に無い。
こちとら、他人の前でも堂々と覗けるほど図太い性格していないのだ。
誰か来る前に、早く帰って欲しいな。
脱衣場の様子をちらちらと伺いながら、琴吹は一度洗った腕をもう一度洗った。馬鹿丁寧に何度も何度も洗い、時間稼ぎする。
ボディスポンジをゆっくりと足に移動。足の指と指との間を時間をかけ執拗に洗う。
おじさんとご老人は、農作物の学名やら農薬の成分の話で盛り上がり始めた。
農業歴数十年と思われる人同士の会話って、何か凄えなと鼻白む。
この辺は農家やってる人も多いのかと琴吹は思った。
温泉街から少し奥に行くと、山里の農村地帯らしい。代々の豪農なんて家もあるのかと想像する。
「ねえ」
女性の声がした。
女湯の方から聞こえているのかと思い、琴吹は仕切っているオフホワイトの壁を眺める。
「こっち」
大人っぽいセクシーな女性の声だ。女湯にいるんだろうか。
泡だらけの上体を少し傾け、おじさんに教えて貰った穴の辺りを眺める。
「こっち、こっち」
女性がそう言う。声のセクシーさが段々と増している気がするのは気のせいだろうか。
「う、え」
女性の声が、真上から聞こえた気がした。
有り得んだろと思いつつ天井を見上げる。
頭上に、二十代前半ほどの艶っぽい美女の顔があった。
弛くウェーブのかかった長い黒髪を肌の綺麗な上半身に垂らし、ボリュームのありすぎるバストも露に琴吹を見下ろしている。
「ひっ」
琴吹はタイルの上を臀部で後退った。
必要以上に泡を立てまくっていたので、臀部でツツーッとタイルを滑ることになる。
わたわたと両脚を動かし、どうしていいか分からず慌てて湯の中に飛び込んだ。
熱い。
だが怖い。
しかしバストが凄い。
かなり混乱した心情で、琴吹は口元まで湯に浸かった。
よく見ると、女性の下半身は大蛇のような形状をしていた。その下半身を伸ばし、仕切りの壁を越えてこちらに来ているのだ。
いわゆる蛇女。いや、まさかと思う。
「駄目じゃなぁい。ちゃんと泡を落としてから湯船に入らないと。泉ちゃんに胸ぐら掴まれるわよぉ」
仕切りの壁の上を、緑色に光る鱗に覆われた体が這っている。
女性が色っぽく腰を捻り、ますますこちらに上半身を近づけた。
「い、いや。なん、なに。何ですか、あなた」
何者と問う以前の問題だと思うが、混乱して当たり障りのない質問しか思い浮かばない。
「女湯覗きたがってたみたいだからぁ、ちょおっとだけ見せてあげようかと思って」
「ちちち痴女ですかっ」
熱い湯にぶくぶくと泡を吐きながら琴吹はそう返した。
「失礼ね。ちゃんと手拭い巻いてるでしょ」
胸に掛かっていた黒髪を両手で上げ、女性が瓢箪柄の手拭いを巻いたバストを見せる。
うっすら透けてるんですけどと突っ込むかどうか琴吹は迷った。
「今は “ぽりこれ” とか煩いんでしょ? 配慮してまぁす」
妖怪と思われる存在の口から、まさかポリコレという言葉を聞くことになるとは。琴吹はぶくぶくと泡を吐いた。
それ以前に本当に妖怪なのか。
何かのドッキリでは。浴場内を視線だけを動かしてきょろきょろと見回す。
「あああ……混浴だった時代が懐かしいわあ……」
女性は頬に手を当て俯いた。
「こここ混浴だったんですか、昔は」
この際どうでもいい質問だが、ついつい琴吹はそう質問してしまった。
「ずうっと昔ね。キミがまだ御玉杓子にすらなってなかった頃ね」
女性が細い指二本で小さなものを表現する。
何か例えがエロくないか、この人。
「おおおお話は充分分かりましたので、おお引き取り願えませんかっ」
泡をぶくぶくと吐きながら琴吹はそう答えた。
「やだお役所の人みたい。もう少しいいじゃん。見たって減らないわよ?」
女性が胸に掛かった髪を上げる。
それ、女性側が言う台詞かなと悩みつつ琴吹はぶくぶくと泡を吐いた。
「見たかったんでしょ? さっきから女湯誰もいないから、あたし壁の上から覗いてたのよね」
女性が仕切りの壁の上方を指差して、けらけらと笑う。
熱すぎる湯に浸かりっ放しにも関わらず、琴吹は鳥肌を立てた。
「キミの全身に絡んで、泉ちゃん呼んでピースしちゃおか」
女性が顔の真向かいでピースする。
な、何だそれ。琴吹はぶくぶくと泡を吐いた。
そんな訳分からん絡み見られたら、心証悪そうなのでやめてください。そう言おうとした。
なるべく早く風呂のあるアパートに引っ越そうと思っていたとはいえ、今日明日では無理だ。ここに通う間は、湯守と良い関係を築きたいじゃないですか。
そう言おうとしたが、顔がとんでもなく熱いような冷たいような、よく分からん感覚になった。
ぶくぶくぶくぶくと泡を吐いたまま、琴吹は目の前が暗くなるのを感じた。




