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十ニ 「出たわね痴女!」

 湯気がもうもうと立つ入浴場。

 先ほど泉がすたすたと入って来て窓を開けて行ったが、それでもまだ少し湯気が(こも)っている。

 女湯の方は、やはり向かい側の建物から覗かれるのを警戒して大きくは開けられないとか。

 その分、男湯の窓を大きく開けて行くんだろうか。えらく大きく開けられた窓から、まだ肌寒い夜の空気が流れ込んでくる。

 外の景色がパノラマのように窓辺に見える様子は、露天風呂にでも入っている気分にさせられるなと思う。

 琴吹(ことぶき)は、熱い湯に肩まで浸かった。最近は湯船に三十秒ほどなら入っていられるようになってきた。

 だいぶ慣れたと思う。

「あんちゃん、あんちゃん」

 向かい合う形で湯に浸かっているご老人が呼びかける。

「最近、男湯覗く奴がいるって知ってっか?」

 え、という表情で琴吹は老人と目を合わせた。

「向かいの建物から?」

()げで。窓から覗くんだと。ぶら下がって」

 アクロバティックサラサラだろうか。赤い衣装の長身女性が窓にぶら下がっているシュールな光景を琴吹は想像した。

 自分を追いかけてここにも来ているとか。

 いちいち笑いを誘う名前が緊張感が無くて困るが、ここは走って逃げるのは難儀そうな老人が多い。もし悪皿ならえらいことなんじゃないかと思う。

「い……いつから」

「十日くらい前がらって言っだかな」

「……へえ」

 琴吹は適当に相槌を打った。自分が山で目を合わせる少し前だが。

 老人が頭に乗せたタオルを直す。

 タオルを湯船に入れてはいけないが、頭に乗せるのはOKらしい。

 のぼせ防止に乗せている人がたまにいる。

「源泉引いてる(くだ)通って、ここまで来たって言ってる奴がいるんだとな」

 琴吹自身は山に行った際に源泉を見てはいないので、管がどの程度の幅なのか知らないが、通れるんだろうかと思った。

「それ、いず……湯守さんって知ってるんですか?」

「知ってんでねえの? ねっとに載ってんだがら」

 ご老人がそう言い、頭のタオルを直す。

「ネット……」

 琴吹は思わず口元を歪めた。ご老人のイメージに合わないが、先入観でものを見るのはやめた方がいいなと自分に言い聞かせる。

「そ、その覗く人と目が合ったとかいう人は」

「いる訳ねえべ。そんな変態、誰も目ぇ合わせね」

 ご老人は気持ち悪そうに眉を寄せた。

「うちの近所の新婚さん住んでる家にも、ベランダで下着盗んで飛び降りで逃げた奴いる」

「はあ」

 今のところ悪皿が下着を盗むと解説したサイトや動画は無い。そちらは本当に変態なんだろうなと琴吹は思う。




 ご老人が湯から上がった後、琴吹は窓の外をじっと凝視した。

「御札はどうしたの?」

「えと、脱衣場に……」

 突然頭上から聞こえた女性の声に、琴吹は動揺して身を縮めた。

 妃永(ひなが)が大蛇の下半身を伸ばし、男湯と女湯を隔てる壁から身を乗り出している。

「大丈夫。着けてまぁす」

 得意げにボリュームのある胸に巻いた(かさ)模様の手拭(てぬぐ)いを見せる。

「ほほほ他の入浴客の人って、ひひひ妃永さんのこと知ってるんですかっ?」

 咄嗟に湯船に飛び込みながら琴吹は問うた。

「うぅん……」

 妃永が長い髪を掻き上げ首を傾げる。

「知ってる人と知らない人いるかな」

「あのご老人はっ」

 琴吹は脱衣場の椅子に座り湯冷まししている老人を指差した。

 妃永が上半身を上下させ老人の横顔を見る。

「ああ、あれは知らない人ね」

「知らない人がいる所では不味(まず)いんじゃないでしょうかっ」

 琴吹は声を潜め咎めた。

「大丈夫ぅ。この辺の人なんて、山楝蛇(やまかがし)くらいなら平気で(やぶ)に入るとこ見送ってたりするわよお」

「ひ、妃永さんはヤマカガシなんですかっ」

「ううん、青大将」

 妃永がにっこりと笑う。

 何の話だっけと琴吹は思った。

「聞いてたけど、ここから男湯覗く女いるの?」

 妃永が大蛇の下半身を這わせ、窓辺に移動する。窓から少し身を乗り出した。

 向かい側の建物から絶対見えてます、と琴吹は脳内で咎める。

「ふてえ女だわ」

 窓辺で腕を組み、妃永がふんっと鼻息を鳴らす。

 ご自身のしていることは、一体何なんでしょうと琴吹は内心で突っ込みを入れた。

 その窓辺の上から。


 長い黒髪が、すすっと落ちて来た。非常に痩せた女が、逆さまにぶら下がる。


 なぜか逆さまになっても落ちない大きな赤い帽子、赤いノースリーブのワンピース、細面の顔に付いた空洞のような不気味な黒目。

 琴吹は湯船で立ち上がり、脱衣場の方向に後退った。

「ア……アクロバ……えとえと」

「出たわね痴女!」

 妃永が叫んだ。

 ご自分は何なんですかと琴吹は再度突っ込みを入れる。

「気に入らないね! あたしの覗きパラダイスを荒らす新参妖怪なんて!」

 覗き目的でいつも来てたのか。琴吹は顔を歪ませた。

 妃永の口が変化する。

 横に大きく割れ、目元が釣り上がり縦長の瞳孔の入った金色の目に変わった。上下に大きく開けられた口には鋭い二本の牙が生え、物騒な匂いのする唾液が滴っている。

 凄まじい速さで妃永はアクロバティックサラサラに飛びかかると、頭部に牙を突き立てる。だが、すんでのところでアクロバティックサラサラは牙を避け、窓にぶら下がった。

「逃げんな!」

 狭い入浴場で妃永が大蛇の下半身をうねらせる。

「おおおお俺、泉さん呼んで来ます!」

 琴吹は湯船から上がると、全身ずぶ濡れの身体にタオルだけを巻いて脱衣場に出た。

「なんだべ、あのテカテカ何だ?」

 のんびりと妃永の青緑の(うろこ)を眺めるご老人に、琴吹は咄嗟にバスタオルの下に置いていた御札を押し付けた。

「これ持って早く逃げてください! 服も持って!」

 そう言い、湯守のいる建物までの石段をタオル一枚で駆け上がった。





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