ニ 「お湯を水で埋める際は、地元の年寄りと一戦交える覚悟をすること」
「湯札……」
琴吹は復唱した。
札という名称から、木札のようなものをイメージする。
「それ、どこで貰うんですか……」
神社かどこかだろうか。
もはや初めて見るもの聞くものばかりで、パラレルワールドに迷い込んだ気分にすらなる。つい用意してきた風呂グッズを両手で抱き締めた。
「貰うんじゃなくて買うやつ」
泉が不機嫌そうに目を眇め、小窓の前の小さな木箱を指差す。
電車の切符のようなものが何枚か入っていた。
「あ、チケットみたいな?」
ようやく合点が行く。琴吹は小窓の周囲を見回した。
「販売機みたいなやつは」
「ない。湯札は、この辺りの取り扱ってる商店とかで買って来るの」
泉がそう答える。
琴吹はげんなりとして石段の上を見上げた。ここに来るまで散々迷ったのに、またあの入り組んだ街を今度はチケット販売店を探して歩くのか。
市役所職員さん、こういうことも教えといて欲しい。
「この辺りで一番近いのは、佐藤商店かな。ここ上がって行って、電気店の前行って」
「電気店……」
来る途中で見た覚えがない。ということは、これまた知らない道を行くのか。
ついつい泣きそうな顔になった琴吹を、泉がじとっとした目で見上げる。
「しょうがないな」
泉は立ち上がると、ややガサツな足音を立て部屋の端に向かった。
ガチャと音がし、建物の扉が開く。
「すぐそこだから連れてってあげる」
言いながら片足を上げ、スニーカーの踵を直した。
「えっ、番だ……湯守の仕事は?」
「ちょっとの間くらい誰も来ないでしょ」
ざ、雑な。
琴吹は小さな建物と石段の上を交互に見た。
泉が琴吹の二の腕を掴んで先導する。
「こういうところ初めてみたいだから、案内しながら注意事項言っとく」
石段を昇りながら泉が言う。
昇り切った先の比較的大きな通りには個人経営の店がいくつか並んでいるが、人通りは極めて少ない。
浴衣を着て歩く人が遠くに二、三人見えたが、湯治客だろう。上着を着ていそいそと歩いている。もう春なのに、肌寒いせいか。
「まず浴場で髪を染めるのは禁止。染めたかったら、アパートの流し台で染めてきて」
「あー……染めてないし予定も無いので大丈夫……」
シャンプーする程度しか手入していない自身の髪を琴吹は摘まんだ。
「入浴場に入ったら、最初に身体を洗ってから湯に入る。いきなり湯船に入らない」
「ああ……はい」
自宅の風呂ではいきなり湯船にドボンしてたが、駄目なのか。琴吹は素直に返事をした。
「湯船にはタオルを入れない」
「あっ、そうなんだ」
ついつい入れそうだと琴吹は思った。
「ここの温泉のお湯は熱めだけど、水で埋める場合は周囲の人にひとこと断ってから」
「あっ、はい」
成程。共同浴場だもんな。そういう気遣い必要か。そう考える。
「お湯を水で埋める際は、地元の年寄りと一戦交える覚悟をすること」
「は?」
腕を掴んでずんずん先を行く泉のロングの黒髪を琴吹は凝視した。
「一戦……?」
「ここの土地の人は喧嘩っ早い気質だからね。男湯は怒鳴られるくらいで済むけど、女湯のお婆ちゃん達なんて、柄の悪い観光客とも喧嘩するときあって」
何だそれと琴吹は引いた。
男性よりも女性の方が、より喧嘩っ早い土地なのか。
何か、成程という気分で琴吹は泉の後ろ姿を見詰めた。
「喧嘩とか起こると、管理人……湯守だっけ? 大変ですね。仲裁するとか?」
はは、と琴吹は苦笑した。
「話によっては参戦するけど?」
淡々と泉が言う。
嘘だろと琴吹は腕を掴まれながら後退った。
風呂に入る前から、もう疲れた気がする。なるべく早く風呂のあるアパートを探して引っ越そうと思う。
「あともう一つ」
泉が続ける。
「ここは古い温泉なんで昔から妖怪も来てる。たいていはマナー守ってくれるけど、悪質なのがいたら知らせて」
琴吹は無言で眉を寄せた。
何の話だろう。どう返せばいいのか。
「えっと……普段は何やってんの? あ、同じF大生とか?」
「高校生。E坂高校の二年」
そう泉が答える。
高校生か。そう思ったのとほぼ同時に泉が小さな建物の前で立ち止まる。
「ごめんくださぁい」
何の看板もなく、小さな廃屋ではと思うような建物のガラス戸をガラガラと開け、中に向かって声を上げる。
誰も出て来ない。
「ごめんくださぁい」
泉がもう一度声を上げた。中に入る。
古い小さな商品棚が二、三台並ぶ店内。お菓子や日用品がそれなりに並び、中に入れば店だとは分かる。
「おばんちゃぁん」
泉が上体を傾け奥に向けて呼び掛ける。
「しょうがないな」
泉は商品棚の奥の方に行くと、事務机の脇の戸棚から小さな箱を取り出した。
ぱかっと開けると、先ほど見た「湯札」の連なったものが折り重なって入っている。
「湯札、大人一枚持って行くねえ」
奥に向かってそう言うと、泉はこちらに手を差し出した。
「えっ、何」
「入浴料」
ああ、と頷いて琴吹は財布を取り出した。百円玉を泉に手渡す。
「ごめん、泉ちゃん」
ばたばたと足音を立て、ニットの上着を来た少女が現れた。
快活そうな茶色みがかったボブヘア。丸顔に大きな目の顔立ちが、何となく泉に似ている気がする。
「灯油入れでたんで手ぇ洗ってだ」
「澪ちゃん、おばんちゃんは?」
湯札を一人分切り離しながら泉が問う。
「台所に河童出たんで追っかけてった」
「河童……?」
顔を歪めて琴吹は呟いたが、少女二人は平然としていた。
地元のスラングか何かだろうか。
「猫より行儀悪りな」
「等級Cの貰いもんの胡瓜、二本だけなんだけどね」
澪が、あははと笑う。
「……等級Cって?」
「三センチ以上曲がってる、売りもんになんない胡瓜」
泉が答える。
「どうせ廃棄だから、農家の親戚がどっさり寄越すんだ」
「味は変わんねんだけどな」
泉がそう続ける。
「泉ちゃんとこにも、後で持ってくね」
商品棚に肘を付き澪が言う。泉が湯札の箱を元の棚に置いたが、勝手にさせて全く平気らしい。
「どもな」
そう挨拶すると、泉は琴吹の背中を押し外に促した。
「その人、F大の新入生の人?」
澪が少し身を乗り出す。
「あ、湯ノ沢 琴吹っていいます」
琴吹は愛想笑いをした。
「あたしは佐藤 澪。泉ちゃんは湯口 泉」
澪が自身と泉とを交互に指し自己紹介する。
「何であたしまで言うの」
「行ぐよ」と続けて、泉は琴吹の服の肩口を引っ張った。




